セキガエ

床崎比些志

第1話

冬の体育館。仲間とバスケをしていると、もやの中から学級委員の洋子が目の前に現れた。

「先生がよんどるよ」

 洋子はいつもながらの有無を言わせぬぶっきらぼうな口調でそういって、一方的に僕の腕を引っ張る。

「なんだよ」

「今日はセキガエの日でしょうが」

 といってフンと笑った。


 セキガエ――そうか、今日は席がえの日だ。その言葉を聞いたら、なんだかわけもなく急にうれしくなった。


「なに、ニヤニヤしとるん?」

 洋子の目も声も氷のように冷たい。

「うっせえ!」

 僕は甲高い声を荒げた。


 そして、洋子と肩を並べながらもやに覆われた長い渡り廊下と階段を歩いた。ほんのりと洋子のうなじあたりから漂う石鹸の香りが、鼻先をくすぐる。


 長いけど、同じ場所をどうどうめぐりしているような感覚。遠い昔なのに未来なような風景。早く終わってほしいと感じながらこの時が永遠につづいてほしいとおもうひと時ーー。


 そして教室に入ると、土居チューこと土居ただしが僕の前の席にすわっていた。僕の後ろには洋子の親友の武智幸子と三谷真理子が並んで座っている。それにしても、僕のとなりはだれだろう?とおもって横をみたが、だれもいない。


 校庭から僕を呼ぶ声がきこえた。僕は立ち上がって教室を出ようとする。すると背後から二の腕を乱暴につかまれた。僕はその腕をふりほどきながらふりむくと、洋子がじっと僕の顔を指さしシッシッシと笑いながら怖い表情でなにかをつぶやいた。

「……」

 雑音が混じってよくきこえない。しかも息苦しい。しかし、への字型の薄い唇の動きは、確認できた。

「お・ま・え・も・だ」

 そう聞こえた――。


 目をさました。――胸のうえに四歳になる娘がパパ!パパ!と連呼しながらのっている。夢だった。二十年前の夢を見ていたのだ。しかし、二の腕にかすかな痛みが残っていた。


 洋子は、きっと、今も僕のことを許していないのだ。さんざん迷惑をかけておきながら、病院にも顔を見せず、葬式にも来なかった僕のことをーー。


 鶴本洋子は、東京の大学を出たあと、地元である松山の会社に就職した。けれど一年もたたないうちに突発性の頭痛におそわれ、あっけなくこの世を去った。脳腫瘍だった。ーーもう十二年もまえのできごとだ。

 

 翌日、松山から僕宛に一通の封筒がとどいた。差出人は中学の同級生。


 封筒には同窓会の案内が同封されていた。なんだか洋子によばれているような気がして背筋が一瞬つめたくなった。


 それから洋子が夢に現れることはなかった。けど同窓会に行くつもりはなかった。その夢さえ見なければすぐにでも欠席の返信を送っていただろうけど、洋子の夢がどうしても引っかかってすぐに決めきれないでいた。


 翌週、同じ会社に勤める土居チューから電話があった。自分もちょうどこのタイミングで帰省するので、ぜひ僕にも同行することを勧めた。最初は笑ってとりあわなかったが土居チューがあまりに熱心にくどくので、むげにはことわりきれなくなった。今さら中学時代の友達に会いたいとはおもわなかったけど、もしかしたらずっと胸につかえてきたみじめな思い出を清算できるいい機会になるかもしれないという期待も芽生えた。


 ――それから一月後、まよいながらも僕は最終的に土居チューの強引な誘いを断り切れず、同窓会に参加することになった。


 そして二十年ぶりにずっと避けてきた四国の土を踏んだ。


 松山市内の大街道にある小料理屋で開かれた同窓会には、懐かしい旧友や恩師が、二十年ぶりに顔をそろえた。


 昔以上に威勢も羽振りもよく、顔色も若々しくあかぬけた奴もいればすっかり頭がハゲ上がってビール腹の奴もいる。昔と全然変わらない奴もいれば、ある者は、かたく口を閉ざしたままじっと目の奥でなにかを訴えようとしている。ことのほかこれまでの不幸を強調しつつ痛々しいばかりに自分の過去の実績に固執する奴もいる一方で、そいつを見ていると、あたかも大人になることをあえて止めてしまったのではないかと錯覚させる者もいた。


 とりわけ、すっかり老けこんでしまった恩師から、「えっと、どなたでしたっけ?」と他人行儀に真顔でたずねられた時には、つくづく二十年という歳月は平等にみんなの頭の上に降りつもったわけではないのだとおもった。


 ――その翌日、飛行機の出発まで時間があったので、武市幸子と三谷真理子、土居チューの四人で郊外の共同墓地に眠る洋子の墓参りをすることにした。 


 墓地にはなつかしいオレンジ色の電車で出かけた。伊予鉄の車窓から眺める景色はみなやさしい。お城山と興居島と潮風がまるでお帰りなさいと自分をむかえいれてくれているような気がした。


 僕がこの町に住んだのは、ほんの四年あまりである。小学校六年生のとき、父の転勤で縁もゆかりもないこの町へひっこしてきた。中学にあがってからも、部活にもクラスにもなかなかなじめず、結局、中学卒業と同時に逃げるようにして東京にまいもどった。


 僕の中学時代は思い出すのもいやになるほど、なにをやってもうまくいかなかった。そんな自分の対極にいたのが鶴本洋子である。洋子はいわば非の打ちどころのない優秀な女子生徒で、自分など何をやっても歯が立たなかった。勉強はもちろん、作文コンクール、書道展、百メートル走、持久走、幅跳び、水泳大会に口げんか……どれもいつも完敗だった。


 とりわけ印象に残っている出来事がふたつある。東京から引っ越してきて最初の学級員選挙と腕相撲大会だ。


 僕は東京から転校してきたことを鼻ににかけた嫌な転校生だった。まわりがじろじろ見るのも自分が羨望の的になっていると勝手におもいこんでいた。だから転校早々、クラスの学級委員選挙に立候補した。対抗馬は女子一人。自信満々だった。


 しかし結果は惨敗。41対4という歴史的大敗だった。そしたら、あわれにおもったのか、対抗馬の女子生徒が、ぜひ二人で学級委員をやりたいと先生に提案してくれたのだ。ーーそれが鶴本洋子との出会いだった。


 それからしばらくした雨の日、予定されていたプールが中止になったため腕相撲大会が開かれた。そして、それぞれの予選を勝ち上がった男子の代表と女子の代表が決勝戦をおこなうことになった。それが僕と洋子だった。


 当時の僕は太ってたので、腕っぷしだけには自信があった。洋子は上背こそ大きかったが、腕は細かった。それに女子である。クラス委員選挙の借りもあったし絶対に負けるわけにはいかなかった。


 決勝選は予想以上の熱戦だった。しかし、結論からいうと僕は負けた。しかもあとで聞いたら、洋子は左利きだった。つまり利き腕ではない右手で僕をひねり倒したのだ。


 そんな洋子にも一度だけ、心から勝ったと胸をはることのできる思い出がある。


 中学三年の校内球技大会でのソフトボールの決勝戦だった。


 洋子はソフトボール部のエース。球の速さという点では、県下一とまでいわれていた。


 洋子のライジングボールはうなるように胸元でホップする。案の定、洋子の前に味方はひたすら三振の山を重ねていた。野球部の四番打者でさえバットに当てることすらできないのだ。


 そして0対0で迎えた最終回の攻撃。ツーアウト後の打者が僕だった。


 あっというまにツーストライクに追い込まれた僕は、がむしゃらに洋子の投じたライジングボールに食らいついた。そしたらーーそれがさよならホームランになった。まぐれあたりだったが、その時の手の感触とチームメートの喝采と土の匂いとマウンドに立ちつくす洋子の茫然とした表情は、今も忘れられない。


 それは自分の中にあるもっとも輝かしい青春の記憶といえるかもしれない。逆にいえば、そんなことぐらいしか記憶に残っていないぐらいに洋子への日常的な敗北感は根深く、かといってそれ以外にこれといった思い出があるわけでもない淋しい青春だったということなのだ。


 洋子が眠るお墓は、市街地を流れる河川の土手沿いにあった。古色蒼然としたたくさんの先祖代々の墓石に囲まれる中、みかげ石でできたその墓はひときわ新しく、心なしか居心地が悪そうに感じられた。


 ここに来るのがずっと怖かった。洋子の夢を見たからというよりも、いつまでたっても大人になりきれない自分に向かいあうような気がしていたからかもしれない。


 そういえば、最後に洋子に会ったのは、彼女が死ぬ半年前だった。大学ストレート進学者の卒業前に上京組だけのクラス会が渋谷で開かれたことがあった。同じゼミの土居チューといっしょに参加したら、そこに洋子がいた。


 僕はまだ私立大学の三年生だったけど、国立大学に通う洋子は四年生で就職も決まっていた。うっすらと化粧を施し、紺のスーツに身をまとった洋子は大人びて見えた。僕は、話しかけることができなかった。


 正直に告白しよう。洋子は僕の初恋の相手だ。小学六年の時、ふたりでクラス委員をやったときからずっと好きだった。


 洋子は決して異性受けするようなかわいい感じの女の子ではなかった。色黒で、大柄で、無表情でしかも横顔がケンシロウばりに角ばっていたから、男子からはむしろ恐れられていた。実際、気も腕力も強かったので、僕とも口喧嘩がたえなかったけど、陰湿なところはまったくなく、どんなにののしりあっても翌日になるといつもケロリとしていた。

 

 そしたら、いつしか僕は鶴本洋子のことばかりかんがえるようになっていたのだ。


 でも、純粋に恋していたのは、小学生の時までで、中学生にあがると、羨望と嫉妬が勝るようになり、二年生になると、それが敵意になり、三年生になると、もはや屈折した想いすら見いだせないほど僕にとって彼女は雲の上の人になっていた。もちろん、告白したこともなければデートに誘ったこともない。


 その時も、僕の気持ちの中にかすかな想いはまだ残っていたけど、とても自分から話しかける勇気はなく、そのまま飲み会はお開きになった。

 

 みんなは二次会のカラオケになだれこみそうな勢いだったが、僕はお金もなかったので帰ることにした。店先の路上で会計待ちをしていたら集団から離れたところに立っていた僕のところに洋子がズカズカと近よってくる。そして赤ら顔で僕を見上げてフンと笑いながら、

「おおきゅうなったねえ」

といってそのままみんなのところにもどっていった。


 それが僕が彼女とこの世で交わした最後の会話になった。


 僕らは、その墓石のまえで、一列に並んで手を合わせた。僕は心から洋子の冥福を祈った。ただなんといっていいかわからず、ごめん、ごめん、となんども心の中でつぶやいた。

 

 臆病な僕は、もしかしたら洋子の霊が僕の心の隙間にもぐりこんでくるのではないかと心配もしたが、結局なにも起こらなかった。


「よろこんどるよ、洋子。あんたら二人が来てくれて」

 武市幸子がそういうと、そのとなりで土居チューが鼻をずるずるさせながら泣いていた。


 ――墓参りのあと、みんなで母校に立ち寄った。


 僕にとっては二十年ぶりの校舎。今までなんども夢に出てきたけど決してもう現実に見ることはないと思っていた夢の中の遺構だ。


 あの頃のしみったれた不安や悩みやあきらめがまだずっと膝っこぞうを抱えたままそこに残っているような気がした。


 けれど二十年ぶりに訪れた校舎はあっけないほどに明るく、そして小さく感じられた。校舎は僕が考えるほど、僕のことをいつまでもかまってくれているわけでないようだった。


 当時のままの教室に入るとなにもいわないのに、四人とも夢で見たとおりの席に腰かけた。その時はじめて、三人とも自分と同じ夢を見ていたことを知った。


 僕はだまって誰もいないとなりの席を見つめていた。すると、幸子がいった。

「洋子だよ、洋子。私の夢の中では、そこにうれしそうに座って、教科書広げとったよ」

「なんで鶴本がおまえのとなりなんぞ」

 土居チューの疑問は僕自身の疑問でもあった。

 すぐに幸子が真理子に目配せした後、僕を見ながらいった。

「しらんかったん?洋子、あんたのこと気にいっとったんでえ。あんな性格やから、素直にゆうたりはせんかったけど」

 真理子が微笑みながらうなずく。


 そういえば遠い昔にこれと似たようなことがあったことを思い出した。


 あれは秋の文化祭の放課後のことだった。一人教室の前の廊下を歩いていると目の前をひらひら紙っぺらが舞っている。よく見ると一万円札だ。僕はすばやくひろいあげた。そしてまわりに誰もいないのを確かめてポケットに入れた。


 その時、教室に面した掃き出しの引き戸が開いた。おどろいたことに、そこから洋子が床をはいながら顔を出した。そのあとを幸子と真理子が芋虫みたいにぞろぞろ続いた。


 洋子は立ち上がるとシッシッシといつものようにきみの悪い声で笑いながら僕の顔をじっと指さした。僕はなに食わぬ顔で目をそらしたが、幸子と真理子が互いに目配せしつつ必死に笑いをこらえている。


「ばーか、偽札だよーん」

 洋子はそういうと人さし指で鼻をこすりながら、ほんの少しばかり顔を赤らめ、にっこりと笑った。そしてくすくす笑いをし続ける二人といっしょに廊下の反対方向へ走り去った。


「そういえば、おまえら、偽札でオレのこと、はめたことあったろう」

「ああ、あった、あった。あれを考えたのも洋子やったねえ」と幸子。

「うん、そう、そう。でもあんた、アホやったなあ」と、おとなしくそうに見えて実は三人の中でもっとも冷酷な真理子。


「どこがよかったんかのう?こいつのーー」

 土居チューはどうしても納得がいかないようだった。すると幸子が、僕の顔をのぞき込んだ。

「絵よ、あんた、絵だけは上手やったやろう?」

 だけは、余計だが、たしかに小学校の時、一度だけ県の展覧会で入賞したことがある。

「洋子、あれで絵がちょーヘッタクソで、いっつもお父さんに宿題とかは手伝ってもらっとったんで。よっぽどショックやったんやろねえ、あんたの絵を見て。心底感動しとったんよ。あの子、きっと天才やわ、って」


 実は、よくよく聞くと、洋子は、ものすごく臆病で心配性で、とくに異性に対してはとても奥手で、さらに片付けが苦手だったらしい。完璧に見えた洋子にも欠点はあったのだ。完璧な人間など、やはりいないのだとあらためて思った。


「でも、大学時代にも社会人になってからもちゃんとお付き合いしてる人はおったでえ」

 と僕の心のうちの淡い期待を見透かすように真理子がグサリといった。


 そして幸子は、僕へ一通の白い封筒をさしだした。

「洋子から送られてきたんよ、今年の正月に」

 それは、すっかりわすれていたが、中学の卒業式の日に投函された二十年後の自分に宛てた手紙だった。たしか、僕自身でも書いたはずだが、なにを書いたかまったくおぼえていない。もしかしたら白紙だったかもしれない。どちらにせよ、きっと宛先不明で焼却されてしまっただろう。


 しかし洋子が自分自身に宛てた手紙は本人がもうこの世にいないというのにきちんと二十年後に配達された。その封筒の表書きに記されたさっそうとした筆跡は、たしかに見覚えのある洋子のものである。その封筒の中に、幸子と真理子宛の手紙といっしょにどういうわけか僕宛の手紙が入っていたらしい。

「洋子のお母さんから預かってきたんよ。読んでやって」


 二つ折りの手紙を開くと、石鹸のにおいが俺の鼻先をくすぐったような気がした。


『元気にしてますか?しっかり、がんばってくださいや。未来のおおよもだくん。では』


 よもだ――ひねくれものとか、お調子ものとかを意味する伊予弁である。当時もあまり使ったおぼえはなく、この二十年間はまったく耳にしたことすらなかったので、その意味さえ一瞬思い出せなかったが、思い出したあとも我が目をうたがいたくなった。


 ――これで、おわりかよ。

 内心、さらなる衝撃の告白を少なからず期待していた自分がほんとうの大よもだである。

 

 が、そこで、気づいた。そうか――夢の中で洋子が発した最後の言葉は、「おまえもだ」ではなく、「おおよもだ」だったのだと。洋子は僕のことをうらんだり憎んだりしていたのでなく、あの世に行っても、昔と変わらずおもいっきり親しみを込めてガキ扱いし、馬鹿者呼ばわりしてくれていたのだ。   

 

 ふいに胸があつくなり、真っ黒に日焼けした洋子のいたずらっぽい笑顔がまるですぐ目の前にいるかのような鮮やかさで頭の中にうかんだ。 


「おおう!オレには一言もないんかっ?」

 僕の前の席につっぷしたまま土居チューが声を上げてうめいている。幸子と真理子が笑いながら両脇から土居チューをなぐさめていた。


 そんな三人の様子をぼんやりながめながら、ずっと孤独だと思ってきた自分の青春時代も実はけっこうまんざらでもないのかもしれないと思えてきた。そして昔も、そしてもしかしたらきっと今も、僕自身の知らないところでさりげなく僕のことを気づかってくれている人がいると思ったら、なんだか少し元気がでた。


 (了)

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