ヨモツヘグイ その二


 日向史郎ヒュウガシロウという人物にとって、家族という言葉はもともと、あまり幸福を意味するものではなかった。 


 裕福ではなかった子供時代。生活は苦しく、家で食事が出ない日は珍しくなかった。親はそれでも、慎ましやかながら家族が揃って暮らせることを喜んでたようだが、彼はむしろ、そんな生活を自分に強いてくる怠惰な親を憎んでいた。


 いまに見ていろ。


 俺は、あんたらとは違うんだ。必ず、大きくなってこんなどん底の生活から這い上がってやるからな。いまに見ていろ。


 成長してからはがむしゃらに働いた。進学などする余裕もなかったのでとにかく働いた。働いて、さっさとあの家を出たかった。あの家族の元から離れたかった。


 何かに集中するのに一番の燃料は怒りだと彼は今でも信じている。この歳になった今でも。一緒に働き始めた同期に比べて、彼の職場での成長は圧倒的だった。年齢が若かったせいということもある。だが、それ以上に彼を駆り立てたのは憤怒だった。逆境から必ず抜け出してやるという憤怒。彼は凄まじい集中力で周囲を観察し、貪欲に知識を吸収していった。社会人として必要とされる言葉づかい、丁寧な物腰、人に不快を与えない身だしなみの整え方や、勤勉な態度。


 彼の起源に憤怒を抱えていたが、同時に間違いなく優秀な人物でもあった。


 その甲斐あってか、数年もすると彼は周りに重宝されるようになった。上役の傍で小間使いのような仕事を任されるようになり、その縁で取引先の御令嬢に見初められた。


 幸福だった。


 今までの苦労と努力が初めて報われたような気がした。妻は病弱だったが若く美しく、古い家の血筋の娘だった。家を継ぐために婿入りをしてほしいと言われ、なんの否やもなく頷いた。家や両親を捨てることに、躊躇いは一切なかった。


 全てが輝いて見えたのは、しかしほんの一瞬だった。


 ほどなくして妻は身ごもったが、子を産み呆気なく命を落とした。妻は病弱で多くの服薬を必要としていたが、腹の赤子はその薬に耐えられない。そう聞いて、彼女は何の躊躇いもなく自分の命を放棄した。夫である自分よりもまだ生まれていない赤子の方が、二十年生きてきた自分の命よりまだ顔を見てもいない子供の方が、彼女にとっては価値のあるものだった。死病に蝕まれ苦痛の中で子を産み落とし、満足して逝った。


 臨月間際になると、胎児に栄養を取られた顔はひどくやつれてガリガリで。もはやかつての美しさの欠片もなくなった中、ただ瞳だけが別の生き物のように爛々と輝いて。狂気に満ちた安らかな鬼面で、彼女はああよかったと安堵の息を吐いた。


 これで血を繋げられた。これで家を続けられた。私は役目を果たせた、と恍惚の表情を浮かべて満足して逝った。その末期の瞬間に、夫である自分の存在は映っていなかった。


 愛していたのに。


 子供なんかまた作ればいい。生まれていない子供よりも妻を、彼女を愛していたのに。


 生きていてくれれば、それだけでよかったのに。


 だからだろうか。母の命を喰らって生まれた我が子を、彼はどうしても好きになれなかった。


 子供は母に似て病弱なところがあったが、それ以外は完璧だった。むしろ、その病弱さ不自由ささえも、楽しみとするような豪傑だった。


 だってさ。これで私が健康で健康な身体の持ち主だったら、他の人に対してあまりにも不公平ってもんだろう? これくらいの難易度があるから、人生っていうのは楽しみがいがあるんだ。


 高熱を出しては寝込み、何度も死にかけながら、そんな自分の虚弱さえもあっけらかんと笑い飛ばす。そのあまりに逸脱した精神は、我が子ながら到底人間のものとは思えず、素直に気味が悪かった。だからそんな娘が家を飛び出した時は内心でほっとした。


 日向は女系の同族経営企業だったので、入り婿の彼は外様の中継ぎと揶揄されたりもしたが実力で黙らせた。彼は確かに入り婿で一族の血を引いてはいなかったが、同時に間違いなく優秀な人物でもあった。


 妻を亡くし子を失い――それでも彼は、精力的に働いた。もともと、企業人として才能もあったのだろう。彼の代で家はますます繁栄し、日向の名は大きくなった。外様と揶揄する声はいつの間にか聞こえなくなっていた。


 古い人間の中には反発する者もいたが実質、日向の家は彼のものになっていた。


 遂に自分は人生に、運命に勝ったのだ。


 サクセストロフィーたる妻は失ったが、それ以外は全て手に入れた。地位、名誉、財産。そして由緒ある家柄。かつて貧困だった幼少期に望んだ全て。それらはもともと全て妻のものではあったが、いまとなっては彼のものだ。あとは自分の子供に跡を継がせれば残りの人生は安泰だ。愛人の誰かに子供が生まれれば、養子として引き取ろう。


 だが奇妙なことに、結局最初の娘以外一人として子供は生まれなかった。何人愛人を囲っても一人も。あるいはそれは、妻のかけた呪いだったのかもしれない。他の血を混ぜるな、と。


 この家を、一族を、財産を、自分の産んだ娘以外に譲り渡すなという、命を懸けた妻の最期の願い。命を賭した彼女の呪い。


 そのことに気づいた瞬間、老人は急に恐ろしくなった。


 仕事をすればするほどに、日向の家が彼のものになればなるほどに、妄執は強くなっていく。末期の妻の、あの満ち足りた安らかな鬼面が、恍惚とした死に顔が脳裏に張り付いて離れない。 


 あれほど望んでいた恵まれた暮らしは、いつしか強迫観念のように彼を苛むものになっていた。


 駄目なのだ。


 


 妻の血を、妻の命を継いだ者に、この家を渡さないと――


 だけど娘はにべもなかった。それは相続の話を持ちかける前から分かっていた。あの化物には執着がない。一人で完成し、一人で完結しているあの人類最終形体には。何もこの世に残せないという恐怖を――自分の存在した証を残せなかったという恐怖を、あの化物は理解しない。


「跡を継げだぁ? 何年かぶりに連絡してきたと思ったら、随分と馬鹿なことを言いだしたものだなあんた。別に形式なんぞに拘る必要はない。肝心なのは母が生んだ私が、今もこうして生きているっていうことだろう。家だの財産だの、そんな邪魔くさいものは欲しい奴に譲ってやればいいのさ」


 心配しなくても、母のくれた命はちゃんと私に繋がっている。


 だから、それで充分だ。


 きらりと無駄に歯など煌めかせつつ、まったく話し合う余地のない娘の言葉は、だから実のところ、予想していたことでもあった。


 そうだ。どうせこの化物には分からない。


 天空で誇らしげに輝く太陽は、地上に生きる矮小な人間の苦悩など理解しない。だから。


 娘が駄目ならばそのに。


 間違いなく妻の血を引く孫娘に、この家をきちんと継がせなければ。


 なんとしてでも。


 何度失敗してでも必ず。小夜香を手に入れるのだ。さもないときっと。


 この呪いは、解けない。





「――それはあなたの妄執です。死者は所詮死者にすぎない。心配しなくても、あなたに呪いなんてかかってませんよ。日向さん」


 唐突に。


 声に出した覚えのない思考に返ってきた聞き覚えのない声に、老人は思わず顔をしかめた。


「――貴様」


「こんばんは。いい夜ですね。日向さん」


 一体いつからそこにいたのか。


 人畜無害を絵に描いたようなふぬけた顔の青年は、そういってにこりと微笑んだ。


 確認するまでもなく、そこは老人の住むマンションの一室だった。眺望が値段の一部に含まれているこのマンションは、普通よりも窓が大きく誂えられている。青年はその広い窓の外に広がる夜景を背景にして、足を組みながら優雅にソファに腰かけていた。地上の灯りと窓から注ぐ月光に照らされて、青年の輪郭がうっすらと夜の闇に浮かび上がって見える。組んだ足のつま先が、子供のように落ち着かなげにぶらんぶらんと揺れている。


 老人は思わず――それは地位と名誉と財産のある自分に相応しくないことは承知していたが――忌々しげに舌打ちをした。


 おおかた、エントランスのコンシェルジュが口先で誑かされてこの若造を中に入れてしまったのだろう。誰も入れるなと厳命してあったのに。入口に警備員を設置し、セキュリティの高さを謳っているこのマンションだが、実のところ監視網を潜り抜けるのはさほど難しくない。宅配業者のふりでもすれば意外と簡単に入れてしまう。


 これでは一体、何のために高い金を払っているのか、と思う。あとで厳重に抗議しなければ。それよりもっと忌々しいのはこの目の前の若造だった。招かれてもいない他人の家にあがりこんでおきながら、悪びれた様子もない。


 あまつさえ、飄々と続けてきた。


「さっきの話ですけどね。いまの日向さんに奥方の霊なんてついていませんよ。ええ、この俺が言うんですからそれはもう間違いないです。こういうの視るの昔から得意なんで。確かに世の中にはたまーに、死んだ後にもこっち側に居座ってる迷惑な霊もいますが、何も死人が全員、死霊になるってわけじゃない。奥方はあなたには未練なんてこれっぽっちもなかったみたいですね。遺していく娘が結唯一の気がかりだったそうですが、成仏の妨げになるほどの懸念ではなかったようで」


 あっけらかんと言い放つ。へらへらとしたその口調が妙に癇に障った。


「ほぅ。ならば妻はいま娘の方にでも憑いているというのかね?」


「や。それもないです。あの人は太陽なんで。別に害意がなくても、死霊っていうのは基本的に陰属性ですからね。祖霊が守護に憑こうとしても、相手が彩華さんである限り見境なく焼かれます。彼女の陽気はそこまで強い」


 だから俺としても正直、ちょっと傍に居づらいんですよね……、と青年は困ったようにぼやいた。


 どこか見覚えのある青年だった。


 太ってもいないし痩せてもいない。座っているので背丈ははっきり分からないが――勧めてもいないのに勝手に、だ。しかも挨拶の時に立とうともしない――身長もそこまで低くはないだろう。あるいは単純に胴長短足なだけという可能性もあるが。瞳と髪は黒く、特に整っているわけでもないが幼い顔立ちをしている。髪の毛が猫の毛のように跳ねているのは寝癖なのか癖っ毛なのか、どちらにせよだらしない。


 つまりはどうということもない、特に特徴らしき特徴のない男、というのが老人の抱いた印象だった。一応、成人してはいるようだが、自分の会社にいたら昇進は係長程度までといったところか。


 じっと観察するこちらに不安を覚えたのか、若造は少し首を傾げて――日本男子たるものがなんという女々しい態度だ――尋ねてきた。


「あの……大丈夫ですか? 俺のことちゃんと分かります?」


「……貴様、誰だ?」 


 まったく分からなかったので素直に問いかけると、小僧は怯んだようだがすぐにぐっと顔をあげると、胸の前に手を当ててうやうやしく頭を下げた。騎士のように、と言いたいところだが、顔の造りがどうにも情けないので道化のようにしか見えない。本人に自覚があるかどうかは知らないが。 


「……失礼しました。改めまして、間宮春明と申します。先日、お孫さんの件でこちらにお邪魔した」


「……ああ。どこぞで見覚えがあると思ったらあの辻占の。兄と比べてどうにも盆暗で影が薄かったので、記憶に残っていなかった」


「うぐっ」


 ありのままの感想を漏らすと、小僧は突然何かに撃たれたように苦しげに胸を押さえた。さほどおかしなことを言った覚えもないが。


「……で、その出来の悪い方が私に一体何の用だ? 小夜香の件ではした金でもせびりに来たか」


 さすが霊能なんて如何わしいもので金稼ぎをする賤しい家の出身ではある。軽蔑を込めて睨みつけると、相手はこちらの意図が通じていないのか愚鈍そうな笑みで首を振った。


「いいえ。くれるっつーなら貰いますけど、実は俺、そんな金には困ってないんですよ。とある事情で、ガキの頃に実家からそれなりにまとまった退職金を貰ってまして」


「ふん……ならばなんの用だ。貴様と違って私は忙しい。無駄な時間を取らせるな」


「何の用、と言われましても。それは勿論――」


「大体、さっきから黙っていればその態度は一体なんだ? 挨拶をするに席も立たない。人と話すのに背もたれにふんぞり返ったまま座る。目上の相手と話す時の礼儀も知らんのか小僧!」


「え、ええええー?」


 一喝してやると、小僧はいままさに決め台詞を言おうとした三流悪役のような顔で驚いた。


 間抜けな顔で「え、嘘そこ? 突っ込むところそこなのこの場面で。もっと他に言うことないの?」などとゴチャゴチャ抜かしながら、言われてもなお姿勢を正そうとしない小僧に苛立ちが募る。育ちが知れる、とはこのことだ。どうせちゃんとした大人に叱られることもなく育ち、ロクな躾もされていないのだろう。


「椅子に腰かけるときはまず深く座れ。尻を背もたれにしっかりくっつけて背筋を上に伸ばす。猫背になるな背もたれに寄りかかるな。 胸を張って顎を引き、肩を気持ち下げて上半身を真っ直ぐの状態で保つ。これが正しい座り方というものだ」


「あ、ハイ」


「あと足を組むな。手すりにもたれかかるな。見ていて不愉快だ。まったくもってだらしない。貴様は仕事で顧客と話をするときに足を組みながら話すのか? そんな態度の社員が務める会社の商品を、貴様だったら買おうと思うのか?」


「いえ、思いません。けど一応、俺だって仕事先ではちゃんと……」


「若造の分際で一人前に口答えをするな戯けが! いいか、自分では出来ているつもりでも、そういった日頃のだらしなさは無意識のうちに滲み出るものなのだ」


「は、はぁ……」


「なにがハァだ。返事はきちんとハイかイイエで応えんか馬鹿者めが。まったく、これだから近頃の若造というものは……ワシらの時代に比べて礼儀の一つもなっとらん。貴様のような情けない小僧が増えたから、この国のGDPも三位に落ち込むのだ」


「ちょ、たかが俺の姿勢一つでこの国のGDPまで語っちゃいます!? あとそれはそれとして、この姿勢結構キツいんですけど……」


「その程度で泣き言をほざくな」


 聞き入れる価値もなかったので素っ気なく切り捨てると、若造は微妙に涙目になり「うぅ……こ、こんな……こんなはずじゃ……なんで俺はいつも行く先々で色んな人に怒られるんだ……」と分けのわからぬ泣き言をほざいていた。早くも猫背になりかけている。


「それで? 脅迫しに来たのでないなら、一体何の用だ小僧。わざわざこの私の時間を煩わせるのだ。それなりの理由があるのだろうな?」


「うぅ……そう言われると別に、あんま大した用事でもないっつーか……」


「もごもごと喋るな。主張があるならはっきりと簡潔に言え」


「すいません……いやもう別に本当大したことじゃないんですけど……まあせっかくここまで来たんだし一つばかり忠告を。あんた。日向さん」


「……何?」


 疲れてる――憑かれてる?


 僅かなイントネーションの差異に顔をしかめる老人に構うことなく、若造は滔々と続けた。


「あ、憑かれてるってのは別に奥方ではなくてね? さっきも言った通り、あなたの奥様はとっくの昔に成仏してあっち側に渡ってるんで。あんたに憑いてるのは別の、もっとタチの悪いやつ」


 とんとん、と肩のあたりを指先で叩く。その仕草に、思わず自分の肩を窺うが何も見えない。


 なにも、視えない。


 青年はうっすらと笑みを深めた。


「自分で喚んだかそれとも喚ばれたのが先かは知らないが――いまのあんたには鬼が憑いてる。それも邪魅のような可愛らしい雑魚じゃない。人を祟り人を喰らう邪悪な邪悪な鬼神だ。憑いて喰らって――もう魂そのものにまで癒着してる。ここまで浸食が進むともう手遅れだ。引きはがしようがない」


「な――にを……」


「ねえ、?」


 若造は唐突に尋ねてきた。


「そ……んなこと、決まっているだろう。ワシには、この家には後継者が必要だった。娘が出奔した以上、この家の血を引くのはこの世にもう小夜香しか……」


「あー、違う違う。俺が聞いてるのは『なぜ呪ったのか』じゃなくて『どうやって呪った』のか。だってあんた別に、娘さんと違って専門家じゃないっしょ? そりゃあの母娘の血筋なんだから才能はあるにしてもさ」


「……ふん。くだらん、そんなことか。この答えは、霊能とは別に貴様らが思っているほど特別なものではないということだ。確かに今の時代、黴の生えたようなオカルト技術をあえて学ぼうとする物好きはいないだろうがな。逆に言えばあの程度、知識欲さえあれば誰でも身に着けられるということだ」


「なるほどー。つまり、自力で頑張って勉強したからプロでなくても呪術が使えるようになった、とそう仰る?」


「ああ。その通りだ。現に――」


 当然のように頷く老人の言葉を遮って。


 若造はにこやかにきっぱりと言い捨てた。





「――そんなわけねえだろボケ」

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