ヨモツヘグイ その三
「な……」
「あのねー。馬鹿言わないでくださいよ。馬鹿言っちゃいけませんよ。なんの訓練も受けないないやつがちょちょいっとネットや文献で調べものした程度で、ど素人のあんたが自力で調べられる範囲の知識で、彩華さんを呪えると本気で思ってんの? 舐めてんの? 仮にもあっちは現役プロよ? それも霊課所属の公務員様よ? 俺らの業界じゃ誰もが憧れる花形エリートが、たかが素人の呪詛に負けたって? そんなほいほいお手軽に呪術使えるなら誰も困らないっつーの。俺だってわざわざ青春時代を犠牲にして水垢離なんかしないっつーの」
若造は如何にもわざとらしくはぁーっとため息をつきながら、やれやれと首を振った。見ているだけで地味にイラっと腹の立つボディランゲージである。
「だいたいさー。そんな誰もかれもお手軽お気楽に呪詛なんか使えちゃったら、世の中大混乱じゃん。ちょっとムカついてちょっと誰かに殺意を抱いたからって、お手軽簡単に相手を呪殺出来ちゃう世の中ってそれなんてディストピア? 誰もが一人一冊のデスノ持ってる世界ってフツーに嫌でしょ。末世にもほどがあるでしょそれ。もっと常識で考えましょうよお偉い立派な社会人様よ」
「……小僧、何が言いたい?」
茶化すような物言いは素直に不快だった。老人は上に立つ者であって見下されるのは好きではない。叱責を込めて睨みつけるが、相手は特に気にした様子もなく続けた。
「だからさ、呪詛っていうのはちょっと調べた程度で誰にでも簡単に出来るようなもんじゃねぇんだよ。誰にでも簡単に出来ないから、世の中に専門家っていうのがいるんだよ。仮にあんたが史上類を見ない天才で、予備知識もなく単独で呪詛式を組み立てられるとかならともかくさ。調べたから呪えましたっていうなら、まずその前提がおかしい。だって血呪式なんてマイナー呪式が、普通にその辺に転がってるわけないじゃん。俺ですら血呪式の構成式なんて知らねえもん」
「……はァ?」
その発言が相当意外だったのか、老人は隠そうともせずに盛大に顔をしかめた。ただでさえ気難しげな顔が、不可解そうに歪む。
「何を言ってるんだ小僧。貴様の家は……」
「そっすよ。歴史だけならそれなりにふるーい代々続く陰陽師一家です。けど、その俺ですら血呪式を使ったことはおろか見た事すらないんですよ。ですから、あなたが自力で調べたって言うのなら、後学のためにも是非詳しく教えてください。どこで? どうやって調べたの? 日時は? 方位は? 依り代は? 術式は? 場所は? 呪詛ってからにはやっぱり死穢血穢は必須だと思うんですけど、どんな材料を使ったの? ホムセンで買ってきたペットを殺した? 雌雄は? 何体くらい? 生後何か月のやつ?」
「な、何を……」
「答えられるわけないですよね。だってあなたはそんなもの使ってないんだから」
「………………」
「こっくりさん程度の『ごっこ』みたいな呪術ならともかく、人を呪い殺すような呪詛式ってのは、それなりにきちんとした手順や形式が必要だ。オカルトって言葉が『隠された知識』を意味するなんてことは、今さら言うまでもないだろうが、陰陽師に限らず術者っていうのは元来、身内以外には極めつけに排他的で秘密主義な変人共の代名詞でね。百歩譲って血呪式の存在を知る事までは出来たとしよう。でも、その構成式にまでたどり着くのは絶対に不可能だ」
断言してもいい、と青年は殊更に力強く言った。
「だ、だが――私は実際に」
「ええ。そうですね。あなたにこんなこと言ったって無意味ですよね。だって、あなたは実際に出来ちゃったんだから。でもね、完全に不可能ってわけじゃなんですよ。呪詛を行うのに修練も訓練も知識も対価も必要としない。ただ思念だけで人を絶死に至らしめる呪いを放つ。そういう存在は皆無ではありません」
聞くな。聞くな。聞くな。
己の内から自分ではない警告が聞こえてる。いや、やはり自分の声か。分からない。ただ言い知れぬ不安があった。この先を。この続きを。
この若造の言葉をこれ以上聞いてはならない。
「皆無ではないんです……俺たちはね、そういう存在のことを『鬼神』と呼びます。人間に出来ることじゃない」
「お、鬼……」
「だから最初に言ったでしょう? 日向さん、あんたには鬼が憑いている、と」
青年は背筋を伸ばし続けることに疲れたのか、諦めて背もたれによりかかった。そのまま優雅に足を組む。白いスニーカーのつま先が、ぶらぶらと楽しげに揺れる。
「陰気凝れば其れ即ち鬼と成る。生成に然り清姫に然り。人が鬼と成るのってね、意外とそんなに難しいことではないんです。力というのは本来、身に刻むものであって身に巣食わせるものではない。いくらあの母娘の親だったって、いくらあんたが史上で類をみないほどの天才だったとしても、だ。なんの修行もなく気楽に呪詛を使えちゃうほど、この業界は楽じゃないんですよ。それこそ――鬼にでも成らない限り」
鬼が出るか――蛇が出るか。
出たのは結局鬼だったが。
生成り。
人が鬼神となる邪法。
「わ、私は……」
「俺に何の用かと尋ねましたね――日向さん」
ふと、青年の雰囲気が。
がらり、と変わった――気がした。
日本人らしい真っ黒な。一切の光を宿さない合切の光を飲みこむような、底なしに黒い瞳が穏やかに微笑む――待て。
その時初めて。初めて老人は唐突な疑問を抱いた。
そもそもこの若造は、一体どこから部屋に入ったというのか?
マンション内に立ち入ったところまでならまだ分かる。口先でコンシェルジュを誑かすこと自体は、可能性だけみればゼロではない。この部屋に入り込んだ点についても――合鍵を手に入れられれば可能だろう。胡散臭く如何わしい窓際部署とはいえ、娘もこの小僧の兄も警察関係者だ。その身分を振りかざせば、管理会社から合鍵くらいは手に入れられるかもしれない。
だが、その先は? 中にいる自分に気づかれずに玄関のドアをあけリビングを通り、この部屋まで侵入する? 不可能だ。いや、よしんば百歩譲って――千歩譲って、玄関の中までは入りこめたとしよう。だがこの部屋に入るには、そもそも位置関係がおかしい。
青年は窓を背にしてソファに腰かけている。伸ばした筈の背筋は崩れ、背もたれにふんぞりかえりながら。扉近くに座る自分と対面するように窓際に。
つまり、あの青年が窓際にいくためには、入口の傍にいる自分に気づかれぬように目の前を横切り奥に進まなければならない筈なのだ。
ぞっと。
背筋に突然氷塊をおとされたような強烈な悪寒が老人を襲った。
だが確かに。どんなトリックを使ったのかは知らないが、青年はこうして自分の目の前に存在している。眺望が値段の一部に含まれているこのマンションは、普通よりも窓が大きく誂えられている。彼はその広い窓の外に広がる夜景を背景にして、足を組みながら優雅にソファに腰かけていた。地上の灯りと窓から注ぐ月光に照らされて、青年の輪郭がうっすらと夜の闇に浮かび上がって見える。組んだ足のつま先から伸びる影。影が――影が。
影がない。
「――ひ」
「ああ、いっけね。久しぶりだからつい忘れてた」
老人の驚愕に気づいたのか。青年はこともなげに言って自分の足元に視線を落とした。ただそれだけ。たったそれだけで、青年の足元になんの脈絡もなく影が生える。
彼はにぱっと無邪気に笑った。
「ほら! これでオッケー大丈夫! やっぱ人間社会の中で生きていくなら、影くらいは自力でちゃんと作れなくっちゃいけませんよねー。ところでえっと、なんの話でしたっけ? あ、俺がここにきた目的か。目的ねオッケ。んー、でもさ。本当はそんなこと言うまでもなく気づいてるんじゃありません?」
だってさ、と青年がくすりと笑った。上等なツイードのコート。ジーパンに無地のシャツ。足元はスニーカー。近所に散歩に行くような軽装で、外から直接この部屋に現れたような恰好で。
「――古来から、鬼祓いは陰陽師の役目だと相場が決まっているでしょう?」
「――来るなぁ!!」
喉から絶叫が迸る。
それはもう叫びというより悲鳴だった。声をあげた瞬間に、自分の中から『ずるり』とナニカが抜け出ていくのが分かる。同時に襲い掛かる奇妙な疲労感倦怠感。しか不快さはまるでない。それは老人にとって、昔から慣れ親しんだ感覚だった。
たとえば目障りなライバル企業が業績をあげたとき。
たとえば耳障りなことばかり抜かす親戚に皮肉を言われたとき。
たとえば切り捨てた筈の両親が金の無心にきたとき。
この倦怠感のあとには必ず、物事がうまくいくようになった。
卵の殻から中身が零れ落ちるように。老人の身体から湧き出してきたそれは、一言でいうと手足の生えた肉塊だった。
顔は人。身体は獣。姿かたちは幼児に似ていて、目は赤く耳は長く、赤黒色の皮膚をしている。短い手足には鋭い爪が生えており、乱杭歯の中から凶悪に伸びた牙が覗いている。
鬼、あるいは魑魅魍魎と呼ばれるモノ。
人に憑き人を傷つけ、呪い祟りと災いを振りまく異形。
具現化された老人の憤怒がカタチを得た事象となって青年に襲い掛かる。迫りくる魑魅魍魎の群れに、しかし陰陽師は慌てず騒がずただ一言の勅を下した。
「蹂躙しろ。式」
途端。青年の影が。
爆ぜた。
部屋中を包み込むように広がった足元の影、影、影。まるでそこだけが世界と切り離されたかのような。床に壁に天井に。あらゆる場所に蔓延る闇は、やがてそれ自体が意思を持つように、ずずずずず、と一点に集い出した。蠢くように増殖し、沸き立つように蠢動し、波打つように凝縮し、うねうねとうぞうぞとぞわぞわと。震え広がりのたうちながら凝縮し、それは一つのヒトガタを成す。
凝った闇の中から現れたのは――完全な美の極地。そのものだった。
天から降り注ぐ月光をそのまま紡いだかのような金糸の髪。淡い光を放つそれは清流のようにゆるやかに足元まで流れている。まばゆいほどにすべらかな肌。その上を彩るのは絢爛な綾錦だ。しどけなく着崩した胸元から、豊かな双丘が半ば以上のぞいている。
優美な曲線を描く腰のあたりからは、髪と同じ色をした金毛の尻尾が扇のように広がっており、形のよい頭頂部からは、やはり髪と同じ色の三角の耳がピンと伸びていた。
泥中から咲く蓮のような。
奇跡のように美しい異形。
紅をはいたように朱い唇が魅惑的な弧を描く。白魚のごとき繊手が扇をかざし、ひいらり、ひらりと優美に舞う。
それだけで。
いままさに。その醜悪な爪でもって、その凶悪な牙でもって、彼女の肉体を引き裂こうとしていた邪鬼共が一斉に飛散した。
星屑のように砕け散って。
さらさらと崩れ落ちきらきらとした粒子となって、無形となった妖たちは、虚空に溶けて紛れて消えてゆく。
「な、な、な、な、なああああああ――!?」
狂乱の悲鳴をあげる老人には一瞥もくれずに、舞終えた黄金の狐はすっと一歩退いた。入れ替わるように、それまでだらりとソファに座り込んでいた青年が立ち上がる。
「腹が減っていたんですよ」
彼は静かな声で言った。
「腹が減っていたんです。ずっとずぅっと腹が減っていたんですよ。こう見えてもっつーかほら、俺って見ての通り厳しく躾けられて育ったもんですから、勝手なつまみ食いとか禁止されてて。家で許可されたものしか食べられないんですよ。ひどくねぇ? こっちはずーっと飢えっぱなしだってのにさ」
暗闇の中で、青年の瞳だけが奇妙に爛々と輝いているのが見えた。ヒトというよりもそれはまるで。
──獣のような。
ガチガチガチ、と恐怖に歯が鳴る。この感覚は知っている。
たとえば娘。たとえば娘。あの強大な。あの奔放な。明らかに自分とは異なる存在に――明らかに人ではない異質な存在と遭遇したときの吐き気がするような緊張感と酷似している。それでいて、目の前の青年がまき散らすものは娘とは真逆だ。
娘がただの超越者――生まれつき到達しすぎた、並び立てるものがいないが故の非人間だとしたら、この青年はもっと邪悪な何かだ。まるで、もとは人であったはずの中身をすりかえて、人間の皮を被せただけのような。
先天的な人類の進化種と、後天的に変質した異形。
同じヒトから生まれ落ちた人外でも、その在り方が真逆にして対極のもの。
青年が歩き出す。びくりと老人が後ずさる。
「だからね? たまーにこうして食事にありつけそうな機会には、好き嫌いせず残さずちゃぁんといただくことにしてるんです。子を守るのは大人の務め。弟子を守るのは師の務め。そして鬼を祓うは拝み屋の務め。日向さん。あなたがこれ以上、サヤを付け狙うというのなら。
――あなたに憑いたその鬼を。俺が
ぬぅっと青年の手が伸びる。黄金に輝く眼差しが、本来ならば不可視の筈の老人に憑いた悪鬼を捉え、その手が存在しない鬼のカタチを掴みとる。
「き……さま、その、眼……」
「ああ、これですか。お宅の孫のサヤと同じ見鬼眼――よりもっとマイナーな招眼っていうんですよ。珍しいっしょ?」
視えるなら触れられる。触れられるなら存在する。それが世界の法則だ。
招眼。
現在では世界でただ一人、青年だけが使えるとされる見鬼眼の
「俺の眼に視えないものはない。俺の眼で視破れないものはない。だから逆説的に俺が視たものは、絶対に事実としてこの世に存在しなければならないんです。俺があんたに鬼が憑いているといったら、それは憑いていなければならないし、たとえ魂と癒着してようが同化していようが、俺が触れて引きはがせるといったら絶対に引きはがされなければならない」
それはつまり因果の逆転だ。
視えるものを視るのではなく。彼が視たものを事実として、世界の認識そのものを刷りかえる。量子論の箱に入った猫だ。猫が箱の中に入っているかどうかは、観察者が蓋を開けなければ分からない。だが、そもそも観察者が存在しなければ、箱の中に何がはいっているかいないのかを知る事すらできない。
見鬼眼は霊能の中では無力で害のないものとされる。それはそうだろう。異形を視ても、ただ視えるだけでは祓うことも出来ない。だがその精度をあげれば。
他の誰も獲得できないような視界を手に入れることが出来れば。世界でただ一人、彼だけが視える世界があるというならば。彼はこの世でただ一人の観察者であり、その虚偽を証明できるものは他にはいない。
この世で唯一の観察者である彼だけが、可不可の世界の証明者足り得る。
「まあ、不便は不便なんですけどね。勝手に使ったら怒られるし。仮にも陰陽一家の出身なのに、ガキの頃からこれの習得の修業ばっかしてたせいで、未だにロクな呪詛も使えないし」
ああでも、と青年がふと思いついたように付け加える。
「呪詛が使えないってのは別にマイナス要素だけじゃありませんでしたね。だってさ」
せっかくの
にやっと笑う。まるで、子供がとっておきの悪戯を打ち明けるような無邪気な笑顔。光のない真っ黒な瞳。
それを見て、唐突に悟る。
嗚呼。怖いわけだ。青年のこの眼。自分を見つめる眼差しは到底、人間に向けるものではない。
獣が餌を見る目そのものじゃないか。
「――いただきます」
獣の青年が顎を開く。これ以上なく強引な方法で存在を確定させられた自分の力の根源が、一噛みごとに咀嚼されていく。
自分が少しずつ喰らわれる音を、夢幻のように聞きながら。
老人は最後に残った意識の欠片で意識でそんなことを思った。
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