師匠の言い分、タテマエとホンネ
一向は車で春明の家に向かった。
そのまま病院に直行してもよかったのだが(というより、賢明な大人であればそうするべきだろうが)ようやく会えた母親と離れ離れになることを、サヤカが頑なに拒んだためだ。
全力で駄々をこねた。
泣いて泣いて泣いて泣いて泣いた。
泣き落としというより、徹頭徹尾、初志貫徹、最初から最後まで開幕から終焉まで、気合の入った泣き通しだった。
全米を包む感動の涙に匹敵するぐらいの量で泣いた。 最終的には再び春明の肉を食いちぎりかけるところまでいった時点で、母親――彩華からのストップが入った(出来ればもう少し早く止めて欲しかった。わりと切実に)。病院に戻るにしろ、彩華も素足に入院着だし、サヤカの荷物もまだ春明の家にある。ならば一旦、間宮家に向かおうということになったのだ。
まあ確かに。親がいるならば、保険証や医療証などの貴重品は早めに返した方がいい。
運転するのは兄である。しれっと当たり前のように乗っているが、一応警察車両なので、民間人である春明は運転出来ない。彩華はそもそも免許証はおろか靴すらも履いていない。サヤカに到っては論外である。助手席に春明、運転席に秋貴、サヤカは後部座席で母親のおひざの上に陣取っている。というか、寝落ちている。
道中で、彩華はあの場に現れた理由を説明してくれた。
「誰かさんが病室内に出しっぱなしにしてた書類とパソコンの履歴をチェックしたんだよ。ついては間宮巡査部長。君の機密文書及び情報機器端末の扱いについては疑問がある。近々、機密情報の扱いに関する再訓練を受けるように」
「あう」
「あと当然、始末書もな」
「あうぅ……」
兄の再研修が決定した。
「つか、どうしてあの場に来れたのかはともかくとして、そもそもどうやってあの部屋まで入れたんです? あそこリアル警備員さんとかいましたけど」
たとえ肉親のマンションとはいえ、事実上絶縁関係にあるのだから日向氏が許可を出していたとも思えない。伝家の宝刀、桜の御紋、警察手帳を見せれば中に強行突破も可能かもしれないが、彼女は文字通り着の身着のままである。
首を傾げる春明に、彩華は特にどうということなくきっぱりと言った。
「押しとおった」
「………………」
「押しとおった」
「……ハイ」
反論の余地はなかった。
「それであの、サヤ……ちゃん、のおかあさん、は……」
「彩華でいいよ。サヤにも無理してちゃんをつける必要はない。一か月近くもお世話になっていたんだしね。そんな他人行儀は今更というものだ」
「はぁ……そっすか」
正直、初対面の年上のジョセイをいきなりファーストネーム呼びすることに関しては、他人行儀云々以前にかなり精神的ハードルが高かったのだが、本人にそうと言われてしまえば仕方ない。
「ええと……彩華さんて、偉かったんですね。てっきり俺は、兄の同期の方かと……」
「俺と彩華さんが同期ィ!?」
その発言がよほど意外だったのか、すっとんきょうな悲鳴をあげたのは兄だった。運転に集中して欲しい。
「んなことあるわけねーじゃん!? え、なんで? お前、どうしてそんな愉快な勘違いを?」
「いや同僚って言ってたし。それに名前で呼んでたし」
個人的な感覚からすれば、ただの職場の知人(しかも異性)をファーストネームで呼ぶことはないと思う。しかしこの疑問は、当の本人によってあっさりと否定された。
「ああ。うちの部署にはもう一人由羅という名の人間がいてね。なのでは私は、課員全員から下の名前で呼ばれている」
「さいですか……」
聞かされてみると、これ以上ないくらいどうでもいい理由だった。
「けど、ただの同僚に子供を預けるなん普通はそうそうしないでしょう?」
だから、気の置けない仲だと思ってたのだ。シングルマザーと聞いていたし、ひょっとして将来は自分の義姉になる人なのかと。もちろんそんな想像は、彩華本人を見た瞬間に土星の彼方あたりにまでふっとんだが。
現に兄は、不思議そうにこちらをみつめながら(頼むから運転中は前を見て欲しい。いやマジで)心底しみじみと、
「だったらお前は、彩華さんから子守を頼まれて断れるのか?」
と、聞いてきた。
や、無理ですね。
疑念の余地のない回答だった。
そんなこんなで間宮家につくと、覚醒したサヤカは勝手知ったる顔で家にあがり、この一か月間で書き溜めた絵やおてがみ、おりがみや工作などを、一つ一つ順番に母親に自慢した。今までどんなことがあって、誰と喧嘩したのか。何を頑張ってどんなことが出来るようになったのか。葉っぱのお野菜が食べられるようになったこと、上手にトイレが出来るようになったこと。それまでの母との空白を埋めるように、識や春明、保育園の先生や友達と過ごした時間のことを、時系列もめちゃくちゃに、しかし彼女なりに拙い言葉で一生懸命に伝えていた。
あのね、これはね、アイスやさんなの。サヤとママとおじちゃんとしきで、アイスたべにきてるの。サヤはカップだけど、みんなはカリカリのコーンなの。うわぁ、すごい! サヤは絵が上手だね! みんなそっくり! えへへ~。 シキってこの犬? ちがうよ。しきはきつねさんだよ。だからドングリのアイスなの。サヤはこちょで、ママは抹茶。おじちゃんはコーヒーなの。
それはどこの家庭でも当たり前にあるような。ひどくありきたりでなんの変哲もない、しかし同時にとても眩しくて暖かい光景だった。
言葉が足りない娘の意図をくみ取るように、母がときおり相槌をうち、ときおり質問をする。するとサヤカは、その時々でくるくると表情を変えながら飽きもせずおしゃべりを続けるのだ。
そんな親子の様子を、春明はちゃぶ台に頬杖をつきながらぼんやりと眺めていた。
(よーくしゃべってんなぁ……)
サヤカはもともとおしゃべりなところがあるが、今日は一段とハイテンションだ。キャッキャとはしゃぐ幼女の横で、こちらも我が物顔で人の家の台所に出入りしていた兄が、いそいそとお茶など給仕している。我が兄ながら小姓のような振る舞いが無駄に板についていて、なんとなく兄の職場でのポジションというものが想像出来た。
同時にそんな兄の姿を見て、やっぱねーなと改めて思い直す。うん。やっぱりない。兄と彩華の組み合わせは恋人同士というよりも、明らかに女王様と僕といった方が適切だった。
本音を言うと、少しだけ期待もしていたのだが。
(サヤが姪になるかと思ったのに)
そうすればきっと、楽しいと思ったのに。
だが、こんな時に限って同意してくれそうな式神はこの場におらず、代わりに彩華が神妙な顔で頭を下げてきた。
「――改めて、お礼を言わせてください間宮さん。このたびは、娘が本当にお世話になりました」
「ちょっ……ややや、やめてくださいよそんな急に!?」
自分より年上の女性から、急に敬語で深々と土下座をされて思わず慌てる。兄からならばともかく、女性から土下座をされることには慣れていない。年上ともなれば尚更だ。逆にこっちが申し訳なくさえなってしまう。
「大体、サヤの世話をしてたのはほとんど識――俺の式神だったし、俺は大したことなんか全然やってないし、それどころかむしろ今回は、俺の不注意のせいでサヤをこんな目にまで合わせちゃったわけだし……」
自分で口にするにつれて、どんどんと尻しぼみになっていく。
ずーん、と自分で自分の言葉に傷つく春明を、しかし笑うことなく尻馬にのって責めることなく、彼女はゆっくりと首を振った。
「――ですがあなたは、この子を助けようとしてくれた」
優しくはなく冷たくもなくただ当然のことを告げるように。彼女は長い指でさらさらと娘の髪を梳きながら言った。
「もとより、今回の件で無理を言ったのはこちらです。身内でもないあなたに我が子を預けようだなんて、どう考えてもこっちの無茶が過ぎる。子供というものは確かに可愛いけれど、子育てなんて綺麗ごとだけで済むものじゃない。実の親でさえ――血の繋がった肉親でさえ、育児放棄をする例なんて世の中に腐るほどある。でもあなたは、そんな私の身勝手なだけのお願いに、それでも全力で応えてくれた」
デフォルトで鋭い眼差しが、まっすぐにこちらを見つめてくる、すわメンチ切られているのかと誤解してしまいそうに凶悪な目つきだったが、だけどその瞳の中に浮かぶ光はとても。とても穏やかなもので。
「縁もゆかりもない赤の他人の子供のことを、あなたは本気で気遣ってくれた。さらわれたこの子の身柄を案じ、子供の意志を無視して道具のように扱う日向に対して怒り、サヤカの心を守ろうとしてくれた。サヤカを子供だからという理由で侮らずに、大人たちの横暴からこの子の人生を守ろうとしてくれた。今の世の中で、それが出来る人はとても希少だと思う」
それはきっと、尊敬とか敬愛とか呼ばれるものだった。
「世の中に生まれつきの善人はいない。生まれつきの悪人なんていない。こんな世の中だ。善と悪に対する基準なんてものも人それぞれで、一概に善悪を決めつけることなんて出来ない。それでも、世の中にはどんな時でも絶対に正しいと言えることがあると私は思っている」
それは、悪を倒す正義の味方、とかそんな単純で難しい両極の話ではなくたとえば。
腹を空かせている人にパンを分けることとか。
凍えて震える人に一枚の毛布を差し出すこととか。
身を守る術も持たぬ無力な子供が成長するまで、悪意から守ろうとすることとか。
そんな些細で簡単なこと。
「間宮晴明さん。あなたのその、口にするのは簡単な綺麗ごとを綺麗なままに実践出来る素質は、なにものにも替えがたい宝石のようなものだと思う。それはひょっとして、サンタクロースを信じているような子供であれば、昔は誰でも持っていた心なのかもしれない。だがそれを大人になってまで維持できる人間は本当に希少だ。あなたの利他的な善性に心から尊敬と感謝を」
彼女は自分の豊かな胸の前にそっと手を当てて、王に忠誠を誓う騎士のように優雅な仕草で頭を下げた。
やっべぇ。
なんだこれ。
むちゃくちゃ恥ずかしい。
顔面がひどく熱い。耳まで熱い。鏡を見ずとも、今の自分が赤面しているのが分かる。頭を下げられているのは自分の筈なのに、こっちまで俯いてしまいたくなるぐらいだ。
だってこんなのは知らなかった。
自分が一流と認めるような相手から、こんなにもあけすけに、こんなにも真摯に御礼を伝えられることが、これほど気恥ずかしいものだなんて。
誰も、教えてくれなかったじゃないか。
心から伝えられる敬愛と感謝が、こんなにくすぐったくて心地よいものだったなんて誰も。
「うー、あー、えー、とー」
隣で素知らぬ顔でこちらを見ながらニヤついている兄を今すぐぶっ飛ばしたい。が、さすがに。
顔面から火が噴きだしそうなほどに気恥ずかしいとはいえ、ここまで真正面からぶつけられた感謝を前に逃げ出すのは、それ以上に恥ずかしい事なのは分かった。だから春明は。
羞恥で顔面を真っ赤にしながら、それでも逃げる事なく茶化すことなくまっすぐに。けれど蚊の鳴くような小さな声で、彼女の謝辞を受け取った。
「……こちらこそ。どう、いたし、まして……」
それだけを言うのがやっとだった。
くすぐったさと気恥ずかしさで死にそうだった。
彩華は臣下の謝辞を受け入れる皇帝のような威厳と風格に満ちた態度で頷くと(なぜだろう。言動は真っ当で母性の化身のような人なのに、本人を目の前にするとどうしても母性という言葉が連想出来ない。なぜか)立ち上がった。
「――さて、そろそろ私たちはおいとまするかな。その前に悪いんだが春明くん。よければ服を一式貸して貰えるかい? いやなに、見ての通り私はこの恰好なんでね。帰るにしても、いくらなんでもやっぱりおまわりさんたるものが、天下の公道を素足とパジャマ姿で歩くってのはよくないと思うんだよね」
予想していたことだが、服のサイズは合わなかった。
彩華は女性にしては大柄なので、肩幅だけは合ったものの、やはり袖丈は足りずウエストはガバガバだった。
なんかいろいろ死にたくなった。
整理整頓された箪笥(識の仕事である。もちろん)から、あれやこれやと服を引っ張りだし、どれならば無難に彩華でも着られるかを散々悩んだ結果、結局いつも部屋着にしているジャージを貸すということで落ち着いた。裾の短いジーパンというものダサいし、袖がつんつるてんのスーツなんて到底着られたものではない。だが、ジャージであればある程度は袖丈の長さが合わなくても誤魔化せるし、ウエストも紐なので落ちてくる心配もない、という極めて消去法的な選択によって。
「ん。やはり少しゆるいな。でも助かるよ。ありがとう」
そして――ジャージに着替えた彩華は、なんというか随分と『決まって』いた。
着ている服そのものは、確かに春明が自宅で着ているジャージなはずなのに、着る人間が変わるだけでこんなにも違って見えるのか、と驚く。すらりと手足の長い彩華が着ると、ただのジャージがやたらスタイリッシュに見えてくる。その辺で買った安物のジャージのはずなのに。
革靴はさすがに貸せないので、スニーカー(余談だがこれもサイズが合わなかった。どうぞ踵を踏みつぶしてお履きくださいませと進呈した)を提供し、出来上がった彩華の姿はまるで王族が下々の衣装を着ているかのようだった。素材がいいので何を着ても似合うは似合うのだが、服が本人の風格に負けすぎている。こういうのなんて言うんだろう。馬子にも衣装の逆バージョン?
ジャージを着た皇帝ルックになった母親の横で、サヤカもニコニコと笑みを浮かべて自分のリュックを背負っていた。あの晩、初めて間宮家を訪れた時に背負っていたリュック――識と春明で買い足したあれこれは一切入っていない、サヤカが自分で持ち込んだ唯一の荷物だ。背中に背負った妙にでかいリュックが小さな体躯に不釣り合いで、カタツムリのような印象を受ける。
兄は母娘を送り届けるため、先に車を回しにいった。古めかしい引き戸の玄関先で、彩華が再び深々と頭を下げる。
「それでは――長い間、娘が本当にお世話になりました。また落ち着いたら後日、改めて御礼に伺わせ頂いてもよろしいか?」
「ええ……はい、もちろん――それはもちろんです。いつでもお待ちしてます」
「本当にありがとう。ほら、サヤもちゃんと御礼をいいなさい」
「うん! おじちゃん、たくさん遊んでくれて、どうもありがとう! ばいばーい!」
母親の腕の上(文字通りの意味だ)で、満面の笑みを浮かべて手を振る弟子は本当に、本当に嬉しそうで。いままで見たことがないくらい、本当に幸せそうで。
「――ああ。またなサヤ。ばいばい」
だから。
春明はただ曇りない笑顔で、手を振りかえすしかなかった。
これでいいんだ。
これで、いいはずなんだ。
現に、サヤカはあんなに嬉しそうに笑ってる。なのに。なのになんで。
こんなにも、胸にぽっかり穴が空いた気分になるんだろう。
どうして俺は、あの子の幸せを素直に喜んでやれないんだろう。
だけど、いつもは口うるさい式神も今はおらず彼の疑問に答える者はいない。一人きりで過ごす家は、妙にガランと広くて寒々しく、慣れている筈なのにちっとも寛げなかった。
「あー。腹、減ったな……」
もう誰も、この家にはいない。
忘れていた筈の空腹が蘇り、ぎしりと軋んで空白の胃を苛んだ。
*****
追記
ご指摘を頂いたので。この物語はハッピーエンドの予定です。へっぽこ師弟が無事に笑顔エンドを迎えるまで、よろしければもう少しだけお付き合いくださいませ
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