母の言い分、あるいはファラオ降臨
――一目見た瞬間、感じたのは灼熱だった。
暖かみとか。温もりとか。癒しとか。そういった命を育む陽だまりのような穏やかさではなく、手を伸ばし触れた瞬間に骨の髄まで焼き尽くされる強烈な炎熱。
考えてみれば、それはむしろ当然のことだ。
そもそも本来、太陽というのは暴虐な熱と光の塊だ。約一億五千万キロという膨大な距離を隔てていてなお地球に注ぐ熱量を思えばなるほど、その距離を一歩誤っただけで絶死に至るは至極道理。
つまり彼女はそういった人物なのだ。
近づけば焼かれよう。
遠ざかれば凍えよう。
その熱に、存在に焦がれて手を伸ばしたところで、得られるのは灼熱の返礼だけだ。それこそ、太陽に触れようとするようなものだ、という者もいるかもしれない。その蛮勇を止める権利はない。だが、過去の歴史を紐解いてみれば、太陽を求めた数多の王がどのような末路を遂げたかなんて言うまでもないだろう。
其は威にして覇。
其は堅にして剛。
黄金なりし太陽神。故に。
その存在は灼熱である。
*****
最初に。
まず最初に、言葉を発したのは兄だった。
「Oh my gosh……!!」
天を仰いで嘆く様は確かに発音も明瞭で、なるほどこれがTOEIC八百点の実力かと密かに感心したりもしたが。
いや、しかしそうではなく。
肝心なことはそうではなく。
彼女。
そう、彼女だ。
「お待たせサヤ。お母さん、お迎えに来たよ」
にっこり――というには些か凄みがありすぎる笑みを浮かべる彼女に、春明は確かに見覚えがあった。しかし一方で、彼女が本当に以前見た女性と同一人物であるのか、と疑問を覚えたのもまた事実だ。
そのぐらい、目の前の女性はなんというかこう、何もかもが『圧巻』だった。
まず――背が高い。それも図抜けて高い。前回はベッドに寝ている状態だったから気づかなかったのかもしれないが、こうして立ち姿を見てみると、女性にしては珍しいほどに背が高かった。明らかに春明よりも高い。その上、顔が小さく足がやたらと長いため、トータルすると比率のせいで実際以上に高く見える。そのせいか、ただ立っているだけで威圧感が半端なかった。
その圧倒的なオーラに対して着ているのはひどく地味な服――というか、あの病院の入院着だ。恐らく着替える間も惜しんできたのだろう。飾り気も何もない、淡いクリーム色の無地の上下。クリーム色という淡い色合いがここまで似合わない人類を春明は初めて見た。多分、魔王とかに着せた方がまだ似合う。それでも、だぼっとした袖口から伸びる手足はすらりと長く、色はともかく着こなしはひどく様になっていた。
足元は裸足。靴はおろか上着一枚すら羽織っておらず、いくら急いでいたとはいえこの季節、病み上がりの身体でそんな軽装でここまで来るのは、控えめに言って自殺行為にも思えた。だがしかし。
その威はどうだ。
その覇はどうだ。
威風堂々。まるでそれが、至極当然であるかのように。
彼女は実に悠然と泰然と燦然と、まるで地上に舞い降りた太陽神の如くその場に降臨した。
降臨。
まさしくその言葉が相応しい。
ただしこの場合の太陽というのは、慈悲とか恵みとか日の光とか、いわゆる聖属性のものはない。どちらかというと、まあなんだかんだ言っても所詮、太陽なんて暴威と暴虐と炎熱の塊でしかないよね、というあれだ。
彼女はか弱さなど欠片もない力強い声で、おどけるように肩を竦めた。
「随分、長い間待たせちゃったみたいだからな。こっちも押っ取り刀で駆け付けたんだがおかしいなぁ? なんでうちの娘がよりによってとっくの昔に絶縁したクソ爺の家なんかにいるんだ?」
「う、う、う、うぐぐぐ……」
気圧されている。
先ほどまで、老怪のようにこちらを威圧していたはずの老人が、『彼女』が現れたというだけで面白いぐらいに動揺している。にっと彼女が獰猛な笑みを浮かべて一歩近づくと、男はたったそれだけで、実際に殴られたかのようにびくり、と盛大にのけぞった。
――怖いだろうとも。
人の呪わば穴二つ。ましてや男が『彼女』に向かって放っていたのは血呪式――絶死の呪いなのだ。血の繋がり――親子の縁を刃として命を狙う、極めて悪辣で卑怯な呪い。が――
いま、老人の目の前に立っているのは、その呪いさえもを跳ね返した相手なのだ。
一度呪詛した相手に、もう一度同じ呪詛をかけることは呪術的に出来ない。そう、血呪式すらも効かないならばきっと、もうこの男に目の前の『彼女』を倒す術はない。彼女は呪いを耐えきった――つまり、男の呪詛に勝ってしまった。だから、男はこんなにも怯えるのだ。怯えるしかないのだ。だって――
反された呪いは本来ならば主の元に、その持ち主へと還るのだから。
「――どういうことだと聞いているんだが。なぁ?」
「う、う、うううう……」
「うううじゃないだろ質問に答えろ」
「ぐ、う、ううう……」
「あのな。いい加減にしろよ。答える気がないのか?それとも――答えられないのか」
「な、なんで、なんで……」
老人の声は――もはや悲鳴に近かった。
「なぜだ!? なぜ、どうして……術は確かに完成した! 間違いなくかかったはずだ、なのになんで!? なんでお前がここにいる!?」
「なぜだって? 馬鹿馬鹿しい。そんなもん、私が母親だからに決まってんだろ。子を守るのは親の務め。サヤが無事成人して子供を産みその子育てを手伝い、孫の学費や結婚資金を援助したりするまで、そうやすやすと死ねるものか」
彼女は獰猛な笑みを浮かべながら、不遜なようでいて意外と慎ましい、でもやっぱり割と図々しいことをのたまった。
ていうか、そのプランだと結構長生きするつもりなんだなこの人……。
一応、病弱キャラってふれこみの癖に。
だがまあ、こんなに自信たっぷりに断言されてしまうと、意外とあっさり果たしそうなぁと思ってしまったのもまた事実だ。
あと五百年は生きると言われても何の違和感もない。
絶句する父親をよそに彼女は一転、花のような笑顔を浮かべると、娘に向かって視線を移した。途端、降臨せし現人神のオーラ……は特に緩まなかったものの、世界を五つくらいは征服してそうな眼差しがふっと柔らかなものになる。
「お迎えに来るのが遅くなってごめんね。たくさんたくさん、待たせちゃったね」
さみしい思いをさせてごめんね、と。
小さな娘に真摯に謝るその姿は、意外なことにまるきり平凡な母親のようで。
滲み出る存在感威圧感圧力感は間違いなく神かあるいは魔王クラスのそれなのに、そうしていると本当に、ただの娘思いなお母さんのようで、なんとなく春明は拍子抜けした。
サヤカは自分で自分の感情をうまくコントロールできないのか、ぼろぼろと泣いている。だけどそれは、さっきまでの悲しい涙ではなく、ようやく母親に会えたことへの歓喜の涙だった。鼻水をたらし、涙を零し、目を真っ赤にしながら泣きじゃくっている。
「ま゛ま゛……」
彼女はそんな我が子の姿に一瞬、ほんの一瞬だけ痛ましげに顔を歪め、すぐに娘に向かって颯爽と歩きだした。悠々と、真っ直ぐに。ついでに、その進路上にあるテーブルが邪魔だったのか、ひょいっと長い足で蹴った。
ちょっと行儀の悪い態度だが、それは両手がふさがっているから、という理由でつま先で襖を開けるような、実に軽やかな動きだった。体移動も予備動作もなにもない。ただ足を振っただけ。それだけで。
恐らくかなり年代物で値も張るであろう、重厚そうなアンティークのテーブルが、轟音を立てて吹き飛んだ。
糸の切れた凧のように、ひゅーと――その重量を考えれば冗談のような勢いで――吹っ飛んでいった木製のテーブルは、そのまま広い室内を横切って――壁に激突し、粉々になったところで寿命を終えた。
「…………………」
絶句した。
きっとどんなに腕のいい職人さんであっても、あそこまで粉々に砕けた家具を復元するのは不可能であろう。
実の娘の登場に目を白黒させていた老人は、今度はこの光景に顔面を赤白させる。高血圧で脳溢血とか起こさないか心配だ。
春明はぎぎぎぎぎぎっと、油の切れたロボットのようにぎこちない動きで横を向いた。見ると、恐らくは自分とまったく同じ表情を浮かべているであろう兄が、盛大に顔面を引きつらせている。
「……えーっと、兄上様」
「なんだ。弟よ」
「あのゴリラ、一体どこのどなた?」
恐る恐る『彼女』を指さして小声で尋ねると、兄は諦念を滲ませた静かな口調で言った。
「……えー、今この場にいて、サヤカちゃんにママと呼ばれておりますことから分かるように、あの人は『当然』サヤカちゃんのお母様――由良彩華さんです」
その答えは――
半ば、分かっていたことだった。だが、それでも納得は出来なかった。思考が素直に口を出る。
「……冗談だろ?」
「大変に遺憾ですが……マジです」
「だってあれのどこが繊細なんだよ!?」
繊細で、身体を崩しやすいから。確かに以前、兄は『彼女』を指してそう言った。実際に我が目で見てみれば、それこそ笑い話にもならないが。むしろ繊細とか儚いとか病弱とか、そういったあらゆる単語と対極にいそうなのが彼女だ。
なにせ、春明の脳内におけるサヤカの母とは、母子家庭でありながら病弱な身体をおして働き、実父からの呪詛に侵され、あげくに倒れて入院してしまうような『健気』で『儚く』『母性愛に溢れる』『大和撫子のような』人物だったのだ。聞いていた(しかも酷いことに内容は事実だ)情報だけを組み合わせると、聖女あるいは聖母のごとき人物像である。少なくとも、兄から聞いた話を総合して目の前のゴリラをはじき出す人間はいないだろう。なるほど確かに病院で見た時と顔かたちは同じだが、外見だけそっくりさんなだけのゴリラと言われた方がまだ納得が出来る。
弟の疑問に兄は、それはもうしみじみと頷いた。皆まで言うなとばかりにしみじみと、深々と。
「言いたいことは分かる……非っ常によく分かる。が、対物理はともかく、彩華さんの免疫系が弱いことは事実なんだ。季節の変わり目ごとに体調崩して風邪引いてるし……本人曰く、持ってるステータスを攻撃力に全振りして攻勢特化した結果、防御面が疎かになったとか」
「いやでも、いくらなんでもあれはないだろあれは!?」
「春明」
受け入れきれない現実を前にテンパる弟を前に、秋貴は厳かに告げた。
「忘れたのか? 昔、俺たちが夢中になって見てた漫画で、某野菜人王子の息子が未来から主人公を助けに来たときの理由だって、宇宙最強なはずの主人公が、よりによって心臓病にで死にかけたからだったじゃないか」
「あっ、いま納得した。いますげえ納得した」
「聞こえてるぞー。間宮兄弟」
こっそりだったはずの兄弟会話が筒抜けになっていると指摘され、揃って慄いたりもしたが。
彼女にとっては、そんなことなどどうでもよかったらしい。砕けたテーブルの成れ果てに、むしろすっきりしたと言わんばかりに満足げな顔で、娘の方に向かいだす。
そうして彼女は――当然のように最愛の娘を優しく抱きしめた。
「ままっ……! ママ、ママ、ママぁ……!」
サヤカは大声で泣きながら、赤子のように泣きじゃくりながら、涙に濡れた顔を母親の肩にうずめた。これだけが大切なのだと言わんばかりに、もう二度と離すものかと言わんばかりに、小さな手でしっかりと母親の首にしがみつく。
「まま、まま、ままっ……ふぐっ、うえ、うえ、うあああああああああああんん……あああああああああん……!!」
「よしよし。偉かった偉かった。たくさんがんばったね。サヤ」
彼女は愛おしくて堪らないものに触れるように、泣きじゃくる娘の頭をそっと優しく何度も何度も撫でた。
それは多分、とても感動的な光景だった。
こうして見ると、抱き合う母娘は本当に顔立ちがよく似ている。まだ幼いサカヤが可憐なかすみそうだとしたら、完成した母の美貌は咲き誇る大輪の薔薇だ。見た目だけなら本当に微笑ましい光景なのだが、だからといってあの
母は泣きじゃくる娘を手慣れた様子で軽々と抱き上げると、そのまま小鳥でも止まらせるかのように腕に乗せた。
腕に乗せちゃうんだ……。
本日、もう何度目になるかも分からないビックリな出来事だった。
なんだろう……物理的な現象としては、確かに理解出来なくもない。女性にしては大柄とはいえ、彼女の肩幅では漫画とかで大柄な男がヒロインを肩に乗せるように子供を座らせるのは無理だろう。強度の問題ではなく、面積的に無理だ。だからといって、止まり木のように広げた腕に子供一人を乗せる現象もまた、同じくらい物理的難易度が高いとは思うが。
だってあれ、殆ど片手の筋肉だけで子供一人分を支えてるんだぞ。しかも特に力んだ様子もなく、ごくごく自然体でそんな無茶をしでかしておられる。逞しいとかいう次元を通り越して、男惚れしそうになるくらいの頼もしさだ。兄貴……! と呼んで一生ついていきたくなる。
だが、サヤカにとってこの抱っこスタイルは慣れたものらしい。突然ぐんと上がった視界に怯えもせず、腕を母の首に巻き付けてしっかり自分の位置を固定している。と同時に、春明の中で一つの疑問が瓦解した。
そうか……。
俺が前にサヤを高い高いして遊んだ時、そんなに喜んでなかったのは、俺の高い高いが高くなかったからか……。
春明の身長も決して低くはないが、あくまでごく平均的な日本人男性として遜色ないものだが(なおこの平均値というのがどの年齢層を範囲とするのかは想像にお任せする)サカヤの母は、平均的な日本人の身長基準を遥かにぶっちぎって高い。
その上、手足も長いので、きっと彼女が繰り出す高い高いは正真正銘高いのだろう。
ある意味、今日の起こった出来事の中で一番ショックな事実だった。
「さあ、もう帰ろうサヤ。ここは私たちの家じゃない」
「待て……帰るだと! 待て、許さんぞ!」
と、そこで。
ようやく正気を取り戻したのか、それまで呆気にとられていた老人が、突然立ち上がって怒鳴りだした。ぎらぎらと恩讐のこもった眼差しで――先ほどまで辛うじてかぶっていた紳士面をかなぐり捨てて母娘を睨みつけている。
「行かせるものか――行かせるものか! 小夜香は、ようやく見つけたワシの希望だ! 琴峰の血を引く唯一の跡取りなのだ! その子がいなければ、ワシの人生が、今まで築いてきたものが、全て無意味になってしまう――」
「黙れ爺。私はいま、この子と話をしてるんだ」
父親を振り返りすらせず彼女は告げた。
「身内だろうが外様だろうが、子供の心を守ろうとしないような奴に、子育てなんぞ務まるものか。サヤカは私の子供だ。子供を自分の道具としてしか見れないような人間が、二度とこの子の身内を名乗るな」
睨み返すことすらせず、彼女は自分の父親に、それ以上は声をかけることすらしなかった。娘をしっかりと抱きしめて、当たり前のように言った。
「さ、帰るぞみんな。こんな場所に長居は無用だ」
お姫様をしっかりと抱き上げて、英雄気取りで凱旋する英雄に従って、兄弟たちもカルガモの雛のようにちょこちょこそのあとをついていく。
部屋を出る寸前、ちらりと見えた老人は、悪鬼のような形相で母娘の背中を睨んでいた。
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