兄の言い分、弟の言い分
その子供の人生が、いつから始まったものかは本人にも分からない。
ただ一番古い記憶――物心ついた時から覚えているのは、そこが古い屋敷の一室だったこと。色褪せた畳からはいぐさの匂いも薄れ、代わりに焚き染めた香の匂いに満ちていたこと。部屋から眺める庭はいつも綺麗に手入れされていたが、決して一人で出てはいけなかったこと。それでも時折吹き抜ける風が外の匂いを運んできて、それが楽しみだったこと。そんなことばかりだ。
沢山のおもちゃ。望むだけ与えられるお菓子。仕える者は皆優しく、子供の願いを叶えてくれたが、決して子供を外に出そうとはしなかった。理由を問うと、彼ら彼女らは口を揃えてこう言った。
『お外は危ないのですよ』
『旦那様の御命令なのです』
『あなたを護るためなのです』
子供は外に出られないことを残念に感じたが、それも仕方ないと思っていた。なにせ、子供は本当にしょっちゅう寝込んでいたのだ。生まれつき霊力が強くまだ自我の弱い子供は、異形にも狙われやすい。彼らにとって、若く力に溢れた子供の肉体というものは垂涎の的なのだ。だから子供は厳重に守られ、閉じ込められ、鳥籠の中の小鳥のように、大事に大事に育てられた。
安寧な地獄のような檻の中で。
肌にまとわりつく空気は粘性を帯びて重く、流れる時間は飴のように引き伸ばされて、時間の感覚にも乏しい。変化のない単調な毎日。波紋のない永劫の平穏は牢獄にも似ていた。当時はそんなことはまるで思わなかったものだが、後になって考えてみればよく分かる。
あそこは多分、文字通り牢獄だった。
強大なドラゴンは、洞窟の中に様々な財宝を隠しそれを護っているという。その宝箱に大切にしまわれた財宝を閉じ込められていると表現するならば、そう、あそこは確かに牢獄だったのだ。
大切な宝物を奪われないために囲いこむ柔らかな檻。
子供は
強い霊能・霊視を持つ存在は異形との相性がいい。とりわけ自我の薄い子供であればなおさらだ。子供は異形を降ろす依り代として、家に富をもたらす金の卵として、大切に大切に育てられた。
真綿のような呪いのような、生ぬるい庇護に包まれながら。
――その身が異形に喰らわれるまで。
*****
その後、一晩中探してもサヤカは見つからなかった。
砕けた式神も元には戻らなかった。
一人で探すには限界があるので、兄にはすぐに連絡した。秋貴にとっても、サヤカはなにせ大事な預かりもののお嬢さんなのだ。彼は連絡を受けるや否や警察という役職をフル活用して、周辺情報の聞き込み、不審者の目撃情報など、あらゆる手段を尽くして探し回った。
だけど結局、それだけ探し回ってもサヤカは見つかることはなかった。
手がかり一つさえも見つからぬまま、弟子は忽然と姿を消した。
「保育園にも……念のため、園のお友達の家にも確認してみたが、やっぱりサヤカちゃんは来ていないそうだ。いまは捜索願を出して近隣の目撃情報を当たってる」
通話を切ってそう告げてくる兄の顔には、いつにない疲労の色があった。春明が血相を変えて駆けこんできた時、秋貴はサヤカの母が入院している病院でナチュラルに仕事をしていた。聞けばここ連日、彼女の呪詛対策要員(生きた霊力貯蔵庫)として、ずっと泊まり込みで仕事をしていたそうである。誰も待っていない我が家に帰ることは出来ず、春明もそのまま兄の宿泊している部屋に転がり込んだ。
「ごめん……俺のせいだ、俺の……」
「馬鹿いうな。今回の件でお前に落ち度は一切ない」
憔悴する弟の悔恨を切り捨てるように、秋貴はことさらにばっさりと言った。苛立たしそうに続ける。
「この国は法治国家だぞ? よりにもよって都内の、人目のある住宅街の白昼で、まさか堂々と家に押し入って子供を誘拐していくような奴がいるなんて誰が思うよ? そんなものは天が落ちてくる心配をするようなものだ」
日常生活の中で強盗誘拐を警戒して生きてる奴なんてどこにもいない。兄は普段の彼に比べると珍しいくらい、必要以上に力強く断言した。
「けど俺が、俺があの時に鍵さえ締めてれば……!」
あるいは、一人で出かけたりしなければ。
あるいは、いつも通りの時間に園のお迎えをしていれば。
あるいは。あるいは。あるいは。
軽挙の数は考え出すときりがなく、一つ思いつく度に後悔で吐き気がした。秋貴が静かに首を振る。
「考えるだけ無駄だ春。言っとくが、これはプロの手口だよ。あの程度の鍵なんかたとえ閉まっててもすぐ開けられただろうし――正直言うと俺は、あの場にお前がいなくて良かったとさえ思ってる」
「――あ?」
あまりにもあまりな兄の言葉に、反射的に睨みつけるが。兄は至って本気のようだった。弟の怒りにも怯むことなく、ひどく冷静な面持ちで淡々と続けてくる。
「何度もいうが、今回の事件はプロの犯行だ。警察関係者の自宅に不法侵入したあげく子供を誘拐していく大胆さといい、目撃証言の少なさといい、その辺の素人が思いつきで気まぐれにやらかすような犯行じゃない。そしていまサヤカちゃんを誘拐するとしたら、それは十中八九、日向財閥の関係者だよ。じゃなきゃ、たかが四歳の子供が誘拐されるほどの怨恨を買うわけないからな。だとしたら、少なくともサヤカちゃんの身に危険はないだろう。なにせあちらさんにとって、あの子はたった一人の大事な後継者候補だ。けどお前がは違う」
兄がひたり、と弟を見据える。その表情はいつものおちゃらけた雰囲気などまるでなく、有能な警察官としての彼の一面を思わせた。
「これだけ鮮やかな手口で子供をさらっていく連中が、目撃者となる人間を残しておくとは思えない。実際に識は破壊されたんだぞ? 式神なら形代を直せば蘇るけど、生身のお前はそうはいかないんだ。無理いって引き受けて貰った子守が原因で実の弟に怪我されたとあっちゃ、さすがの俺もお天道様に顔向けが出来ん」
多分それは、滅多にみせない兄の兄らしい本心だった。心配しなくても、と彼はばんっ、とやや乱暴に春明の背中を叩く。
「心配しなくても、警察の威信と名誉にかけてサヤカちゃんは必ず無事に探し出してみせる。お前も気持ちは分かるがちっとは休め。どうせ識がいなくなってから、飯もロクに食べてないんだろ?」
「食べてない……そういえば」
言われてようやく、自分が空腹であったことを思い出す。しかし飢餓を自覚したところで、相変わらず食欲はまったく沸いてこなかった。
秋貴が小さく溜息をついた。
「お前は昔っから、誰かが見てないとすぐに飯を抜くからなぁ。腹減ってないのか?」
「腹は……減ってる。けど、食欲がない」
「……ここの売店でウイダーインゼリーでも買って食っておけ。サヤカちゃんを探すにしろ体力がないと持たないぞ。識はまだ戻せないのか?」
最後の質問は、今回だけでなく既に何度か聞かれていることだった。目撃者がまだ見つからない以上、現時点で式神はサヤカの失踪に関わる唯一の証言者でもある。自分の中に眠るもう一つの存在に意識を向けて、春明はそっとゆるく首を振った。
「……駄目だ。形代だけでなく霊体ごと完全に破壊されたのが痛かった。まだ再生には時間がかかる」
「そうか……せめて当時の詳しい話だけでも聞ければと思ったが……」
「いやまぁ無理をすればなんとかギリギリ顕現させられないこともないんだが……」
無念そうに呟く兄に、一応これは伝えておかなければフェアではなかろうと思い、付け加える。
「非殺の権能ごと破壊されてるからな。いま出すと主従逆転して最悪俺が喰われる」
「本気で最悪じゃねえかそれ!? 絶対に出すなよお前!!」
兄は本気でびっくりしたらしく、目を向いて怒鳴りつけてきた。
「分かってる。だからとりあえず、最優先で非殺権能だけでも再構成してる。じゃないと形代が直っても外に出せないからなアイツ」
「まあどっちにしろ、識がいても状況を聞くぐらいのことしか出来ないしな。いまのこの国じゃまだ、霊障犯罪に対する法制度はかなりザルだ。今回の件だって、現状で確定してるのはお前の家に対する不法侵入だけで、サカヤちゃんは迷子扱い。識に対しては、形代が壊されてるからギリギリ器物破損が適応されるけど軽犯罪レベル。式神の証言なんて実質法廷ではなんの役にも立たん」
不快そうに吐き捨てたタイミングで、兄のスマホがメロディを奏でた。ベートベン交響曲第五番一章。雅に疎い自分でも知っているくらい有名な曲だ。兄は仕事用のスマホだけはいつも着信をオンにしている。緊急性の高さについては分からなくもないが、曲のセレクトについては大いなる皮肉なのか。
病院内で鳴り響く重厚な着信音に、しかし兄は慌てた素振りも見せず(厚顔無恥とも言う)無駄に有能っぽい仕草で耳元に当てた。仕事が出来る大人の顔でぼそぼそと話す。
「――はい。承知いたしました。ご連絡ありがとうございます。すぐに伺います」
丁寧な言葉で通話を切った兄は、次の瞬間には有能そうな警察官の仮面をかなぐり捨てて、元のゆる軽い表情に戻っていた。
「朗報だ春明君。とりあえず喜べ。サヤカちゃんが無事見つかったぞ」
「まじで!?!?!?」
言われた通り目を輝かせて歓喜する。途端に元気を取り戻して有頂天になる春明に、秋貴はただし、と付け加えた。
「ああ。あの子の祖父を名乗る善良な一般市民様から、自宅で孫を保護していると連絡があったそうだ。ついては誤解を解くために一度、サヤカちゃんを今まで預かっていた方とお話をしたい、と仰っているそうだ」
どうする? 保護者代理兼師匠の春明さん、と兄はどこか獰猛に笑った。
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