風邪をひく
――だけど狐は悲しんだ。
*****
春明にとって休日とは昼過ぎから始まる。
まず午前中一杯はだらだらと惰眠を貪り、十二時前後に起床。呆れた狐から時々フォックスアタックを喰らいつつ簡単なブランチを食べ、気が向いたら外出。面倒くさかったらそのままジャージ姿のままで着替えもせずにゲームやSNSをポチポチとやり、夕方あたりから酒を飲む。あるいは、宗家からの指示があればお祓いに出向くときもあるし、たまに友人と飲みに行くときもある。あと、手持無沙汰だと呪符を自作したりもする。
そんな気ままままな一人暮らしをずっと続けていたから彼は知らなかった。子供がいると、休日であれ朝は早い。
というわけで。
「おじちゃんおっはよー! あっさでっすよー!!」
「ぐほぁっ!?」
陽光がカーテンの隙間から零れ落ちる爽やかな冬の朝。外の空気はキンと澄んでやや冷たく、室内との気温差で窓に結露を生んでいた。陽の光を反射し、きらきらと光の粒のように輝いている。
部屋の空気は外のそれに比べて幾分暖かかったが、それでもまだ起き掛けには布団のぬくもりが恋しい。しかしこの時の春明は、たとえ今世で結ばれずとも、来世では必ず添い遂げると
誓った掛布団をなんの未練もなく跳ねのけて盛大な悲鳴を上げた。
「う、ぐぐぐ……うう、つううぅ……」
まだ半分だけ残っている誓約の片割れ(敷布団)の上にダンゴ虫のように蹲り、腹を押さえて呻く。四歳児の一般的な体重は大体十六キロ前後。サヤカもその例にもれず体重は十六キロほどある。大人に比べれば随分軽いとはいえ、さすがにその重さで睡眠中の弛緩しきっているみぞおちにフライングボディアタックを喰らっては死ぬしかない。
「さ……サヤ……頼むから……次はもうちょっと優しく起こしてくれ……」
「ご、ごめんね……」
苦痛に喘ぎながら懇願すると、さすがに反省したのか幼女はしょんぼりと謝った。悶絶しているこちらの頭をよしよしと撫でてくる。
「……何してんですかサヤカさん」
「おじちゃんがいたくてかわいそうだから、なぐさめたげてるの」
寝癖だらけの頭を小さな手のひらでいい子いい子してくる幼女。つい先ほど、踏みつぶされかけたことを忘れてしまうような健気さだった。
なんだこれは。これがバブみというやつか。いや多分これ、マッチポンプというやつだ。
自ら傷つけた相手を自ら癒すという完全なる自作自演によって株をあげた幼女は、慰めに飽きたのかしゃらしゃらとカーテンを開けた。陽を遮るためのものと、視線を遮断するためのものが二枚。間宮家は見かけも中身も完全なる日本家屋だが、窓には障子ではなくカーテンをつけている。理由は簡単で、カーテンの方が外の光を取り入れやすいからだ。
「おじちゃん起きてー。起きて起きておーきてー。あさごーはんできてるよー」
「うーい……」
正直まだちょっとだいぶ眠かったが、ここまでされてしまってはさすがに二度寝を決める気もならない。ベッドから下りると、ひやりとした床の冷たさに一瞬竦んだ。いそいそをこちらの手を引いて居間に連れて行こうとする弟子にぼんやりと尋ねる。
「今日の朝飯なに?」
「ぱん!」
「おー……」
珍しく洋食らしい。サヤカの手は小さいが、肌はすべすべと滑らかで温かい。下手すると、今しがた布団にくるまれていた筈のこちらよりもぬくい。
というか……なんか少し、いつもよりも温かすぎるような――?
「……サヤカ。お前なんか手が熱くねえか?」
「う?」
もう少し具体的に言うと、ひょっとしてこの子、熱があるんじゃなかろうか?
寝ぼけた頭を強制的にしゃっきりさせて改めて彼女の顔を見ると、サヤカはずるりと鼻水を垂らしていた。頬はバラ色だがこれはいつものことだ。
「うわ、鼻水出てんじゃねえかおま……ってやめろ! 袖で鼻水を拭くな識に怒られる! ごはんの前にちょっと熱測ろう。多分お前、風邪引いてるぞ」
春明は弟子を抱えてそそくさと居間に向かった。
*****
「三十七度六分。風邪ですね」
デジタル体温計に表示された数値を読み上げ、式神は無慈悲に告げた。
「最近、急に気温が下がりましたからねぇ……予防接種は受けておりますので、インフルエンザではないとよいのですが」
「いや、ていうかわりと高くないかそれ。四捨五入したらほぼ三十八度だぞ? 俺でも辛いぞこんな熱でたら」
朝ごはんはトーストとベーコンエッグとプチトマトだった。こんがりと狐色に焼けたパンはそれなりに食欲をそそったが、いまはそれどころではない。
サヤカは服の上から布団にくるまれてぽへっとアニメを見ている。熱がある割に元気そうだが、さりとて熱はかなり高い。
おろおろと慌てる春明を落ち着かせるように、識が極めて冷静に言い放つ。
「そう慌てなさいますな。子供の平熱は大人よりも高いものですし、このくらいの子はよく高熱を出すものです。しかしこういう時、この身が人でないということがつくづく悔やまれます……私が人であれば、もっと早くに気づけたものを……」
無念そうに呟く様は、本人も言う通り本気で悔しそうだった。半霊体である識の身体は気温など感じない。もとより人でない彼女にとって、人間の体調の変化というものは判りづらいのだろう。
「ともあれ、早くに気づけたのは幸いでした。さっそく氷枕の用意を致しましょう。あとは温かくくるみこんで、主殿が薬湯を煎じれば……」
「今日は土曜日だし午前中なら病院もまだやってるよな。近くでweb受付やってる小児科はないかな? なければ俺がいまからひとっ走りいって予約してくるから、順番になったらお前がサヤをつれてきてくれ」
「いえ、お待ちなさい主殿。下手に他の患者がひしめく病院になど連れて行っては、かえってサヤカ嬢が別の病気を貰ってきてしまうやもしれません。ひとまずここは、主殿が快癒の加持祈祷をして安静に……」
だからなのだろう。式神の言い分は、如何にも病というものを知らぬ人外の意見だった。いつもはこちらを諌めるばかりの式神の言葉を、この時ばかりはぴしゃりと切り捨てる。
「馬鹿かお前は! 加持祈祷なんてものはな、現代医学の粋を尽くし、どうしても手のうちようがなかったときにだけ使う神頼みみたいなもんだ! 医学と人類が一体なんのために日々進歩してると思ってんだよ。そうやって迷信に頼って失われる命を少しでも守るためだろうが。つーか、呪詛や疫神憑きで病になってるならともかく、ただの風邪なら邪気祓いするより素直に抗生物質飲んだ方が断然治りも早いんだよ。陰陽師の俺が言うんだから間違いないよ」
「あなたいま、ご自分の家業を全否定しましたね」
「してねーよ。だってこれ、単なる棲み分けの問題だもん。俺は医者じゃないんだから、病気に関しては素直に病院を頼るよ。人面疽が出たとかなら、さすがに整形外科よりうちに来いって話だけど」
あと別に、個人的には特に実家の家業に思い入れもないので問題ない。
朝ごはんもそこそこに手早く身支度を整える。とはいえ、別に近所の病院に行くだけなのでそれほど時間はかからない。ざっとシャワーを浴びて寝癖を直し、ついでに髭をそるだけだ。
濡れた頭を乾かしていると、こちらも既に弟子の保険証一式を準備していた式神が、心配そうに声をかけてくる。
「あの……よろしいのですか主殿。病院ですよ? なんでしたら私が代わりにゆきますが」
過保護な式神の言葉にさすがに苦笑する。どうやらこの式神にとって、自分はまだサヤカと大差ない子供に思われているらしい。さもありなん。年を経て妖狐にまでなった狐から見れば人間など、きっと誰もかれもが子供のようなものなのだろう。
特に自分に対しては。春明は笑いながら告げた。
「大丈夫だよ。行くのだって街中の小児科だし。死者の無念に支配された怪談スポットに向かうわけじゃない」
陰陽師に限らず、霊能力者というものは総じて病院や墓地などとは相性が悪い。理由は言うまでもないだろうが、中でも見鬼持ちは特に死霊に狙われやすい。そのせいもあって春明も幼い頃から病院は苦手だったが、さすがにこの歳で病院嫌いなどガキ臭いことをとのたまうつもりはない。
病院は近所だったが、熱がある子供を歩かせるわけにもいかないので春明がおぶって連れて行くことにした。本当は大きめのキャリーケースにサヤカを詰めていこうとしたが、例によってフォックスアタックで式神に止められた。かなり本気で痛かった。
こういう時に、子供と乗れる自転車を買っておけばよかったな、と思う。後の祭りではあるが。
(サヤカの風邪が治ったら、来週末にでも一緒に買いに行こう)
この子供が一体いつまで滞在するのか分からないが。背中越しに弟子の体温を感じながらそんなことを考える。そうだ。考えてみればあのMTBも買ってから結構経つし、ここらで新品に買い替えてもいいだろう。この子がこの先いなくなったとしても、別に無駄にはならない筈だ。
識もきっと、反対はしないだろう。
「インフルエンザの反応は出ませんでしたが、少し熱が高いので一応座薬も出しましょう。三十八度五分を超えるようだったら使ってあげてください。あまり高熱が出過ぎると体力が落ちてしまうので」
「ざやく」
「おや、おとうさんは使ったことがありませんか……使い方、分かります?」
「いえ、大丈夫です……分かります……あと俺はお父さんではないです……」
「そうですか。ちなみにサヤカちゃんは過去に熱でけいれんなどを起こしたことはありますか?」
「おとうさんではないので分かりません……」
年齢的に――と言いかけて、年齢的には充分父親に該当することに気づいてしまい密かに落ち込む。自分で自分を傷つけてしまった。もう十代ではないのに。
結局、使われたことはあるが使ったことはない座薬と飲み薬(粉)を貰い、えっちらおっちら帰路についた。帰る途中、ふと思い立ってスーパーに寄る。
「おいサヤ。なんか食べたいもんあるか? プリンとかゼリーとか」
背中の弟子に声をかける。風邪なので喉ごしのよいものがあった方がいいだろう。サヤカは背中にへばりついたままうーん、と悩み、きっぱりと言ってきた。
「からあげ」
「そうじゃねえ」
質問の主旨を真っ向から大胆に無視した解答だった。
そうじゃねえ。
「唐揚げは風邪が治ったら買ってきてやるよ。そうじゃなくて、アイスとかヨーグルトとか、薬と一緒に食べられるやつ」
「アイスがいいー。こちょのあいす」
「アイスな。オッケ」
背中の弟子がずり落ちないように気を付けながら、サヤカに徳用チョコアイスを、ついでに自分用にハーゲンダッツのアイスを購入した。
四歳児の一般的な体重は大体十六キロ前後。サヤカもその例にもれず体重は十六キロほどある。だが、起きがけの弛緩しきったところにフライングボディアタックを喰らうならばともかく、背負って歩くくらいなら、子供一人分の重さなどなんでもない。
アイスを買った師弟は、そうして仲よく家に帰った。
サヤカは途中で眠ってしまった。
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