急転
風邪は思ったより長引いた。
「うーん……今日もまだ熱あるかー……」
「なんでしょうねぇ。熱自体はさほど高くはないのですが」
出勤前。サヤカの体温計とにらめっこしながらぼやく横で、識も心配そうに呟く。
結局週末を過ぎて貰った分の薬を飲み終わっても、サヤカの病状は回復しなかった。念のために他の病院にも行ってインフルエンザ以外の検査も受けてみたが、特にこれという病名もなく正真正銘ただの風邪であるらしい。あまり食事をとっていないせいか、本人も元気がなくなってきている。
これは後から兄伝手に聞いた話だが、サヤカはもともと身体が弱く寝込みやすい体質らしい。母親の方も身体を壊して寝込んだ結果の入院とのことだったし、どうにも生来病弱な家系であるようだ。特に流行病でなくても熱を出すのはしょっちゅうで、そのフォローもあり兄は仲良くなったのだそうだ。
「さや、今日もほいくえんおやすみー?」
「お休み。風邪がちゃんと治るまではずっとお休み」
「じゃあ今日どこにおでかけするの? こうえんいく?」
「どこにもお出かけしないよ。家で大人しくしてろ」
「ええー……」
ご不満そうだがこればかりは仕方ない。ぐずって拗ねる弟子をよそに、てきぱきと出勤の準備をする。
「じゃあ、念のために識は今日も実体化しておけ。俺もなるべく早めに仕事を切り上げて帰ってくるようにするから、何かあったらすぐ連絡しろよ。もし急に具合が悪くなったりしたら、識が病院に連れていってやれ。万が一、サヤカに疫神の気配が生じた場合、問答無用で食っていい。宗家の許可なんざ気にするな」
「必ずや。その場合、たとえ主殿の許しがなくとも必ずや」
「いやあの、出来れば俺の許可に関しては一応気にして欲しんだけど……まあ、頼んだぞ」
「御意」
以心伝心を通り越して、やや頼もしすぎる式神の返事に見送られて家を出る。がらりと引き戸を開けると、冷えた冬の風が一気に襲い掛かってきた。
(さっぶ……)
冬将軍からの容赦ない攻撃を、コートの襟を立ててそそくさと防ぐ。識の見立てた新品のコートは確かに温かく着心地もよかった。あいつの見立てに間違いはない。伊達に年中無休でフェイクじゃないファーをまとっているオシャレ種族をやっているわけではないのだ。
(サヤの風邪、結構長いな……来週になってもまだ治ってないようなら、一度親御さんにも連絡入れた方がいいよな……)
もちろん兄には早々に連絡を入れた。入れた直後に速攻で『大丈夫? 邪気祓いる?』というメールが返ってきただけだったので速攻で断った。今回のサヤカの風邪は正真正銘ただの風邪である。彼らのような呪い師が出る幕はない。
たとえばの話。異形に耐性のない人間が偶然、百鬼夜行に遭遇したり疫神に憑かれたりすると『突然の心不全』や『原因不明の体調不良』に襲われたりする。そういうパターンも確かにあるが逆に言うと、世の中の異変全てに怪異が関わっているわけではないのだ。
あるいは逆に、普通の病気によって弱ったものが死神や邪鬼に目を付けられて天命が尽きる前に命を失うこともあるが。神ならばともかく鬼程度なら、生じた瞬間に識の餌になるだけだろう。だから命の心配まではない。が――
(それはそれとしても、やっぱり子供が具合悪そうにしてるのは心配になるよなぁ……)
熱が続いているからか、最近のサヤカはずっと機嫌も悪く食欲もない。寝ているだけの生活に飽きたのもあるし、思うように身体が動かない不満もあるのだろう。出会った頃はふっくらしていた頬も、ここ数日で心なしかややこけてきた。
いつもはサヤカと手をつないで歩く通勤路を一人で歩く。保育園まで送る必要がないので通る道も違う。いままで何年も一人で通ってきたのに、隣で歩く子供がいないというだけで、通い慣れた筈の道が酷く味気ないものに感じた。
(やっぱり今日も早く帰ろう)
春明はそう決意すると足早に会社へと向かった。
異変は、その夜に起こった。
*****
帰宅直前に入れられそうになった会議をぶっちして定時退社で帰宅すると、やはりサヤカの出迎えはなった。
自室に鞄を置き、部屋着に着替えて居間にいくと、朝と同じく布団くるまれたままの弟子が狐に看病されていた。録画かレンタルでもしたのだろう。ウトウトしながらアニメをみている。いつものように踊ってもいないし、識とおしゃべりもしていないしおもちゃで遊んでもない。
わかっていたことではあるが。そのことに少しだけ落胆していると、主君の帰宅に気づいた式神が声をかけてきた。
「おや、お帰りなさいませ主殿。随分とお早いおかえりで」
「おう、ただいま」
「最近、やけに帰宅の早い日が多いですけれど、如何したのですか? ひょっとして出勤しているようなふりをしているだけで、実はとっくに会社を首になったりしてるんです?」
「今日の天気を聞くような気軽さでなんてこと聞いてくれちゃってんのお前。ていうか俺は自分のところの式神にどれだけ信頼されてないんだよ。ちゃんと働いてきたともさ。労働後の帰還ですともさ」
「それはそれはお疲れさまでございました」
狐は大して心のこもっていない仕草でぺこりとおざなりに頭を下げた。
いっそ見事と言ってもいいくらい、本当にどうでもよさそうな頭の下げ加減だった。
「まあ主殿の場合、陰陽師という副業もあることですから、職場を首になっても食いっぱぐれることはないんですけれどね」
「だからなんでお前はそう、隙を見て人を苦境に落したがるの。就職氷河期を乗り越えてようやく就職したってのに、そう簡単に首になんぞなって堪るか。今日だってバリバリちゃんと働いて、帰宅間際にギリギリで参加させられそうになった欧州との会議をぶっちして帰ってきたんだから」
「大丈夫なんですかそれ」
「知らん。ぶっちゃけ俺は今世での栄華はとっくに諦めてる」
「早いですよ人生に対する諦めが」
それこそ諦めたようにおざなりな口調で忠告されたが、さりとてこればかりはどうしようもない。
春明はふっとニヒルに笑いながら、大人の男らしく物静かな諦念を漂わせる。
「まあ所詮、俺なんて国家試験にも受からなかったしがない兼業陰陽師。いまさら出世を望むなど過ぎたことよ」
「落ちた理由は霊能ではなく筆記試験の点数が足りなかったせいですけどね」
「黙れ。言わなければ分からないことをあえて口に出すな」
折角ニヒルさを演出したのに、この狐ときたら容赦がなかった。
「そもそも主殿は術者としてはへっぽこでも、見鬼眼だけは一流と言って差し支えない極めてパラメータの偏った能力者。総合的なレベルでは低くても、その有用性を鑑みれば一芸採用されてもおかしくはないのに。よりにもよって筆記試験で落ちるとは」
「だってなんで日本の国家公務員試験なのにTOEICの成績が八百点以上必要なんだよ!? おかしいだろ絶対!」
「最近はグローバル化が進んでおりますからぇ。どこの役所でもバイリンガルや、特に中国語の堪能な者が求められているそうですよ」
「俺は理系なのー!」
最終的にニヒルさは家出し、駄々っ子のように声を張り上げることで、しんどい会話を打ち切った。
ふと狐が気になったように聞いてくる。
「……そういえば聞いたことありませんでしたけど、主殿は一体何になりたかったのです? いえ、もちろん職という安泰を得た以上、それ以上の努力を厭うのが人間というもの。しかしいまは通信教育など便利なシステムもございますし、何かしらの夢があるというのなら、これから資金を貯めて第三の人生を目指すというのもまた悪くはな……」
「……俺はね。識」
つらつらとなにやら的外れなことを語りだした式神の言葉を遮って。
春明はかつて叶わなかった夢を、過去に諦めてしまった未来を回顧するようにそっと口を開いた。
「石油王に、なりたかったんだ」
「あっ、ハイ仕方ないですね諦めましょう」
ついに従僕たる自分の式神に人生を諦められた。
ここまで来るといっそのこともう、この先どこまで自分の扱いが落ちるのが楽しみですらあった。
密かにワクワクし始めたオラの気持ちを押し隠しサヤカの様子を窺ってみる。
「……まだ熱は下がってないか?」
「昼間は七度にまで下がったんですけど、夕方あたりからまた上がってきましたねぇ……食欲もあまりないようですが、夕食は頑張って少し煮込みうどんをたべて、そのあとに薬を飲みました。これでまだ熱がさがってくれるとよいのですが」
「食べないことには体力も回復しないからなぁ……だがしーかし! そんな弟子のために、今日の俺は秘策を用意したのだ! じゃーん!」
そう言って。
春明が得意げな笑みで取り出したのは、帰り道にデパ地下で買ってきた豪勢なゼリーだった。コンビニで一つ百円とかで売っているやつではなく、なんだがパティシエちっくな人が作ったっぽいシャレオツな一品。澄んだガラスの器に入ったクラッシュされたゼリーはそれ自体が氷の欠片のようにキラキラとしていて、上には花のように美しく飾り切りされたフレッシュなフルーツが並んでいる。食べ物というより一種の芸術作品のように完成されたそれは、見ているだけで目にも楽しく、いかにも食欲をそそった。
「おお!」
「ほら、すげーだろ! これ、なんかのイベントで来日してるなんとかってパティシエが作ったなんとかって菓子なんだぜ! 食欲がなくてもこういうやつなら食べられそうじゃね? 缶詰じゃない果物もたっぷり入ってるし」
「確かに。いや主殿にしては驚くほど気の利いた思いつきですね! ゴミみたいな情報量しかない説明でしたが、発想だけは気が利きいておりますね!」
得意げに説明してみたらゴミみたいと言われた。
少しだけ傷ついたが、それでも褒められた部分だけを前向きに受け取り(鋼の精神)、ふふんと鼻を鳴らす。
「そうだろうそうだろう。いや実は職場の上司のお子さんも体調を崩しやすいらしくってさー。ちょっと相談してみたら、その子はゼリーをよく食べるっつーから、おすすめのを買ってきてみたわけよ」
「ずいぶんとセレブなご家庭なのですね……」
確かにセレブな値段だった。たった一つのゼリーが、下手なチェーン店でランチを食べるよりセレブなお値段だった。
「まあ、サヤが食いきれなかったら残りは俺が食うし。気に入ってくれて食べてくれればめっけもんってことで。ほらサヤ。起きろ起きろ。土産買ってきたぞ土産」
「めー」
微睡中を邪魔されて一気に不機嫌になった弟子が唸り声をあげる。なかなか人間らしからぬ唸り声だったが(山羊かよ)、怒りはあっても体力は枯渇しているらしく、起きた途端にぐらりと身体が傾いだ。ふらふらと危なっかしいので、椅子まで抱っこで運んでやる。
「ゼリー買ってきたんだけど、食べれそうか? 無理しなくてもいいぞ。残したら俺が食べるから」
「たべるー……」
弱っていても宝石のようなスイーツにはやはり魅力を感じるのか、サヤカはふらつきながらもちびちびと食べ始めた。ぷるぷると震えながらプルプルのゼリーを食べる。韻を踏んでていい感じだ。
「よかった。なんとか食べられそうだな」
僅かずつだがなんとか飲み下している様子をみて、式神と共にほっと一息つく。手を滑らせたのか、サヤカがぽろりとスプーンを落した。
最初は。
たんに手が滑っただけだと思った。しかしそうではない。そうではなかった。
異常に気付いたのは次の瞬間だった。
ぴぃん――と。
サヤカの手足が、不自然なほどに真っ直ぐ伸びた。けれどそれはほんの一瞬で。次の瞬間にはがくがくと――ガタガタと音を立てて小さな身体が瘧にかかったように震えはじめる。
自分でも。
何が起こっているのか分からないのだろう。それは傍で見ているだけの春明も同じだった。だが、そんな周囲の混乱を許さぬように、サヤカの容体はほんの刹那で激変した。
いつもは桜色の唇が水に墨を落したように、一瞬で青に切り替わる。
気味が悪いほど関節を真っ直ぐに伸ばし、口元から食べたばかりのゼリーを吐き出しながらけいれんする。
もはや自分では椅子に座ることも降りることも出来なくなった子供は、唯一、自由に動く眼球だけで必死にこちらに助けを求め――
そうして彼女は――悲鳴をあげた。
「あ……ああああぁぁぁああアアああアアああ!!」
「――サヤカ!!」
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