共同生活

夫君なせみこと、何ぞ来ますことのおそきや。われすで黄泉竈食よもつへぐひしつ』


        日本書紀神代紀上より抜粋


 

 *****



 少しばかり予想外を除いて、サヤカとの共同生活は概ね順調だった。


もともと家が保育園に近かったから預け先に選んだと言っていたが、この分だとその言もあながち嘘ではなかったらしい。なにせ春明の自宅から保育園までの距離は本当に近かったのだ。歩いていけるくらいに。


 なので朝は春明が通勤がてらサヤカと一緒に歩いて保育園に行き、お迎えは呪符で人化した識がこれまた徒歩で一緒に手を繋いで帰ってくる。近いとはいえ大人の足で歩いても十五分程度はかかってしまう距離なのだが、小夜香は歩くことに慣れているのか特に文句は言わなかった。自転車があれば楽なのだが、あいにく間宮家のチャリは春明のMTBが一台のみだ。二人乗りは出来ない。


 問題があるとすれば、むしろ式神のほうだった。


 人化した式神は、本来の姿が金毛狐ということもあり金髪金眼である。それだけでも目立つのにその上、大層な美女でもある。古来より狐は美女に化けるものという相場があるためか、あるいはやはり馴染んでいても本性は異形ということなのか、とにかく一般的な人類の感覚からすると絶世といっても過言ではないレベルの美女なのだ。


 ゆえに、その姿で保育園の送り迎えなどさせたら相当に目立つ。王侯貴族がまったく忍びきれぬままお忍びで街中を歩いているぐらい目立つ。なので、お迎えの時は人化に加えて変化もさせて、日本人らしい黒目黒髪に変更させることにした。なお、自宅では当然の如く狐の姿だ。本人(狐)は人の姿の方が動きやすいと言っていたが、主君権限で押し切った。たとえ中身が子供の頃から見知った式神とはいえ、春明も一応成人男子である。妙齢の美女と一つ屋根の下で暮らすというのはなかなかに具合が悪い。


「ただいまー」


 春明が帰宅するのは大体八時前後。日によっては七時前に帰れる時もあるし、九時を過ぎることもある。あまり遅くなるようならば、サヤカには先に寝るように言ってある。


 この日は割と早かった。まだ起きていたのか、サヤカが弾丸のように飛び出してくる。


「あー! おじちゃんだ! おかえりおかえりおかえりー!」


居間から飛び出て玄関まで一直線。迷うことなく惑うことなく、全力の短距離疾走から勢いつけて、抱きつくというよりも突進してくる子供の身体を正面から受け止めた。


「おう、ただいまー。いい子にしてたか?」


「うん! きょうのごはんねー、識といっしょにね、さやがつくったの! すごーくおいしいよ!」


「お、そりゃすげぇな。道理でいい匂いがするわけだ。今日は何作ったん?」


「めだまやき!」


「俺、目玉焼き好きだよ」


 最近毎日食べている気がするが、その点についてはあえて言及しないでおく。


 腹にひっついたままの幼女を引きずりながら居間に向かうと、そこでは既に式神が夕食の仕度を始めていた。仕度といっても識に調理は出来ないので、出来ているものを温めて並べるだけだが。


「おや、お帰りなさいませ主殿。本日は随分とお早いお帰りで」

「んー、月末近いからなー。これ以上は残業禁止令」

「ああ、なるほど」


 ちゃぶ台の上に並べられていたのは、炊いた白米と表面がやけに緑っぽい味噌汁。焦げた目玉焼きとモヤシのナムル。あとさすがにこれは出来あいの惣菜を買ってきたのであろう豚カツがあった。識が得意げに満面の笑み――とはいえ表情は相変わらずよく分からないが――を浮かべた。


「どうです? すごいでしょうすごいでしょう? 今日の食事もサヤカ嬢が頑張って仕度をしてくれたのですよ」


「うん。美味そうだ。すごい美味そうなんだがそれはそれとして識。俺はここ一週間、毎日毎食目玉焼きを食ってる気がするんだけど、そろそろ俺のコレステロール値……」


「シャラップ主殿! それ以上いけない!」


 美味そうではあるがそれはそれとして、栄養学面的にどうなのか問いかけようとしたら、フォックスアタックが飛んできた。顔面めがけて襲いかかってくるふさふさの尻尾を紙一重でかわす。


「二度目は食うか!」


 しかし敵(従僕)もさるもの。こちらの回避すらもすでに予想されていたのか、識は飛びかかった勢いをそのままに、壁に垂直に着地するとそこで一転。慣性を殺さず綺麗に方向転換し、背後から再び襲いかかってきた。


襲いかかってきてそして――喰らいかかってきた。


 がぶり――と。


ネコ目イヌ科のそれなりに鋭い顎が肩口に噛み付いてくる。


「ぎゃー!」


 春明はびっくりして悲鳴をあげた。当然である。


「ぎゃー! 狐に噛まれたぎゃー! エキノコックスで死ぬー!」


 服の上からなので別に大して痛くはなかったが、それとこれとは別の話だ。牙を通し滴る唾液越しに感染したエキノコックスが、血液の流れに乗って身体中を巡っていくのを感じる。


嗚呼、短きかな俺の人生。思えばロクなことのない人生だった。僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう、ロケットが月に行っているような時代によりによって陰陽師の家に生まれ、かといって特に才能もなく資格も取れず。それでもなんとかそれなりの中小企業に就職出来たものの、土日休みもひょいひょい実家の用事を命じられ、そのせいで(断固としてそのせいで!)彼女も出来ないし、狙ったピックアップはなかなかこない。友人があっさりと狙っていた高レアキャラを引く中で、どうして俺の元にだけ我が王が来ないのか――


などと、春明がつらつらとそれまでの人生を走馬灯のように振り返っていると、当の狐から呆れた声がした。主君を噛み殺した反省もなく、馬鹿にするように言ってくる。


「死にませんよ。ちょっと噛んだくらいで大袈裟な。というか死ぬわけないでしょうその程度で。大体、エキノコックスってなんですか。実体を持つ本物の狐ならばともかく、十穀を絶ち半霊体である私にそんなもの関係あるはずないでしょう。万が一そんな菌を保有していたところで、そもそも主従契約を交わしている私の身体が主君である主殿を害することが出来るはずないじゃないですか」


「いやだって今噛んだよな!? いまめっちゃ害したよな!?」


「まあそれはともかく」


 それはともかく、と。


 その一言だけで、狐は全ての空気をリセットした。

 反省も謝罪も一切なく、しかし綺麗にリセットした。


「仮にも食事を用意された側が、出されたものに文句をつけるとは何事ですか! 私は主殿をそのようなお人に育てた覚えはありませんよ!」


「いやお前に育てられた覚えもねぇよ」


 家事の九割九厘をほぼ式神に頼り切っている状態で言っても、あまり説得力のない台詞ではあるが。案の定、狐はふんと鼻を鳴らしてスルーした。


「それに、指先を使う作業というものは脳の成長にもよいのです。心配せずとも卵の食べ過ぎで死んだ話など聞いたこともありません。毒を出されたわけでもあるまいに、こういう時は黙って食べるが大人というものでしょう。幼子がせっかく興味を示していることに、そんな些細で水を差すなど野暮ですよ主殿」


 ついに主君の健康よりも幼児教育を優先し始めた。


 主従って一体なんだろうという抜本的な疑問に襲われた。


「別に文句言ってるわけじゃねーじゃん。食ーべるよ食べますよ。いっただっきまーすっと」


 ちゃぶ台の前に座り、手を合わせる。春明も料理が出来ないわけではないが、今までは一人分をわざわざ作るのが面倒くさくて買い食いか外食が殆どだった。コンビニ弁当のプラスチック容器ではなく、ちゃんと茶碗によそわれたご飯はそれだけで美味しそうで嬉しい。


 まずは味噌汁。ほかほかと湯気をあげる汁椀から、ふうわりと濃い出汁の香りが漂った。まだ熱の冷めないそれを、音を立てて一口すする。


「うん。うまい」


 言った途端。


 向かいで頬杖をついていたサヤカの顔が、ぱぁっと喜色に輝いた。喜びあまってぴょんぴょんその場で飛び跳ねながら、得意満面に言ってくる。


「ほんと!? ほんと!? それね! サヤがね! ほうれんそうのぱっぱびりびりって手でちぎったのー! それをお鍋に入れてね、ゆでたの! あとお豆腐を切ったんだよー」


「あー、なるほど道理で」


 道理でやたらとサイズがまちまちで、表面が緑に支配されていて、しかも一枚あたりがやけに大きいわけだった。豆腐に到ってはさいの目というかほぼ崩れている。それでも、識が丁寧に指導をしたのだろう。出汁をしっかりとった味噌汁は薄味だがその分しっかりと風味が活きていて、春明の好みの味だった。


「サヤは料理が上手だな。すごく美味い。俺の好きな味だよ」


 だんっ、だんっ、だんっ!


 にっこり笑うと、サヤカはよほど嬉しかったのか、何度も何度も飛び跳ねた。


「ほんと!? じゃあね、サヤね、今日も今日も今日も今日も今日も今日も今日も、そのお味噌汁また作ったげるね」


「サヤ、そういう時は『いつも』とか『毎日』っていうんだ」


 限りある語彙で斬新な表現技法に臨んでくるサヤカにやんわりと教えてやる。


 そう、彼女を預かって何より予想外だったこと。


 サヤカは料理が出来た。


 もちろん、出来ると言っても相手はまだ四歳児である。毎食きっちり一汁三菜とまではいかない。せいぜい、米を研いだり手で野菜やハムを千切ったり、はたまた卵を割って混ぜたりとその程度だ。だが、家庭料理を作るぐらいなら、実はその程度でも充分なのだ。


 もちろん、子供だけでうまくいくわけではないが、そこは誰かが一緒についていればいい。そして識は、料理をしないだけで料理自体が作れないわけではない。


 サヤカが米を研ぎ、識が水の量を教えて炊飯器に注ぐ。水を張った小鍋に昆布を浸して火を付け、お湯が沸いたら一度止める。そこにサヤカが千切った野菜の葉っぱや豆腐を入れて、お椀に入れたぬるま湯で溶いた味噌を流す。卵をお椀に割り入れてフライパンに落とし、識が火加減を調節する。


 大人が一人で調理するより遥かに手間がかかるし作業も大雑把になるが、その分、子供でも危なげなく出来る。自分で食べるものを自分で作るという行為が楽しいのか、サヤカは喜んでこの『クッキング』をしたがり、そして識も飽きもせず丁寧にそれに付き合った。


 結果として、春明もそのお相伴に預かっている。さすがに子供の手だけで本格的な主菜は難易度が高いので、メインのおかずは買ってきているが、自宅で炊いた米とインスタントじゃない味噌汁、そしてサラダが一品あるだけで、普段の食事がぐっと華やかになる。酒と昆布出汁を混ぜて炊いた米は、外で食べるものよりもつやつやとして美味かった。


「あ、このモヤシのナムルは初めて食べる。初めて食べるけど美味いなこれ。どうやって作ったんだ?」


 小鉢に盛りつけられたモヤシは、しゃきしゃきとした歯ごたえの中に細く割いたカニカマの僅かな赤が混じっていて、見た目にも華やかだ。甘じょっぱい和風の味付けの中にこってりとしたコクがあり、思わずひょいひょいと箸が進む。


「ああ、それはですね。ざっと湯がいたモヤシにめんつゆとマヨネーズを混ぜて作った和えダレをかけて、天かすとカニカマを加えて混ぜたのですよ。まあ実際には、湯がくのは危ないので水に晒したモヤシをレンジにかけただけですが。サヤカ嬢がモヤシのあたまを取ってまぜてくれました」


「へー。この味、天かすか。ナムルっつーとゴマ油に塩だと思ってたわ。けど確かに、こっちの方が食べやすいな。これおかわりある?」


 めんつゆの濃い出汁とマヨネーズのコク、ほんの少しまじった天かすが、癖のないモヤシにいい塩梅に馴染んでいる。大人だけでなく子供でも抵抗なく食べられそうな味付けだった。味はアッサリめだが、居酒屋やラーメン屋で出てくるお通しよりも遥かに美味い。


 もともとはさほど野菜を食べるほうでもないのだが。自分でも意外なほどあっという間にぺろりと食べてしまい、思わず小鉢を差し出すと、識が動くより早くサヤカが嬉しそうに「あるよ!」と叫んで丼ごと持ってきてくれた。


「おじちゃん、サヤの作ったごはんすごく美味しい!?」


「うん。すごくおいしい。思わずおかわりしちゃうぐらい」


 勢いこんで尋ねてくる子供に肯定を返すと、なぜだか狐まで嬉しそうに頷いた。


「主殿は基本的に、普段の食生活における野菜が全般的に足りてませんでしたからねぇ。こうしてサヤカ嬢が作ってくれて、家で食べるようになってくださるのは実によいことですよ。家計的にもエンゲル係数がぐっと控えめになりますし」


「つまりその分、俺の小遣いに余裕が生まれるようになるわけだな」


「サヤカ嬢のおかげで浮いた食費ですので、主殿にキャッシュバックする理由はどこにもございませんね。浮いた資金は今後のためにプールしておきましょう」


 ガチャ貯金の予算枠が増えるかと思ったら、あっさり断られてしまった。

 わかっていたことだが、少し切なかった。


 だが確かに、こうして家で食べるご飯は美味しい。


 たとえ一人で食べるご飯であっても、誰かが自分のために作ってくれた料理というのはそれだけで美味しい。そしてそれを伝える度に、相手が喜んでくれるのを見ると、つられて自分まで嬉しくなってくる。


 気づけば酒も殆ど飲まないまま、あっという間に食べ終わってしまった。心地よい満腹感と満足感。思わず口からついて出る。


 美味しかった。嗚呼、本当に――ほんとうに。


「……ああ、腹が減った」


 満腹、だ。


「え?」


 ぱちくり、と。


 サヤカが不思議そうに瞬きをする。


 狐がぎょっと目を見張る。


 我知らず漏れ出た本音に、自分がいま一体何を口走ったのかを唐突に理解する。


「おじちゃん、まだお腹へってるの?」


「ち、違う! 間違えた! いまのなし!」


 首を傾げる女の子に、春明は慌てて首を振った。


「おじちゃん、くいしんぼなのね。しかたないね」


「違う違う誤解だ誤解! 間違えただけ! 腹いっぱいって言おうとしたの! そ、それより! 今日はまだ時間が早いから風呂に入る前にちょっと勉強会をしよう!」


 我ながら少しばかり露骨な話題転換だったが、サヤカは勉強会という新たなる単語に興味をひかれたのか、それ以上追及してこなかった。


 四歳児の興味をうまく逸らせたのを幸いに、そそくさとちゃぶ台の上を片付け、代わりに以前から用意しておいた教材を広げる。


「このままだとサヤカの中でおじちゃん呼びが定着しちゃいそうだからな……せっかく明日は休みで多少の夜更かしも出来ることだし、一つ師匠らしいことをしてやろう」


 きょとんとした顔を浮かべる弟子に、にっこりと告げる。


「これから、サヤカに見鬼眼の使い方を教えてやろう」

 

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