第4章   『バスジャックをしているときは外の様子を気にした方がよい』

状況が混迷しているときにこそ外部から厄介事が舞い込んでくる ①

 何が間違いだったと問われれば迷いなく「僕が運転していること」と答えるつもりであったが、それを抜きにしても過ちを犯したと自覚していた。



「静かすぎると緊張して怖いですね。何か音楽とかかけません?」


 下山の身体は反射的とも表現できるレベルで運転の補助をしてくれており、また、周囲に車の影すらなくて、僕は安全であるとアピールするためにそう言った。肉体を自由に動かせる、という懐かしい感覚に興奮していたということもある。とにかく、反応を期待せずにそう呼びかけたというわけだ。

 だが、思いがけず車内に手を上げた者がいた。先ほどまで眉を顰めて僕を見ていた若いカップルの、女の方が手元を注視しつつ運転席へと近づいてくる。彼女はスマートフォンにケーブルを接続し、その末端をシガーソケットに嵌めた。不穏な音楽がスピーカーから流れ始める。これはバスジャック犯への迂遠な抗議かもしれないぞ、と口の中の苦みが増したとき、唐突に、腹の奥に染みこむような低音が響いた。ドラムの力強いリズムが続き、勇ましい音楽へと変貌する。「この曲は何の曲?」と訊ねると女は自棄を起こしたかのような調子で答えた。


「映画のサウンドトラックです。私、そういうのが好きで。たぶん見たことありますよ」

「幽霊でも?」

「あー、そこは保証できません」

「だよね」しかし、確かにどこかで耳にしたような記憶がある。「何の映画?」

「九十年代の洋画なんですけど」


 女は映画のタイトルを告げる。その瞬間、彼女の恋人とミヤコ、ヒロトとトシコが噴き出した。爆笑、という表現がしっくりと来るほどに笑っている。僕も笑いはしたが、それはどちらかというと苦笑に近かった。

 流れている音楽はハリウッドで製作されたアクション映画のものだ。爆弾の仕掛けられたバスの中で主人公が奮闘する、というストーリーで僕も鑑賞した経験があった。確かに状況には合致するが雰囲気にはそぐわない。苦言を呈したものの車内からは僕への反対意見が続出し、また、ミヤコがあらすじを説明したせいで一郎老人や花子夫人、老人たちのグループまで加勢してしまうこととなった。

 孤立無援になった僕はハンドルを強く握りしめる。


「なんだかなあ」

 そう唸ると「いいじゃんいいじゃん」とミヤコが運転席のすぐ後ろから肩を叩いてきた。「笑い話にしないと乗客は納得しないよ」

「乗っている人の半分はバスジャック犯だ」

「そんなことすぐに忘れるって。バスジャック犯と乗客の違いって何よ?」

「犯罪に手を染めてないことかな」


 単純明快な返答にミヤコは「もっと気の利いたことを言おうよ」と苦笑した。

 次のトラックへと移ったのか、曲調が慌ただしいものへと変わる。

 そのとき、ルームミラーに影が過ぎった。長い直線だったため振り返るとトランクルームへと繋がる穴から太郎少年が出てきている。「どうしたの?」と声をかけると彼は泣きそうな表情で駆け寄ってきた。


「ねえ、この曲やめてあげてよ、ヤシマユミがうるさいんだ」

「ちょっ、ちょっと、揺らさないでくれ、太郎くん」

「いいからさ、これだよね? 止めるよ」


 彼は僕の傍らに置いてあるスマートフォンを手に取り、乱雑にケーブルを引き抜いた。その瞬間、音が消える。耳を欹ててみると確かに走行音の隙間にすすり泣くような声が聞こえてきた。

 ああ、と僕は納得する。あの映画では派手な爆発シーンがあった。きっとヤシマユミはそれを思い出しているのだろう、本来あるはずだった爆発を悔やんでいるのだ。

 でも、しかし、とにかく、僕の希望通り音楽は止まった。背後から聞こえる不満に耳を閉ざし、運転に集中する。近くに車はいなかったが、それでも単独事故を起こす可能性はあるのだ。余計な一言を口走ってしまったと反省しつつ、マイクでアナウンスをしておいた。


「音楽はなしです。皆さん、外でも眺めていてください、木しかないですけど」

「ええ、つまんない」ミヤコが口を尖らせる。「バスジャック気分を味わおうよ」

「しょうがないだろ、ヤシマさんがうるさいなら」

「あんなの犯罪者じゃん。犯罪者の要求に従うわけ?」


 どの口でそんなめちゃくちゃなことが言えるのだ。自分のことを棚に上げるミヤコに呆れ、僕は大きな溜息を吐いた。それに腹を立てた彼女が苛立たしげに座席を平手で叩く。


 その瞬間、動作とは不釣り合いなほど大きな、ぱん、という音が弾けた。


 ハンドルが暴れる、車体が傾く、バスが頭を振る。突如として襲った振動に尻が跳ねた。何が起こったのかわからない。思考がパニックに陥り、遠く離れたところで悲鳴が聞こえる。必死にハンドルを制御しようとしたが、がくがくと震えて予想もしない方向へと動き、抑えることもままならなかった。金属が擦れる不快な音が鳴り響き、そこで左側面がガードレールと接触していると気がつく。咄嗟にブレーキを踏むと揺れはさらにひどいものに変わった。

 耳障りな音と全身を襲う振動はしばらく続き、それが収まったところでひっくり返っていたミヤコが立ち上がった。混乱と怒りと嘆きを顔に貼りつけて彼女は迫ってくる。


「ちょっと、純! 何してんの!」

「わからないよ! ハンドルが言うことを聞かなかったんだ!」

「じゃあ、なに、整備不良? それともなにか踏んだ? うええ、見たくないなあ」


 言いながらミヤコは窓を開け、身を乗り出した。右側には何もなかったようで左側へと移動し、同じように下を確認する。

 そこで、彼女の顔色が変わった。


「ねえ、純、タイヤがおかしいんだけど」

「パンク?」ぺちゃんこになったタイヤを想像して、僕は舌打ちをした。「ついてないなあ」


 とはいえ絶望的な状況というわけではない。あちこちを旅する僕たちにとって車の修復はかなりの頻度で遭遇する小遣い稼ぎの種であったからだ。ミヤコの魔法にかかればパンク修理など朝飯前である。

 しかし、ミヤコは窓の下を覗き込んだまま動こうとしない。先ほどの意趣返しにしてはいささか子供じみていて僕は彼女の背中に批難の声を飛ばした。


「ねえ、ミヤコ。音楽を拒否したのは悪かったよ。謝るからさ、タイヤと機嫌、直してくれないかな?」

「いや、それはいいんだけどさ」

「けど、なに?」

「これ、パンクって言わないと思う」

「は?」奥歯にものが挟まった物言いに思わず訊き返す。「どういうこと?」

「なんかさ、ホイールがめちゃくちゃに壊れてるんだよね」

「……は?」


 言葉の意味が耳を通り抜ける。ホイールが壊れているという状況に理解が及ばなかった。何をどうすれば十分に整備されているはずのホイールが壊れるというのだ? ミヤコの報告を疑っているわけではなかったが、ひとまず自分の目で確認すべく、僕はドアに手をかけ、後方を覗き込んだ。

 後続車は来ていない。

 だが、それ以上ドアを開けることができなかった。動きが止まった、というより、止められた、と表現する方が的確かもしれない。


 車の後方には悠然と車道の中央を歩く男の姿がある。


 国道四十六号線、その岩手県と秋田県の県境付近、奥羽山脈に差し掛かっている間には歩道らしき歩道はない。ほとんど自動車専用道路みたいなもので、歩行者がいることがそもそもおかしいのだ。

 そして何より奇妙だったのはその出で立ちだった。特撮やSF映画に登場するような、身体にぴったりと貼りつくスーツに全身を包んでおり、頭部は角張ったデザインのフェイスガードで覆われている。頭の先から足の先まですべてが光沢のある黒で占められた男の姿は自然溢れる光景の中では異質な存在感を放っていた。


 ねえ、ミヤコ。


 発したはずの言葉は声にはなっていない。喉が危機感により圧迫され、発声が阻害されていた。僕は唾を飲み込む。飲み込もうとする。だが、いつのまにか口の中がからからに乾いていて、ぱくぱくと唇が無様に動くだけに終わった。

 男との距離は五十メートルほどだ。だから、彼の動きの意味を咄嗟に判断することができなかった。彼は手に持っていた棒状の物体の先端を前方へと掲げ、水平にしている。それから半身になり、黒い棒へと頬を押し当てた。

 次の瞬間、車が大きく揺れた。腹の底を揺らすような低音とともにバスがさらに左へと傾げた。一瞬呆け、事態を把握する。


 撃たれたのだ。

 僕は体勢を戻し、ハンドルを強く殴りつけた。頭の中にあったのはたった一つ、逃げなければならないという思いだけだった。彼が誰で、なにが起こっているかは二の次だ。喉の肉をこじ開け、無理矢理に叫んだ。


「ミヤコ、早く直してくれ! 車を出す!」

「え、は?」

「いいから!」


 よほど切羽詰まった声だったのだろう、ミヤコは顔を引き締め、呪文を唱え始めた。じわじわと傾斜がなくなっていく。男は前進を再開している。完全にパンクが直るまでの時間をアクセルを吹かすことでなんとかやり過ごした。傾きがなくなると同時にバスを発進させる。慣性に引き摺られ、背中がシートにぶつかる。急激な加速にエンジンとタイヤがが唸りを上げる。ルームミラーで確認すると男が追ってきているのが映った。

 おおよそ現実離れした光景に僕は絶句する。

 男は走っている。地面を蹴り、脚を前に出し、腕を前後に振り、じわじわと距離を詰めてきているのだ。およそ人間とは思えない健脚にミヤコが呻いた。


「ちょっと、なにあれ! あの黒男、ハリウッド出身なの? めちゃくちゃ速いんだけど!」

「そうじゃなかったらアメコミかもね」

「どっちでもいいけど、何であたしたち追われてるのよ! 悪いことしてないじゃん!」

「それについては議論の余地があるけど、あの人は黒ずくめだから警察じゃないよ。パトカーだって白と黒だ」


 自分のジョークを鼻で笑いながらさらにアクセルを踏み込む。だが、速度を上げるにも限度がある。僕の運転技術では時速七十キロメートルが今出せる限界だった。それ以上速度を上げてしまうとカーブを曲がりきれない。幸いなことに後ろの男もそこまで速くは走れないらしく、少しずつ距離が広がっていった。


「とりあえず離したけど……いつまでもこの速さで走ってられないな」

「だろうね」とミヤコは顔面を引き攣らせた。「でも、あれ、何だったの?」


 彼女の問いに答えようとして、やめる。いつの間にか背後まで来ていた一郎老人が悲痛な面持ちをしていたからだ。唇を真一文字に結んだ彼はしばらく黙っていたが、やがて意を決したかのように呟いた。


「純くん、ミヤコさん……あれは超人です」

「え」ミヤコが目を見開く。「超人って一郎ちゃんたちみたいな?」

「ええ、私たちを追ってきたのでしょう……ご迷惑をおかけしてすみません。私と花子で処理しますから、太郎をお願いしてもよろしいですか?」


 一郎老人の張り詰めた表情には強い覚悟があった。横目で見ると花子夫人も頭を下げている。僕はルームミラーの端にちらりと映る黒男を覗いて深い溜息を吐いた。


「それはとても助かります。でもちょっといいですか?」

「……なんでしょう。手短にしてもらえると助かります」

「どうして太郎くんのことをお願いするんですか?」


 一郎老人の顔が強張る。口角が揺れ、眉がぴくりと動く。彼の表情はすぐに元に戻ったが、動揺を押し殺そうとしたのは火を見るより明らかだった。

 彼が弁明するより先に言い放つ。


「それってつまり一郎さんと花子さん二人がかりでも時間稼ぎにしかならない、ってことですよね」

「それは……」と一郎老人は言い淀む。何か反論したそうに彼の口が動いたが、僕は構わず続けた。

「一郎さん、正直に言うとそうでなくてもお断りなんです。あの黒男が単独で来ているとは言い切れないじゃないですか。となると太郎くんも狙われる可能性もある。そうなったら僕たちもこのバスも終わりだ」

「……確かに超人はグループを作って行動します。ですが、太郎がまったく別の場所で逃げたと言えばこのバスが襲われることはないでしょう。彼らの目的は我々で、命令外の行動を取ることは許されていないのですから」

「超人たちはそれを信じるお人好しの集まりなんですか?」


 一郎老人はぐっと言葉に詰まる。それに見かねて花子夫人が一歩前に踏み出した。


「大丈夫です。このバスの乗車記録には私たちの名前しかありませんし、どんな拷問にかけられようとも口にはしないことを約束しますので」

「拷問?」


 その暴力的な響きにミヤコが眉を顰めた。彼女は花子夫人の肩を掴み、思い切り揺すった。だめだよ、拷問なんて。そんなのがあるなら行かせられないよ。その悲痛な声に老夫婦は顔を背ける。迂闊なことを口走ってしまった、という自省がありありと浮かんでいた。

 僕も彼女と同意見だ。こうして関わってしまった以上、「なら分かりました」などとは口が裂けても言えるはずがない。そして、同情以外で老夫婦の意志を否定する深刻な理由があった。


「一郎さん、一つ、僕は間違いを犯しました」

「間違い?」

「さっき、ミヤコにタイヤを直させたことです。一郎さんたちはもう慣れちゃったかもしれないですけど、よく考えてください。それって世間一般でならかなり大変な事態になるんですよ」

「……あ」


 ましてや相手は人を超えた人間を統括する機関だ。ミヤコの魔法は非常に実用的な力であり、それを見せびらかせた以上、僕たちにもなんらかの影響があって然るべきだった。ミヤコ自身は「どっちにしたってあたし魔法使ってたし、純のせいじゃないよ」と僕を慰めたが、今の問題は「誰が悪いか」ではない。一郎老人と花子夫人がこの場にいなければ僕たちは乗客たちを、自分の身すら守れない、ということだった。


「一郎さん、花子さん。どうせ僕たちは旅ガラスです。追われたところで損はありません」

「むしろ刺激的な日常になるかもね」

 僕は微笑み、同意を示す。「でも、今ここで捕まったらアウトです。実験とか研究とか、ミヤコがそういうのを強制されるのは勘弁なんですよ。こっちも協力しますから僕たちのことを守ってくれませんか?」


 僕の自分勝手な提案に超人の老夫婦は顔を見合わせる。決断までの猶予はなかったが、待つ必要もなかったようだ。彼らは僕の瞳をじっと見て、諦めたかのように微笑んだ。


「仕方がない、な。……何の因果か、一緒にバスジャックしてるくらいだ。協力しようじゃないか」

「ああ、よかったです。これから太郎くんと三人で行動するのはいやだったんですよ」

「え、なんで? 太郎くん、いい子じゃん」

 ミヤコの疑問に、僕は肩を竦める。

「だって、思春期の男の子だよ? ミヤコが襲われたらどうするの」


 一瞬の空白が生まれ、ミヤコと老夫婦は同時に噴き出した。「それもそうですね」と花子夫人は目元を拭い、一郎老人は大きく頷く。ミヤコは「もう純ったらあ」と語尾を伸ばし、腰をくねらせた。

 しかしバスジャックなどするものではないな、と思う。太郎少年は超人機関は警察の手伝いをすると言っていた。やはり悪事をおこなうとそれを捕まえるために人が来るものなのだ。バスジャックが犯罪である以上、文句をつけるのはお門違いではあるのだろう。

 でも、と僕は前を見据える。

 でも、捕まるつもりは毛頭ない。

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