運転免許があって困るケースは少ない ③
ミヤコに殴られたのはいつ以来だろうか。
僕の身体は丸められた紙くずのように弾き飛ばされる。混乱した思考では体勢を整えることもまともにできず、勢いそのままフロントガラスに激突した。ミヤコの身体を操る広岡が叫び、その拍子に車体が大きく揺れた。乗客たちのほとんどは既に声を失っており、聞こえてきたのはいびつに乱れたタイヤの音だけだった。
「すげえな、力が溢れてくるぞ」
「……広岡くん、ミヤコから離れるんだ。まだきみは幽霊であることに慣れていないだろ。幽霊がもし人を死なせたら怨霊になっちゃうんだ」
怨霊となれば自我が薄れ、害意だけが残されてしまう。そうなった幽霊は不幸を振りまくだけの化け物になり、まともに成仏することすら叶わなくなるのだ。僕は今まで生への妬みに取り憑かれた哀れな幽霊を何体も目の当たりにしてきた。だから、挑発ではなく、心から彼の身を案じて制止する。
だが、僕の真剣な忠告は広岡の耳には届いていないようだった。溢れる生気に酔った彼は自分の、ミヤコの拳を見てにやついている。それもそのはずだ、意識のはっきりとした霊体が人間に乗り移るとその分だけ力が増す。今やホラー映画などで広まっているとおり、それは長く幽霊をやっている者にとっては常識と言っても過言ではない。
危機感が膨れあがる。こうなれば僕も誰かに乗り移るしかない。いくら霊体の扱いに長けているとはいえ、このままでは勝てる見込みなどないに等しい。
始めに考えたのは下山だった。だが、彼には運転を続けてもらわなければならない。ちょうど高速道路の出口へと向かっているところで車体に遠心力が加わっていたため声をかけるわけにもいかず、僕は周囲に視線をさまよわせた。次に視界に入ったのはトシコと抱き合っているヒロトだ。しかし、彼の力ではミヤコには敵わないのは明らかで、また、子どもの身体を使うのも憚られる。かといってあの超人の老夫婦には乗り移るだけの霊的素質はない。
焦りが徐々に僕を覆っていく。すると視線の先、花子夫人が立ち上がり、心配そうに顔を歪めて言った。
「どうしたの、ミヤコちゃん、落ち着いて」
「うるせえぞ、ババア。お前から殺してやろうか」
「……ミヤコちゃん?」
そこで彼女も異変に気がついたようだ。明らかにミヤコのものと違う声色に顔を強張らせ、一郎老人へと目配せをした。彼は唸り、次の行動を悩んでいる。
「なにかおかしいな……もしかして」
「ええ。太郎を呼んでみますか?」
「しかしだな……」
一郎老人は躊躇する。だが、彼らの決断を待つ余裕など僕にはなかった。
「太郎くん、ちょっと来てくれ!」
「はーい」
のんびりとした返事が足下から響く。次の瞬間、通路の中央がひしゃげ、破裂音が轟いた。トランクルームから床を破って跳び上がってきた太郎少年は一度天井に着地した後、宙でくるりと反転し、僕の前に降り立った。
「純くん、呼んだ?」
「説明は後でするから、身体を貸してほしいんだ!」
「……ちょっと純くん、覚えてないの? この世でいちばん重要なのは順番なんだってば。生まれた順番は次にしてくれる?」
喚きたくなる衝動を必死に抑える。広岡は突然の事態に呆然としている。泰然自若と構えている太郎少年はじっと、試すように僕を見つめていた。
「……恋人の身体が乗っ取られたんだ」
「え、マジ? 先にそれ言ってよ、そっちの順番のほうが大事じゃん」
彼は「ユユシキ事態」と辿々しく言って胸を叩いた。一郎老人の叱責が飛んでいるが、今は気をとられている場合ではない。僕は太郎少年の無防備の肉体へと勢いよく飛び込んだ。
脳が揺れる。
久々に手に入れた肉体の性能は尋常なものではなく、酩酊にも似た感覚が頭蓋の内側でぐるぐると渦巻いた。超人の身体感覚に精神が足がふらつく。喉元までせり上がってきた嘔吐感を、口を結んで堪える。何とかやり過ごすと次第に世界が明瞭になっていき、その鮮明さに感嘆しそうになった。
視覚も聴覚も嗅覚も、なにもかもが違う。肌を擦る空気の粒子さえ知覚できるようにも思えた。首の右側に違和感があり、手で押さえるとその触覚すらざわざわとしていて落ち着かなかった。
――これからどうするの?
内側から聞こえた太郎少年の問いに答える。
落とすんだ。肉体が気を失えば霊体がその衝撃に引き摺られて一瞬だけ剥離する。その瞬間を狙って広岡を引きずり出せばそれで終わるから。
――なるほど、よく分からないけど身体の機能を止めればいいんだね。じゃあ操縦は任せてよ。
言うが早いか、肉体が動いた。その俊敏さに僕は泡を食う。悪意を持って支配していないため、太郎少年の意志が身体と同調しているのだ。考える時間などほとんど存在せず、抗議すらままならない。だが、僕はすぐに身を任せる決断をした。付け焼き刃で超人の身体を操るよりは彼に任せた方がずっと合理的なはずだ。
太郎少年の肉体は一度跳び上がり、ヘッドレストを足場に右前方へと宙を滑った。一瞬遅れて広岡の目線が追従してくる。それが定まりかけた瞬間、太郎少年は窓枠を蹴って左側面へと移動した。踏み切りと着地にほぼ時間差がなく、そのため衝撃が釣り合ってバスが揺れ動くことはなかった。
僕の意識はただただ翻弄されている。
太郎少年の肉体は止まらない。そのまま壁を蹴って大きく一歩、最後尾に座っている老人たちへと突進した。危ない、と言う前に前進が止まる。気付いたときには背もたれを足場にしてミヤコの背中を睨み据えていた。太腿の筋肉が隆起しているのを感じる。猛烈な滑空、彼が生み出した速度は超人たる身体の筋肉により吸収されており、破壊も、足音の一つさえ生じていなかった。
彼はそのままミヤコの背中に飛びつく。腕を首へと絡める。背後をとられた広岡の反応は遅れている。ようやく動いたときには既に勝負は決していた。
太郎少年の腕は完全にミヤコの首を極めていた。外部から血管が圧迫され、血流が滞る。その苦しみに広岡はもがいていたが、超人の腕力に敵うはずもなかった。苦悶の声すら堰き止められたまま、ミヤコの身体がぐらりと揺れた。
――落ちたよ!
太郎少年の合図に、僕は憑依を打ち切った。肉体の乱調により広岡の霊体がミヤコから遊離しかけている。素早く手を伸ばし、両手で彼の頭部を鷲づかみにした。
「てめえ――」
「――ごめん、また頭掴んじゃった」
心にもない謝罪だ。僕は広岡の後頭部を睥睨し、頭頂の部分に歯を立てた。唇に髪の刺さる不快な感触が広がる。整髪剤の香料と体臭が混じり合った臭いが鼻孔へと入り込んでくる。皮膚とその下にあるわずかな肉の柔らかさ。頭蓋骨が歯が食い込むのを防ぐ。どれもこれもが僕と彼の記憶が混ざり合い、呼び起こされた幻覚だ。だが、確かにあらゆる感覚が流れ込んできた。
痛え、と広岡が身を捩る。
激憤の中に恐怖が混じっているような声色だった。
しかし、許すはずがない。ミヤコの身体を乗っ取った代償としては安すぎる。
僕は頭蓋骨を噛み砕くほどに顎に力を込め、そして、広岡の力を思い切り吸い込んだ。霊体が喉を通り、食道の中を暴れながら胃に落ちていく。次の瞬間、彼の存在は僕の内側に収まった。度の強いアルコールを煽ったみたいに喉が焼ける。口の中にはぶよぶよの虫を噛んだかのような不快さの塊が充満していて思わず吐き出しそうになってしまった。
繰り返し襲ってくる嘔吐感をそのたびに飲み込む。腹の奥で暴れる感触は次第に消えていき、最後にいっとう強い爆発が内側で起こった。手で口を押さえ、奥歯を噛みしめる。すると嘔吐感は熱へと変わった。
安心し、何度か咳き込んでいると太郎少年が近づいてくる。
「すごい身体軽くて驚いたけど……それよりも、純くん、今、何したの? 大丈夫?」
顔を引き攣らせる太郎少年になんとか微笑みかける。
「大丈夫だよ、問題ない。食べただけだから」
「……食べた?」
「取り込んだ、って言う方が正しいかな。消化まで一時間くらいかかるけど、まあ、珍しいことじゃないよ」
今までの騒ぎが嘘のように、車内は静寂に包まれている。バスはインターチェンジにさしかかっており、ETCレーンを通り抜けて一般道へと出た。緩やかな速度で西へとハンドルを切った下山が震えながらアナウンスする。
「えー……皆様、ただ今、当バスは東北自動車道を降りました。途中、その、車内でバスジャックがいくつか……幽霊同士の戦いが一件起きましたが、予定通りこれより一般道、国道四十六号線で秋田駅へと進行いたします」
幽霊? と乗客たちは首を傾げる。ただ、その中で一人だけヒロトが手を叩き始めた。ぱち、ぱち、とゆっくりしたリズムが急かされたように速くなるとすべての人がぽかんと口を開けたまま、おもむろに彼に倣い、拍手を始めた。彼らには見えていなかったとはいえ、僕に向けられたものには違いなく、気分は悪くなかった。
「あっ」
突然の賞賛に頭を掻いたところでミヤコのことを思い出す。通路で仰向けに倒れたままの彼女へと駆け寄って頬を叩いた。
「ミヤコ、大丈夫?」
声をかけると間もなく、ミヤコは呻き声とともに目を開いた。彼女は焦点の合わない瞳で辺りを見回し、それから、何一つ不平や不満を口にせずに、小さく訊ねてきた。
「純、どうなった……?」
「勝ったよ、ほとんど太郎くんの力だけど」
「純くん、謙遜しなくてもいいって」
「そっか……やったじゃん」
ミヤコは薄く微笑み、深く息を吸い込む。
バスが大きくふらついたのはそのときだ。状況把握に手間取っていた乗客たちはいっせいにくぐもった悲鳴を上げた。咄嗟に車両の前方へと目をやるとすぐに異変の正体が判明した。
運転手の下山が意識を失っているのだ。
「ちょっ、ちょっと下山さん! 危ないから起きてよ!」
急いで近づき、ミヤコのときよりいささか乱暴に頬を叩いたが、反応がない。広岡が悪意を発しながら長い間取り憑いていたせいだろう、気が緩んだ今、霊障により精神が途切れてしまったのだ。何度呼びかけても目を覚ます気配は感じられなかった。
「ミヤコ、どうしよう、下山さん、気を失ってるんだけど!」
「はあ? え、嘘?」
「嘘なんて言わないよ!」
「あー、もう!」ミヤコはがしがしと頭を掻き、通路に座り込んだまま指をぴんと伸ばした。その照準は明らかに僕へと定められている。「純、あんたが運転して! 大型免許持ってたでしょ!」
「免許は持ってないよ! 自動車学校で乗り移って勉強はしたけどさ!」
反論はしたものの時間的猶予は残されていない。バスの軌道は少しずつ逸れ始めている。放っておくとすぐにでも歩道に乗り上げてしまう状態に陥っていた。
手をこまねいている暇もなく、僕は躊躇を投げ捨て、南無三、と下山の身体に入り込んだ。すんでの所でハンドルを切り、進路を元に戻す。よほど運転に慣れ親しんでいるのだろう、下山の身体はとても操縦がしやすく、大きな嘆息が漏れた。だが、道順は頭の中にない。僕は看板を探し、秋田へと繋がりそうな道を選んだ。
後ろで大きな溜息が聞こえる。短い時間の憑依だったとは言え霊障があるのだろう、だるそうに仰向けになったミヤコがおざなりに手を振っていた。
「じゃあ、純、しばらく頑張ってねー」
「しばらくって……」
僕は絶句し、ルームミラーを覗き込む。誰か運転を代わってはくれないものか、と期待したが、そんな奇特な人などいないことくらい理解している。となれば、道を指示してくれる人を探すしかない。ヤシマユミを呼び寄せたかったが、この場合、彼女に頼るのはまずい気がした。愛する人の身体が幽霊に乗っ取られていると知った彼女がどういう行動に出るか、予測すらできなかった。
ああ、もうやけだ。
すべてに観念し、僕は備え付けのマイクを握る。それからスイッチをオンにして口元に近づけた。
「えー、どうやら運転手の下山さんが体調不良みたいなのでしばらく僕が運転を代わります。唐沢純と言います。さっき紹介された幽霊の一人です。あんまり大型は運転したことないので快適な旅にはならないと思いますが……ああ、もう、苦情とかは受け付けません! それと! 誰か! 道案内お願いします!」
ああ、これもバスジャックになるのだろうか。
とうとう僕も仲間になってしまった。質の悪い流行病ではあるまいし、どうしてこうもバスジャック犯がどんどん増えていくのだ? 熟考するのも煩わしく、ハンドルを強く握りしめる。
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