運転免許があって困るケースは少ない ②

 真っ直ぐに飛びかかってきた広岡をなんとか躱した。振りかぶった拳が空を切り、彼はその反動でたたらを踏んでいる。好機ではあったが、蹴りを入れられるほどの隙はない。ひとまず距離を取り、様子を窺う。その躊躇を余裕の現れと捉えたのか、彼は盛大な舌打ちをして「逃げてんじゃねえよ!」とドスの利いた声を出した。


「待ってってば! いろいろ整理しよう、物事には順番があるじゃないか」


 覚えたばかりの太郎少年理論を駆使しようと試みる。だが、広岡にとっては小賢しいさえずりだったに違いない。返ってきたのは「順番もクソもあるか」というとりつく島もない拒絶だけだった。

 人一人分の幅しかないバスの細い通路、彼は大股で僕へと突き進んでくる。位置関係は逆転していて、後ろへと向かってくる形だ。下山に再び取り憑こうとしなかったのは幸運ではあるが、しかし、危機には変わりがない。僕は再び制止を試みて、両手を突き出す。だが、広岡はそんな小さな動作ですらファイティングポーズと看做し、満面朱を注いだ。


「おお、いい度胸してるじゃねえか」

 泣きそうになりながら反論する。「逃げるなっていったのはきみじゃないか!」

「口答えするんじゃねえよ!」


 広岡は弓を引くように、握り拳を後ろへと引き、突き出してくる。フックともストレートともつかない力任せのパンチだった。身体を床へと沈み込ませ、すんでの所で避ける。すると間髪入れず左手が飛んできた。掴まれたらまずい、そう考えた僕は身体を沈み込ませ、そのままトランクルームへと避難した。


「お、純くん」暗闇の中で太郎少年に迎えられる。「ちょっと聞いてよ、ヤシマユミさ、全然反応してくれないんだ」


 なんというのんびりとした悩みだろうか。それどころではなく、僕は声を上擦らせて必死に謝る。


「ごめん、太郎くん。ちょっと問題が起きてて、ゆっくりできそうにないんだ」

「なに、また、何かあったの?」


 呆れたのか、また、に力がこもっている。僕は心の中で同意しながらなおざりに返した。


「今、悪霊と喧嘩してるんだよ。すっごい怒っててさ」

「え、幽霊って喧嘩するの?」太郎少年の目は爛々と輝いている。「見に行ってもいい? このくらいの床なら簡単にぶち開けられるからさ」

「いやあ、これ以上ややこしくなるのはちょっと勘弁してほしいかな」

「そっか、つまんないなあ。で、勝てそうなの?」


 勝てる、だろうか。僕は判断に困窮する。

 単純な霊力だけで比べればゴースト・ハイでブーストされている彼のほうが有利だろう。だが、やはり新米の幽霊だ。霊体の使い方は僕に分があった。まだ彼は生きているつもりで霊体を動かしている。隙さえあればこのバスから放り出したり、あるいは吸収したり、難を逃れる術はあるように思えた。

 が、そのどちらも気が進まない。バスから追い出したとしても下山の霊的磁場がある以上彼はすぐに戻ってくるだろうし、最悪の場合、他の自動車に乗り込んで多くの人を道連れにする可能性もあるのだ。となれば後者しかないが、他の悪霊を吸収するとひどい胸焼けに襲われるため極力やりたくはなかった。


 僕の沈黙に太郎少年は旗色の悪さを察したようだ。「まあ、何かあったら手伝うよ」と肩を竦めた。「その場合、天井……っていうか床をぶち抜くことになるけど」

「そうならないよう努力する」


 怒号が響いたのは次の瞬間だ。「おい、どこ行った、クソボケ! 逃げるなっつっただろうが!」と広岡は地団駄を踏んでいる。怒髪天を衝く、という表現がしっくりと来ることこの上ない。姿を隠している間に下山の身体を乗っ取られては堪らず、僕は慎重に上へと戻ろうと決めた。


 床から顔だけを出し、広岡の位置を確認する。ちょうど背後へと回る形となっていて、しめた、と急浮上する。そのまま彼の背中へと取り付き、意を決した。

 他の霊を吸収する方法はいくつかある。その中でももっともポピュラーなのが口から取り込む形式だ。相手の一部に口をつけ、囓るなり吸い込むなり、思い思いの方法で霊力もろとも霊体を飲み込めばいい。

 だが、その動作よりも彼の反応のほうが素早かった。気付けば頭部に圧力が加えられている。彼は背中越しに僕の頭を鷲づかみ、思い切り腕を振った。


 視界がずれ、高速で視界が引き伸ばされる。

 投げられた、と気付いたときにはもう僕の身体は左側面の窓ガラスに叩きつけられていた。相乗効果で高まった霊力は衝撃へと変わり、車体を強く揺らした。ちょうどその席にいた若い恋人が身体を竦ませ、悲鳴を上げながら互いの身体に腕を回した。衝突の認識は痛みへと変換され、僕は呻き声を漏らすことすらできない。

 助かったのは広岡に慢心があったことだ。彼はいたぶるような笑顔を浮かべるだけで追撃しては来なかった。足を踏み鳴らし、顎をしゃくり上げている。


「おい、立てよ、クソ野郎。ボコしてやる」


 ボコす、という動詞は意味のわりに発音がかわいいな、とも思う。たったそれだけのことで少し救われたような気分になった。もし彼が「顔面をぐちゃぐちゃにしてやる」だとか「二度と起き上がれないようにぶちのめしてやる」だとか、そういった具体的で不穏な言葉を吐いていたら暗澹たる気持ちになっていただろう。

 わずかに芽生えた冷静さに縋り付き、僕はその場から浮遊し、体勢を整えた。まだ広岡は浮遊する術を身につけていないようだ。額に青筋を立てて睨みつけてきていた。


「てめえ、なに見下ろしてんだよ」

「いや、浮き足立っちゃってて」


 僕の軽口に、怒りか、広岡の眉がぴくりと震える。口がかすかに開く。息を吸う動作だ。その動作は肉体のない幽霊にとって隙を生むだけのものでしかない。僕はその一瞬の好機を見逃さず、宙を蹴った。同時に身体を丸め、思い切り脚を伸ばす。不格好なドロップキックは頬に直撃し、広岡の身体が宙を舞った。

 僕が叩きつけられた側とは反対の窓ガラスに広岡の身体が激突する。乗客はいない。それでも鈍い音が轟いたせいで後部座席から生まれた「ひっ」という短い悲鳴が床を滑った。


「どうだ!」


 僕は拳を握りしめ、座席と座席の間に腰を落とした広岡を睨み据える。今、僕に可能な最高の一撃のつもりだった。

 幽霊は気を失わない。だが、意気消沈すれば全身の感覚が鈍くなり、まともに動けなくなる。そうなってくれれば吸収のチャンスだ。僕は彼の目の光を確認すべく、慎重に歩み寄る。

 それが甘い対応であると気付いたのは間もなくのことだった。

 広岡が勢いよく跳ね起きる。けたたましい雄叫びが耳をつんざく。獣のように飛びかかってきた彼をなんとか右へといなし、僕は左、バスの前方へと飛び退いた。


「てめえ、ぶっ殺してやる!」


 どん、どん、と彼は苛立たしげに床を踏みつけた。そのたびにバスが揺れ、運転手の下山が情けない声を上げた。そして、その不安は極めて明瞭なものとして乗客へと伝播していく。誰もが身を縮め、災いが降りかからないよう頭を抱えた。超人である一郎花子夫妻でさえ、しゃがみ込んでいる。


 ……たぶん、それは本能だった。

 気付けば僕は真っ直ぐ、広岡の方へと踏み出していた。


 肉体とは雑音の塊である。不随意筋である心臓が絶え間なく脈を打ち、鼓動に伴い血液が血管の内部を擦り、酸素を補給するために呼吸が起こる。肉体のあらゆる部分は意志を伴わずに動き続けている。

 だが、それら一切の生命活動は霊体にとって不必要なものだ。かすかに残った肉体の記憶により再現されているとしても意味はない。

 つまり、霊体にはエネルギーのロスがないのだ。生存に回されて消費するエネルギーがない。総量が少なかったとしても一点に集められたエネルギーは肌を突き刺すほどに鋭く尖る。それを皮膚感覚として感じたのだろう、広岡の激昂に晒されたすべての乗客は身を守る行動を取っていた。

 ――ミヤコを除いて。


「あれ、まだやってんの?」


 ぴんと張り詰めていた空気が弛緩し、広岡ですら彼女に目を向けていた。備え付けのトイレから出てきた彼女は折り戸のところで呆然と立ち尽くしている。

 普段から僕と行動をともにしている彼女は霊に対する警戒心が弱い。しかも生理的行動の直後だ。霊に取り憑かれる隙が大きくなっていた。

 そして、幽霊は取り憑きやすい人間とそうでない人間を本能的に見分けることができる。

 広岡が次にする行動は明白だった。


「ミヤコ、逃げろ!」


 どこに?

 僕の自問自答が終わるより早く、広岡がミヤコへと手を伸ばしていた。彼女が憑依されるまでまばたきほどの時間すらかからなかった。

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