第3章 『バスジャックをしているときは運転を任せるとよい』
運転免許があって困るケースは少ない ①
叫び声がゴムボールだとしたら車内を縦横無尽に跳ね回っているに違いない。
はじめは「やめてくれ」「落ち着いてくれ」という意味を含んでいた言葉ももはや単なる叫喚にすり替わっていた。バスの速度は時速百二十キロメートルを越え、蛇行を繰り返している。右に左に揺れるたびにいくつもの悲鳴が飛んだ。
「おい、下山くん!」一郎老人は両足だけでバランスを保ちながら運転手の肩を掴んでいる。「無謀な運転はやめなさい!」
しかし、下山が頷くことはなかった。それどころか反抗的な目つきで笑い、舌を大きく出して挑発している。
「うるせえな、ジジイ! 偉そうに指図してんじゃねえよ!」
まさに豹変と呼ぶに相応しい態度だった。三十代の妻子ある男性らしくない言葉を放った彼は再び、アクセルを踏み込む。加速し、前方の乗用車が迫る。それを素早いハンドルさばきで躱すと、彼は自讃するように満足げな口笛を吹いた。
暴走運転が始まったのは矢巾パーキングエリアを出発する、まさにそのときのことだった。彼はアクセルを吹かして急発進すると乗客のことなどお構いなしに高速道路本線へと合流したのである。接触しかけた車からけたたましいクラクションが鳴り響き、それは今でも続いている。幸い、このバスでも後方でも事故は起こっていなかったが、いつほかの車と衝突してもおかしくはなかった。
隣にいるミヤコは座席のバーを握りしながら僕の名を呼んでいる。
「ねえ、純、あいつどうにかしてよ! 酔い止め飲んでないし、トイレ行き忘れたの!」
「わかってるよ! 今やるから集中させてくれ!」
「できるだけ早くして! 膀胱が弾け飛びそう!」
どうして気付かなかったのだ、と僕は集中を高めながら唇を噛む。
盛岡インターチェンジは矢巾パーキングエリアの目と鼻の先だ。通り過ぎるならまだいいが、この速度で一般道へと向かわれたらカーブの途中で横転するのは確実である。
その前に――あの運転手を救わなければならない。
いったい、いつ、彼は悪霊に取り憑かれたのだ?
〇
下山が霊媒体質を持っていることは一目見たときからわかっていた。なにせ僕も幽霊をやって長いのだ。そもそも手続きの時から彼は僕に対して会釈までしてきており、それで気付かない方がどうかしているとも言えた。
彼の霊媒体質は驚くほど強力だ。他人に影響を及ぼすほどの「磁場」を発する人間など僕も数えるほどしか出会った経験はなかった。
心霊スポットに足を踏み入れたとき、多くの人が不穏さを感じる。産毛を擦られるような感覚を覚える人もいるかもしれない。それが霊的な「磁場」の特徴であるのだが、下山の周囲、つまり、このバスにはその原因である、いわゆる霊質が充満していた。いわば高速で移動する心霊スポットだ。太郎少年が「調子がいい」と言っていたことを思い出す。あるいはヒロトも僕とのコミュニケーションを図っていた。概ね大人よりも子どものほうが鋭敏な感覚を持っており、霊質の影響を受けやすいため、下山が発する磁場が彼らの繊細な感受性を高めていたのだろう。
しかし、不幸中の幸いがたった一つだけある。それは彼に憑依した霊が卓越した運転技術を持っていたことだった。そうでなければ今、僕が集中力を高めている間にも事故が発生していたはずだ。
「純、早く!」
ほとんど泣き叫ぶようにして、ミヤコが催促してくる。膀胱の心配なのか事故への恐怖心なのか判然としなかったが、僕も黙ってはいられない。「分かってるって!」と乱暴に返し、強く念じた。
焦れったくなるほどの時間をかけて、僕の身体が浮遊霊から悪霊へと変質していく。浮遊霊のままでも人に取り憑くことはできるが、身体の支配権を奪うためには悪霊へと変わらなければならないのだ。そして、境目を越えたらあとは下り坂である。毛細管現象のように悪霊たる部分が浮遊霊の部分を勝手に侵蝕していく。
その状態になると下山に取り憑いた霊の正体が明瞭なものに変わった。黒革のライダースジャケットに身を包んだ若い男だ。金色の髪を逆立てている。横顔から垣間見える眉は丁寧に剃られていて、目を凝らさなければ見えないほど薄かった。
「……なるほど」
完全に悪霊へと変わると同時に僕は座席の上を一足飛びに進んだ。質量のない霊体はその気になればバスより速く移動することができる。運転席の後ろで停止し、霊の頭を掴んだ。なかなかに定着が強いが、幽霊としての年季は僕の方が長い。一気に引き剥がして後ろへと放り投げた。
一瞬の空白、そののちに下山が自我を取り戻す。彼は乗用車を幅寄せしていることに気がつき、慌ててハンドルを戻した。車体が右に揺れ、乗客たちがくぐもった悲鳴を漏らす。尿意を堪えるミヤコは素っ頓狂な声を上げて僕を睨んだ。
「純、終わり? もうトイレ行っていい?」
「――いや、ごめん」
僕は舌打ちをする。車体から置き去りになるように投げたつもりだったが、霊は最後尾辺りで留まっている。よほど腹に据えかねたのだろう、彼は勢いよく立ち上がって威嚇を始めた。
「なんだ、てめえ……俺を誰だか分かった上で頭掴んだんだろうな?」
「ごめん、ミヤコ。もうちょっと待って」
「はあ? あ、っていうか、あたし幽霊に乗っ取られるほどやわじゃないし、もう行く! ごめん!」
言うが早いか、ミヤコは通路へと飛び出した。制止する暇もない。彼女はひらりと霊を避けて、突進するようにトイレへと駆け込んでいった。その行動が何よりの挑発になるのではないか、と不安になったが、幸いなことに霊は彼女に対して一切の干渉も行わなかった。どうやらまだ悪霊になりたてのようだ。視野が狭いのはその証左であり、彼は僕だけを強く睥睨していた。
だが、僕はいささかの恐怖も抱いていない。銃や爆弾と違い、相手はただの悪霊だ。まだ幽霊として完成していない以上、負ける道理はないに等しい。そして、これは本当に幸運な偶然ではあるのだが、僕には彼を一瞬で成仏させる秘策があった。ミヤコに感謝しつつ、僕は背後の下山を肩越しに見やった。
「……下山さん、安全運転でお願いします」
「はっ、はい!」
「すぐ終わりますから」
乗客たちはぽかんと周囲を見回している。彼らにとってはミヤコや下山は一人で会話をしているようにしか感じられないはずだ。余裕のせいか、何だか気恥ずかしさを感じ、僕は口元が緩まないよう注意した。
通路上で相対している悪霊はその場に留まったまま、ポケットに手を突っ込んでいる。
「おう、てめえ、無視か? いい度胸してるじゃねえか」
「無視してるわけじゃないよ。あと、さっきの質問だけど、きみが誰かは知ってる」
「ああ? 生意気だな、ぶっとばすぞ」
悪霊の恫喝を無視し、僕は続けた。
「きみは
「……なんだあ、てめえ。どこのモンだ?」
「新聞に書いてたよ、ほら」
相当得意げな顔をしているだろうな、と思いながら、僕は座席の網ポケットに挟んであった新聞紙を引き抜いた。周囲にはひとりでに浮き上がったように見えるに違いない、一郎老人と花子夫人が素っ頓狂なわめき声を上げた。とはいえただのポルターガイストである。目を瞑ってもらうことにして、僕は悪霊に対して一面記事を掲げた。
「んだよ、何が書いてあるってんだ!」
「『東北自動車道で車が暴走、男性一名死亡』――」
「……あ?」
「その男性ってのがきみだ。死んだことには気がついているかな?」
悪霊の態度から勢いが消える。彼はふらふらと危うげに歩み寄ってきて新聞記事を凝視した。眼球がぎょろぎょろと動く。どうやら僕の推測は正しかったらしい。目の前の男は自分が暴走行為により命を落とした張本人であると知ると、わなわなと唇を震わせた。
「俺が……死んだ?」
「ああ、広岡くん、残念ながらきみは死んだんだ」
言葉は認識を深める。内と外の両面から自分の死を突きつけられた広岡は床に力なく膝を突いた。瞳が淀み、皮膚からどろりと粘性の強い液体が滴る。
幽霊を成仏させる初歩的な方法は死を認識させることだ。それは早ければ早いほど、唐突であれば唐突であるほど、効果が高い。昨日、幽霊になったばかりの広岡にとって僕が叩きつけた事実は自我を崩壊させるのに十分な威力を持っていた。
僕たち幽霊には肉体がない。つまり、魂の霧散を防ぐ囲いがない。それでもなお生前の姿と記憶を保有するには多くの場合、二つの条件が必要となる。
強烈な自我と死の不存在だ。
魂は未練や執着、何らかの心残りにより繋ぎ止められ、己の死を知らないことにより固定される。そして大概の幽霊は事故現場や空っぽのベッド、葬式、遺影、家族の涙などから徐々に己の死を認識し、逝くべき場所へと旅立つことになる。もちろん僕のような例外もいるが、それが一般的な成仏の方法だ。
だが、死を叩きつけられた場合、その限りではない。
僕は新聞の文面を読み上げて追撃する。詳細な情報が発せられるごとに広岡は目を見開き、苦悶の表情を色濃くしていった。関節がひしゃげ、本来曲がらない方向へと腕が曲がる。膝が融解し、眼球がせり出し、口が裂ける。僕の胸が罪悪感でちりちりと焦げる。だが、幽霊などこの世界に留まっているべきではないのだ。あと一歩で成仏できるからどうか我慢してくれ。僕は力を込め、叫ぶようにして、記事を読んだ。
「岩手県で! 活動している!」
「やめろ、やめろっつってんだろ!」
「暴走族に! 所属していたとみられ! 警察は――」
「……暴走族?」
「え?」
その瞬間、広岡の崩壊が止まり、滴っていた液体が凝固を開始した。え、え、と僕が狼狽する中、あらぬ方向へと曲がっていた腕の角度が戻る、裂けた口が癒えていく、眼球が眼窩へと入り込む。逡巡したわずかな時間のうちに彼の身体は人間らしい形を取り戻しており、死んでいるというのにおかしな表現ではあるが、全身に生気が漲っていた。
「あれ、ん? おかしいな、ちょっと広岡くん、どうしたの?」
割れんばかりの哄笑を発した広岡はゆっくりと立ち上がる。「そうだ、俺は……」僕よりも僕よりもずっと身長が高く、必然的に見下ろされる形になった。
「あの、広岡くん」
「どうしたもこうしたもねえよ」広岡は悪霊然とした野蛮な笑顔を浮かべている。「全部思い出したんだよ。そうだ、俺は昨日、死んだんだ」
あ、やばい。やらかした。
全身に焦燥が充満し、弾ける。常識通りの対応をするべきではなかったと悟る。彼は暴走族だ。つまり社会のアウトロー、ルールとか常識とか、そういったものに唾を吐いてきた人間なのだ。前例に則った、十把一絡げの成仏方法には反発して当然に違いなかった。彼は顔面を右手で押さえ、深く呼吸したのち、愉悦を滲ませて吼えた。霊感のあるものにしか聞こえないはずの声は確かな振動をもたらし、窓ガラスをびりびりと振るわせた。
ゴースト・ハイという現象がある。
人格を取り戻して幽霊として完成した直後、一時的に霊力が増加する現象だ。僕も霊の中では強い部類に入るが、それでもゴースト・ハイ状態の新米と人を殺した経験のある怨霊に近づこうとは思わない。だが、広岡は僕に狙いを定めている。ましてや彼は暴走族なのだ。喧嘩に明け暮れる日々を送っていたはずで、そういった野蛮な行動とは無縁な僕が彼に太刀打ちできるか、まったくといっていいほど自信はなかった。
「よーし、広岡くん、一旦落ち着こう。ね? 争いはよくないよ」
「うっせえなあ、黙れよ」
「はい」
「俺の座右の銘な、知ってっか? 『死してなお爆走』っつうんだよ。てめえをぶっ殺してもっかいあのオヤジの身体を乗っ取ってやる」
ちょっと待ってよ、僕は死んでるから殺せないよ。
そんな軽口を叩けるわけがない。
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