休憩

『矢巾パーキングエリア』


「俺たちはちゃんと現世で幸せになろうな」

「もう幸せだから大丈夫よ」


 慣れ、というものは恐ろしい。乗客である二十代前半の若い恋人たちはまるで映画鑑賞をしていたかのような面持ちで愛の言葉を述べ合っていた。特別図太いのか、相次ぐ異常事態に精神が麻痺してしまったのか、その二人は笑顔を浮かべて腕を組み、バスを降りていった。


 バスは盛岡の南、矢巾パーキングエリアへと到着している。売店に併設されたレストランとトイレだけのこぢんまりとした施設だ。そこで超人の老夫婦は爆弾魔であるヤシマユミをトランクルームへと詰め込んだ。拘束はしていない。改めて彼女が何かをする気配はどこにもなかった。

 喜んだのは太郎少年である。彼は同好の士との対面にはしゃぎ、それがあまりの興奮だったため一郎老人に叱られていた。とはいえ道中の話し相手がいるのは喜ばしいことなのだろう、口元が緩んでいるのが分かる。まともな受け答えは期待できないのではないかと疑ったが、水を差すのも悪いので口を噤んでおいた。


 一方で運転手である下山は沈んでいる。彼は心中が失敗して以来一言も発さず、黙々と運転を続けていた。苛立っているのか、時折、スピードを上げることはあったが異変はその程度だ。職務意識が高い、というよりは何かに没頭していなければ精神が崩れてしまいそうになっているのかもしれない。その姿は何かに取り憑かれたようでもあった。

 とにもかくにもようやく訪れた平穏だ。僕とミヤコはバスから降りると深呼吸とともに大きく伸びをした。あれだけ動き回っていたというのに、ミヤコのほうから背骨が鳴る音が聞こえ、苦笑する。見咎められてはいなかったようで、僕はそのまま清新な空気に身を浸した。


「いやあ、なかなかエキサイティングな経験だった」

 この状況を揶揄したつもりだったけれど、残念なことにミヤコは動じてくれない。「そうだねえ」と返し、悪戯っぽく続けた。

「どうする? まだバスジャックを目論んでいる人が中にいたら」

「だとしたら僕はもう降りるよ。っていうか、もうやりそうな人なんて見当たらない」


 バスの乗客は僕たちのほか、一郎花子夫妻、太郎少年、ヒロトとトシコ、あとは先ほどのカップルと老人四人組だ。銀行強盗の益子と石郷岡はもういないし、爆弾魔ヤシマユミは監禁してある。可能性があるとしたら運転手の下山だったが、彼はどちらかといえば小心者に属する人間で、一人で何か行動を起こす大胆さは持ち合わせていないように見えた。

 しかし、ミヤコは思わせぶりに指を振る。ちっちっちっ、とわざわざ声に出して擦り寄ってきた。


「目に見えるものだけが真実とは限らないのだよ。もしかしたらあのおじいちゃんおばあちゃん四人組が一郎ちゃんたちの追っ手かもしれない」

「勘弁してよ。だいたい、それなら一郎さんたちが気付くんじゃない?」

「変装の達人かもしれないじゃない。銀行強盗とか爆弾魔とか超人とか乗ってるバスだよ? もう何があってもおかしくはないよね」

「頼むから不穏なことを言わないでくれ」


 僕の泣き言にミヤコは笑い声を上げる。それから自動販売機へと近づき、「何か飲む?」と訊ねてきた。答える前に缶コーヒーと元気が出そうな炭酸飲料を購入している。


「気持ちはありがたいけど飲めないよ。そもそもコーヒーも炭酸も嫌いだし。知ってるよね?」

「うん、知ってるよ。でも聞いた方がいいかなって」

「本当は?」

「どっちも飲みたかったけど、そう言ったら一つに選べって言われそうで」

「正直でいいね」


 尿意を催しても知らないよ、と苦言を呈そうとも思ったが、車内にはトイレが設けられている。ことさら強調すべきでもなく、僕は無駄遣いを窘めるだけで小言を終えた。もちろん聞き流されてはいる。そもそも金を稼いでいるのは主に彼女であるため、僕に金銭面の叱責をする権利があるかどうかは定かではなかった。

 それから僕たちは軽い体操をしたり、設置されている地図に温泉を発見して「ここで降ろしてくれないかな」などとおどけて休憩時間を過ごした。このあと、盛岡インターチェンジを出たら国道四十六号線で秋田市まで一直線だ。峠道があるから酔い止めを飲んでおいた方がいいかもしれないね、とアドバイスをしておいた。


 今なおバスの中に充満している違和感のことは口にしない。そういった違和感というものは得てして話題の上げた瞬間に現実感を伴って襲ってくると知っているからだ。

 忘れてはならないこともあるけれど、忘れた方がいいことも世の中にはある。

 たとえばバスジャックをするような悪人が闊歩しており、その中に僕の恋人がいるということであるとか、だ。

 見て見ぬふりをしている以上、同罪だと後ろ指を指されても仕方がないかもしれないが、そのときはそのときとしよう。人の鞄を勝手に開けたり、漁ったり、僕も決してまともな人間ではない。

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