目的があったところで同意を得られない可能性もある ②


「はい、皆様、そのままでお聞きください」


 陶酔を一頻り味わったヤシマは咳払いをし、口元を引き締めた。再び瞳は濁り、そこに倒錯した性的興奮を窺わせる色は欠片も残されていなかった。


「当バスには私の手によって爆弾が仕掛けられております。起爆方法は遠隔操作のほか、時限式の機構を組み込んでおりますので、お客様、ならびに前バスジャックである皆様もお静かにお願いいたします。なお、運転手の下山と私は不倫関係にあり、既に協議済みのため、バスの停止や減速に関するご依頼は受けられかねますのでご了承ください」


 淀みのない説明に超人の老夫婦は浮かしかけた腰を下ろした。起爆スイッチを奪っても意味はないのだ、彼らの躊躇は当然とも言えた。

 僕は後ろを振り向き、乗客たちの顔色を確認する。この短い時間で三組目のバスジャックに遭遇した彼らはほとんど全員泣きそうな顔になっていた。爆発の瞬間を目の当たりにしたからか、爆弾という単語が現実的なものとしてのし掛かっているようでもある。しかも、今回は老夫婦とも、また、二人組の銀行強盗とも雰囲気が違うのだ。示唆された如実な計画性と明らかな生命の危機は彼らを怯えさせるには十分な威力を持っていた。


 ただ、左に座るミヤコには恐怖の色はなかった。いざとなればどうにでもなると考えているのかもしれないし、ただ単に怯え飽きただけの可能性もある。自身に落ち度がないということもあるのだろう。とにかく彼女はぴんとまっすぐに手を上げてヤシマユミを見つめた。


「質問、してもいいですか?」

「ミヤコ」

「はい、どうぞ」


 迂闊なことを言うな、と叱ろうとしていただけに気勢を削がれる。自信があるのか職務を遂行する精神が強いのか、ヤシマユミには乗客の行動を支配しようという腹づもりはないようだった。


「何の目的でバスジャックをしてるんですか? しかも、バスガイドさんと運転手さんが」

「心中です」


 え、と後部座席で声が浮く。「そんな身勝手な」という批難にも「ならどうしようもない」という諦念にも聞こえた。しかし、ヤシマユミはそういった感情には反応を示さず、マイクを握りしめる。


「私と運転手の下山は愛し合っています。ですが、現世では結ばれない運命でした。だから一度死んでやり直そうと思ったのです」


 それからヤシマユミは手垢のついた悲恋物語を滔々とうとうと語り始めた。彼らにまるで思い入れがない以上、感想は決まっている。なら勝手にやっていてくれよ、わざわざ僕たちを巻き込んで、しかも高速道路上でやる必要なんてないじゃないか。そう考えたのが伝わったのか、彼女は悲しそうな笑みを浮かべ、半身になった。視界を開けようとしたらしい。右手で前方を指し示している。


「正面をご覧ください。この先に私の故郷である盛岡があります。そして、出発地である仙台で下山が――」ヤシマユミはそこで恋人を下の名前で呼びなおした。「忠志ただしさんが生まれました。つまり、この東北自動車道が私たちを結ぶ赤い糸と言えるでしょう。また、私たちはどちらもバスに関する仕事に就いており、この仕事を愛しておりました。だから、こうして仕事中に生まれなおそうとしただけなんです。そのために土砂崩れを引き起こして秋田自動車道を止めたのですから、本気と考えていただけるとありがたいです」

「いやいや、ヤシマユミ」とミヤコが呆れる。「あたしたちが一緒に死ぬ必要ないでしょ。生まれ変わって結ばれるのは止めないけど、乗ってる人は堪らないんじゃないかな」

「しかし、結ばれるとなると祝福していただきたいのが花嫁というものでございます」

「だからさ、落ち着いて考えよう? 死ぬって言われたら祝福しづらいじゃん」

「どうしてですか?」

「え?」

「え、だって、爆死ですよ?」


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。ぞわっ、と総毛立ったような感触がある。ヤシマユミの瞳に滲んでいるのは冗談や悪ふざけとは対極にある、極めて人間らしい感情だった。真剣にミヤコの疑問が理解できず、困惑しているのだ。爆弾魔、という単語が脳裏を踊る。彼女にとって爆発は凶悪な破壊手段ではなく、美しい送別手法に違いない。

 力を使うべきだろうか。

 しかし、今の状況で僕の行動にどれだけの効果があるか、読めなかった。一人ずつにしか力が使えない以上、銀行強盗たちのときと状況は酷似している。ヤシマに対して力を使ったとしたら運転手が暴走する可能性があるし、起爆スイッチの複製を彼に預けていたらもっと簡単にすべてが終わってしまう。当然のことながら順番を逆にしても結果は同じだ。


 解決法を考えあぐねているとミヤコが前の席に座る老夫婦へと話しかけた。「ねえねえ」とその声はいくらか潜められていたが、ヤシマユミの視線はミヤコと老夫婦を貫いている。制止しないのは相談されたところで影響に及ぼさないと考えているからだろう。彼女の瞳は直接的な行動を起こした瞬間に起爆する、と物語っていた。


「さて、起爆予定は一時間ほど先のことになります。もちろん場合によっては早まる可能性もありますのでお気をつけください」


 抜け目なく釘を刺してくるヤシマユミの態度に現状が好転する図が思い浮かばない。いざとなれば強引に脱出することを考え、外を覗いた。時速九十キロメートルで進むバスの上からはあらゆるものが引き伸ばされているように見え、人間が降りたら無事では済まないことくらいは容易に想像ができた。


「ねえ、純」

 耳元で囁かれ、僕はミヤコへと視線を戻す。彼女はじっと僕を見つめて言った。

「じゃあ、任せてもいい?」

「え?」何を言っているのか、わからなかった。「じゃあ、って何? 僕があの人たちに力を使ってもたぶんうまくいかないよ」

「ちょっと、話聞いてなかったの?」ミヤコは頬を膨らませる。

「ごめん、考え事してたから」

「なら説明するね」


 ミヤコは顔を下に向け、決してヤシマユミには聞こえないよう、小さな声で作戦の概要を話し始める。

 それは作戦と呼ぶにはあまりにも荒唐無稽なものだった。

 はじめ、ミヤコも僕の力でどうにかできないか、と考えたらしい。だが、すぐにやめたそうだ。問題点は僕が思いついたものと概ね同じだ。当然、彼女の魔法も今の事態を解決するには向かない。そのため、彼女は前に座る超人二人にこう言った。


「先にバスジャックしたのはこっちなんだから、なんとかしない?」


 横柄な物言いでほぼ老夫婦任せの案ではあるが、一理ある。超人であるならば起爆の隙を与えずに運転手とバスガイドを制圧できるはずだ。起爆までの猶予があるならばバスに仕掛けてある爆弾を処理するなり、避難するなり、なんとでもなるのだ。

 しかし、ミヤコの依頼に二人は難色を示した。

 問題は簡単だ。

 老夫婦はこれまでずっと超人機関の施設で暮らしていた。閉じ込められていた、と言い換えてもいいかもしれない。


 つまり、彼らは自動車運転免許を保有していないのである。

 今、このバスは時速九十キロメートルを超えて走行している。後続車はそれ以上の速度だ。制圧の実行は同時に乗客の命を老夫婦に預けることを意味する。彼らを超人たらしめる超常的な力はこの場合追突事故を招く危険性があった。

 しかし、だ。それはあくまで懸念でしかない。超人は運動能力が常人よりも数倍高いのだ、すぐさまコツを掴み、安全な運転を可能にする繊細さがあって然るべきである。当然のことながら、ミヤコも反論した。「超人だから大丈夫だってば」と。その根拠の薄い言葉に一郎老人は首を振った。


「乗っているのが私たちだけならいいが、一般人も乗っていると気が進まない」

「でも黙ってたって埒があかないじゃん。他に方法なんてなくない?」

「いや、あるといえばあるんだ」


 そのとき、一郎老人が語った案が僕に託された作戦だった。


「いい?」とミヤコは下を指さす。「この下に荷物置いてるでしょ?」

「ああ、あるね。爆弾もあるかもしれない。それがどうしたの?」

「そこに一郎ちゃんたちの鞄があるの。出発するときに見たじゃん、青くてばかでかいキャリーケース。そこに爆弾を解除できるお荷物が入ってるんだって」

「は? 液体窒素とかそういうの?」

「鞄を開けたらわかるって。鍵はアメリカの空港とかで使われてるやつみたいだから、純、開けられるでしょ」

「ちょっと待って!」


 ミヤコの指示はすべて理解していた。確かに僕の力ならヤシマユミに気付かれず、トランクルームへと移動して鞄を開けることはできる。だが、問題はその後だ。


「それって僕が爆弾を処理するってこと? どこにあるかもわからないのに?」

「今、自分でトランクルームにあるかもって言ったじゃん」

「それは喩え、だ」

「まあ、とりあえず爆弾はあとで考えようよ。バスの下とか内部につけられてたら面倒だけど、もしかしたら本当にトランクの中にあるかもしれないしさ。ひとまず一郎ちゃんたちの鞄を開けてこよう」

「出たとこ勝負じゃないか」


 呆れながら、しかし、やって損のある行動ではないとは思った。その間に彼らが気を変えて制圧に踏み出すならそれはそれでいい。また、ヤシマユミの言動から爆発までの猶予はまだあるのは確かだ。


「……わかったよ、とりあえずやってみる」

「ありがとう、純、大好き」

「でも、これだけは言っておくよ。もし爆弾を見つけても一回帰ってくるからね」

「オッケーオッケー、待ってる」


 けっこうな難題を簡単に言ってくれる。何か重大な隠し事をされているような気がしてならなかったが、僕は目を瞑り、集中を始めた。壁抜け――今で言うなら床抜けはさほど力を使うことなくできる。五秒もしないうちに腹の内側で重みが生じ、身体がシートにずぶずぶと沈んだ。最後にミヤコとアイコンタクトをかわし、走行するバスの内部へと完全に潜り込む。肌を擦る硬い感触が気持ち悪い。しかし、それも間もなく消え去り、僕は暗闇のトランクルームへと放り出された。


「っと、もういいか」


 力の行使をやめ、今度は目の感覚を鋭敏にさせる。一切光の入らない暗闇でも辺りを確認する術が僕にはあった。異常に夜目が利く、と表現してもいい。

 一瞬にして普段のものと変わらない視界を手に入れた僕は周囲に視線をさまよわせた。乗客の数とほぼ一致するだけの鞄があったが、その中でも老夫婦の荷物は目立っていた。一際大きく、真っ青な強化プラスチック。僕は這うようにして横倒しになったキャリーケースへと近づき、鍵に狙いを定めた。

 鍵穴に指を突っ込み、捻る。床抜けの応用だ。それだけで呆気なく鞄は解錠され、ささやかな金属音を鳴らした。僕は手早くファスナーに手をかけ、外周を回していく。ジジジ、と噛み合っていた務歯むしの外れる音が狭いトランクルームの中で反響した。

 そして、スライダーが完全に終着点に達したとき、僕は息を呑む。

 気付けば首元にナイフが突きつけられていた。

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