目的があったところで同意を得られない可能性もある ③
「泥棒にしてはおかしいね、バスが動いてる」
胃を鷲づかみにするような、静かな声だった。身動ぎ一つできずただただ瞠目しているとキャリーケースがひとりでに開いていく。中から現れたのは短髪の少年だ。中学生くらいだろうか、あどけなさが残った顔をしているが、瞳には容赦のない冷淡さが宿っている。その温度に僕は竦み、それから、蛇に睨まれた蛙、という
たっぷり十秒ほど経過して、少年はようやくナイフを引いた。
「お兄さん、ずいぶん変な人だね。話を聞いてもいいかもしれない」
「あ、それは、助かる」
僕がそう言うと彼は相好を崩し、片眉を上げた。
「まあ、座りなよ。何か事情があるんでしょ? 今日は調子がいいからちゃんと話を聞けると思う。たぶんだけど」
「えっと、その前にきみは誰か教えてくれる? 僕は一郎さんからこの鞄を開けてくれって頼まれただけなんだ」
「この世でもっとも大事なことは順番だよ」
「え」
「先に質問したのはこっち。だから、こっちが先に答えてもらわないと。これは守ってもらわなきゃ」
「生まれた順番は関係ないんだ?」
予想外の反論だったのだろう、少年は目を見開いた。その反応に、口が滑った、と後悔する。少年の醸し出す雰囲気は人間よりも野獣に近く、生まれた順番など得意げに指摘すべき事柄ではなかった。僕は慌てて謝罪と訂正をしようとする。
しかし、その前に笑い声が響いた。少年は愉快そうに腹を抱えている。
「すごい、この状況でそんなことを言われると思ってなかった! いいね、お兄さん、気に入ったよ」
「それは、ええと、どうもありがとう」
「まあ、この場面で生まれた順番が大事じゃないことくらい、お兄さんも分かってるだろうけど、一本取られたし、先に答えるよ。僕は太郎。ジジイたちにはそう呼ばれてる。お兄さんは?」
本当に聞きたいことは名前などではなかったが、彼が順番を大事にしているのならそれをわざわざ乱すのは得策ではない。ひとまず流れに乗ることにした。
「僕は純っていうんだ。恋人と旅行してたんだけど、その恋人が一郎さんに話しかけてね。ああ……きみは上で何が起こってたか、知ってる?」
「いや、寝てたからわからないや。説明してよ」
「経緯を掻い摘まんで言うとね、このバスが銃を持ってるやつらにジャックされたんだ。それを一郎さんたちが解決した。超人だってことも知ってる」
「へえ」と太郎少年は目をぎらつかせる。「でも、それなら純くんはどうしてここにいるの? 解決したんでしょ?」
どうやらもう順番は関係なくなったらしい。ただ、それを論っても時間を食うだけで、余計なことは言わないことにした。「もう一回バスがジャックされたんだ」
「……は?」
「バスガイドが爆弾魔でね、それで一郎さんが鞄を開けたら解決できるって言ったんだ。それって、つまり、きみも超人ってことだよね。何か特殊な技術でも持ってるの?」
「僕は超人じゃないよ」
「え」
どれだけ素っ頓狂な声を上げてしまったのだろうか、太郎少年は勢いよく噴き出した。しかし、笑い事ではない。
「太郎くん、きみは超人じゃないの? 僕はわりとそれを期待してたんだけど」
「ああ、ごめんね。超人は超人なんだけど、僕は『お荷物』らしいよ」
「お荷物?」
「そう。超人って人を超える、って書くじゃん。でも、僕には人としての社会常識がないからまだ人を超えてないんだって。なら『お荷物』だって具合だよ。ばあちゃんは窘めてくれたけど、ジジイは性根が腐ってるから聞きやしない」
よほど鬱憤が溜まっていたのか、太郎少年は盛大な舌打ちをした。宥めようにも超人の宥め方など知らない。僕は愛想笑いを返して、さらに詳しい状況を説明した。どういう人間がどういった理由でバスジャックをしているのか。太郎少年がもっとも聞きたがったのがそれで、僕は覚えているヤシマユミの言葉をほとんど復唱することとなった。
あらかたの経緯を話し終わると、太郎少年は「なるほどねえ」と溢した。愉快さの滲んだ声色はどこか危うげにも感じられる。まずミヤコの元へと戻って考えを聞くべきではないか、そう思ったところで太郎少年は膝を叩いた。
「オッケー、危ないし、ぱぱっと処理しちゃおう」
平然とした口ぶりに当惑する。僕の知識では爆弾の処理とは厳重な装備を用意した上で行うべきものであり、それでも危険性がなくなるものではなかった。特殊部隊、だとかそういった人々が出動するべき事態である、と。
少し、ほんの少しだけそう苦言を呈したが、太郎少年は意に介した様子も見せない。いよいよ不安になり、僕は思い切って訊ねた。
「いや、本当に大丈夫なの? だいたい爆弾の場所すらわからないんだ」
「爆弾ならこのトランクの中にあるでしょ?」
「え」
「爆薬の臭いと時計の音が聞こえるじゃん……あ、純くん、爆弾は初心者?」
爆弾に初心者とか上級者というカテゴライズはあるのだろうか。いや、あるにはあるのだろうが、精通した人間がそうそこらにいては堪らない。黙っていると太郎少年は大きく肩を竦めた。
「しょうがないなあ、一から教えてあげるよ。爆弾魔のことも」
「できれば早く解除してほしいかな」
「まあまあ、そう言わないでさ。時間はあるんでしょ? とりあえず爆弾魔からだね」
聞く耳を持たない、とはこのことだ。焦りでまともに聞けそうにはなかったけれど、太郎少年は僕の態度など気にする様子もなく、続けた。
「まずさ、爆弾魔って爆弾を隠すじゃん。で、そのときの隠し方で二種類に分けられるんだ。一つは見つけられることを前提に隠すやつ。政治犯とかに多いね。で、そうなると当然、解除を難しくしなくちゃいけない。複雑な構造とかで惑わすんだ。いわゆるパズル爆ってやつだね」
「パズル爆? いわゆるってどういうこと?」
「ほら、鉄道オタクっているんでしょ? 撮り鉄とか乗り鉄とか。それの爆弾魔バージョン」
「世界って広いね」
「続けるよ。で、もう一方は見つけられそうにない場所に隠すやつらだ。今のケースとかだともろにそうだよね、走ってるバスの中なんて普通は探せないんだから。そいつらはだいたいガワ爆でさ、中身じゃなくて外見のほうがすごい凝ってるんだ」
太郎少年は迷いなく歩き、隅に置いてある鞄へと近づいていった。赤色のキャリーケースだ。彼はその前に膝を突き、顔を近づける。くんくんと鼻を鳴らしたあと、嬉しそうな顔で腰を下ろした。
「これだね。純くん、鍵開けてくれる?」
「え」
僕は戸惑う。太郎少年を即座に信じるには抵抗があり、また本当に爆弾が仕込まれているのならおいそれと手を出していいものとは到底思えなかった。
「開けても大丈夫なの? 爆発とか」
「大丈夫大丈夫。ガワ爆ってさ、自分の組んだ爆弾を眺めるために何度も開けたり閉めたりするんだよ。そのたびにブービートラップ仕掛けるのは面倒じゃん? それに、ブービートラップってダサいんだよね。ガワ爆らしいまともな美的感覚を持ってるならそんなのつけようとは思わない」
そもそも爆弾を愛でている時点でまともな美的感覚ではない。
そうは思ったけれど、口にはしなかった。この熱弁だと太郎少年もおそらく一家言持っている爆弾オタクだ。状況も逼迫している。わざわざ機嫌を損ねる必要性はどこにもない。
しかし、問題は本当にキャリーケースを開けても大丈夫なのか、という点である。ヤシマユミがガワ爆――おそらく外側や見た目にこだわりがある爆弾魔のことだ――だという確証もないし、もしそうだったとしても最後の最後に処理を防ぐ何かを仕掛けた可能性も捨てきれないのだ。開けた瞬間、ミヤコたち乗客が爆風に飲まれ、吹き飛ばされる――その光景が脳裏を掠め、踏ん切りがつかなかった。
僕は膝をついたまま、腕を不格好に上げる。しかし、不安の鎖に縛られて先へは進まない。あからさまに恐怖が滲み出ていると自分でもわかり、僕の挙動に太郎少年は唸りながら頭を掻いた。
「まあ、純くんは初心者だしね、怖くなっちゃうのもわかるよ。でもさ」
そこで太郎少年は言葉を句切り、口の前でぴんと指を立てた。黙れ、ということだろうか。従うと沈黙が訪れる。すると騒々しいバスの走行音に紛れて何か断続的な音が聞こえた気がした。耳を澄ましてみる。チッ、チッ、と硬質なリズムが途切れることなく鳴っていた。
時計だ――そう認識した瞬間、焦燥感が弾けた。同時に車体が揺れる。今まで無視していた走行の振動が僕の内側に突き刺さる。そのかすかな衝撃が爆弾に対してなんらかの影響を及ぼすのではないか、と内臓がくすぐられたような気分になった。
太郎少年は口の前に置いていた指をゆっくりとキャリーケースへと向ける。
「よく考えてみてよ、純くん。放っておいたらこの爆弾はいずれ爆発するんだ。で、もし上に戻ってジジイたちに報告してもきっと僕に任せるよ。そしたら堂々巡りになる」
「それは、そう、かもしれないけど」
「で、純くんがやらないなら僕が無理矢理にやる。さっき純くんは僕の入ってた鞄、開けたでしょ? それよりもっと手荒い方法でね。なら純くんが開けた方がいいんじゃない?」
理路整然とした説得にぐうの音が出なかった。おそらくあの超人の老夫婦は太郎少年に強い信頼を置いていて「お荷物」というのも年長者ならではのからかいに過ぎないのだろう。僕は散々悩んだ末、小さく、一つのお願いをした。
「太郎くん、もう少し安心させてくれない?」
「安心?」彼は首を傾げる。
「うん、きっときみは爆弾に相当詳しい。でも、乱暴に開けるというなら僕が代わりにやりたいという気持ちはある。だから――」
「――ヤシマユミは二ヶ月前に東京で起きたゴミ箱爆破事件の犯人だよ」
「え」
「今は二十八歳、短大卒業後から仙台市のバスガイド派遣会社に勤務してる。バスガイドを選んだのはいろんな場所に行けると思ったから、あと、手袋をつける仕事だから。小学生の時に火薬を弄ってて指に火傷があるんだってさ」
「えっと、太郎くん?」
「脅かしながらやろうと思ったけど、純くんはけっこう小心者みたいだから隠し事はやめるよ。やっぱり外にはいろんな人がいるんだね」
太郎少年はくしゃっと顔を歪める。怒りや呆れといった感情は見受けられない。むしろ僕の反応が新鮮だったようで、それを楽しんでいるふうにも見えた。
「性格は筋金入りのロマンチスト。二年前にバス会社勤務の下山忠志と出会ってから不倫を続けている。何でこんなことを知ってるかって言えば、ジジイたちに調査命令が出てたからなんだ。まあ、政治犯じゃないことが分かったから結局それも立ち消えになったんだけど。あ、これは余談だけど、僕たちが逃げ出したのはそのどさくさに紛れてだったんだよね。僕が超人としてはちょっとおかしかったのが理由かな。まあ、そのおかげで純くんに会えたからラッキーだったね」
こんな感じでどう、とそこでようやく太郎少年の声が少年らしいものに戻った。だが、前半の、読み込んだ資料を暗唱するような口調のせいで、僕の胸は痛いほどに締めつけられていた。
普通、太郎少年くらいの歳の子どもたちが暗記しているのはもっと平穏な事柄ばかりだ。竹取物語の冒頭だとか英単語だとか数学の公式だとか。しかし、きっと彼にはそういった知識などないに違いない。あるのは爆弾や犯罪者の特徴といった穏やかさとはかけ離れたものだけなのだ。
痛みを伴う教育を経て、彼は今ここにいる。その事実を認識して、僕は唇を噛んだ。一郎老人たちが夜逃げをした理由はきっと太郎少年のためなのだろう。
僕の心痛をよそに、彼は「話を戻すよ」と静かに言う。
「ヤシマユミの爆弾は悪い見本として有名なんだ。ごてごてした実用性皆無の装飾があったりね。でも、僕は彼女の組む爆弾がけっこう好きでさ……なんというか哲学的で、彼女らしさが溢れてる。主に使うのはRDXを用いたプラスチック爆弾。で、ここからが本題なんだけど、プラスチック爆弾っていうのはさ、臭いがないんだ」
「あれ」そこで僕は違和感を覚え、冷静さを取り戻した。「さっき、爆薬の臭いがするって言ってなかった?」
「よく覚えてるね。そうなんだ、このキャリーケースからは黒色火薬の臭いがする。黒色火薬もちょっとの衝撃で爆発することはないんだけどさ、無理に開けたら『もしかしたら』があるかもしれない。純くんなら僕のときみたいに優しく開けられると思ったからお願いしてたんだよね」
「そっか……ごめん、そこまで言わせて」
「いいよいいよ、気にしないで。あ、それとさ、やっぱり鍵を開けるくらいなら大丈夫だと思うよ。鍵の部分って強度的には弱いからブービートラップを仕掛けるとしても別の部分だ」
「……わかった」
僕は意を決し、鍵穴に指先を突っ込んだ。がちり、と噛み合った感覚があり、そっと左へと回す。
その瞬間、跳ねるような金属音が響いた。走行音にかき消されるほどのものだったにも関わらず、いやに大きく聞こえた。しかし、恐怖していた爆発は起きない。それだけで僕は胸を撫で下ろした。
「ね、言ったでしょ? 爆発しないって」
身体の奥深くが震えているのを実感しながら答える。「うん……」
「じゃあ、次は開けよう。一応訊くけど、純くん、この暗闇でもはっきりものが見えてるよね?」
「ああ、きみの首の右に大きめのほくろがあることもわかる」
「いいね。そしたら、ゆっくり、少しだけ開けて覗き込んでみてよ。中に紐っぽいものがあったらやばいから教えて」
僕は太郎少年の指示通り、隙間から中に目をやった。装飾はあるが、紐らしきものは見当たらない。それを伝えると彼は頷き、横から手をかけて大胆に鞄を開いた。
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