第2章   『バスジャックをする際は目的があるとよい』

目的があったところで同意を得られない可能性もある ①

 関西に超人を育成する機関があってね、私たちはそこから逃げてきたんだよ。


 名ばかりのバスジャック犯、一郎老人は自分たちの境遇を僕たちに、より正確な表現をするならばミヤコに説明をした。見知らぬ人と会話をするのが好きなミヤコは真面目な表情でそれに耳を傾け、花子夫人が補足を加えるたびに大きな首肯を返していた。

 滑らかに進むバスの中、一郎老人は多くの継ぎ目を挟みながら語っていく。辛い記憶を掘っているような雰囲気ではなく、穏やかな日常を味わっているようにも感じられた。アルファベットと数字で構成された名前、「調教」に近い訓練、非人道的な実験、彼が述べたのは概ねそのようなことだった。もちろん詳細は口にしていない。僕が勝手な推測で彼の言葉を脚色しただけだ。しかし、当たらずとも遠からずと言ったところだろう。

 冗談で真実を覆い隠した人生を話し終えると、一郎老人は再び笑った。悟ったような笑い方にも見えた。


「まあ、そういうわけでね、厳密には夜逃げとは言えないかもしれない。嘘を吐いたわけではないんだが、気に障ったのなら謝るよ」

「まさか」とミヤコは素早く否定する。「でも、本当に超人っていたんだね。昔、そんな話をちらっと聞いたことあったけど、驚いちゃった」

「よく言うよ」僕は鼻で笑う。「戦後、米軍の統治下で――ってやつだろ。あんなの与太話に決まってるじゃないか」

「まあ、信じられないのも無理はないかしら」


 花子夫人が目尻を下げたもののミヤコはやはりそれにも首を横に振った。


「信じてるってば。だいたいあたしも似たようなものだし」

「似たようなもの?」

「そ。驚かないでよ? あたし、魔法使いなの」

「魔法使い?」


 老夫婦が口を揃えるとミヤコは自慢げに胸を張る。僕は止めない。彼女が信じてもらうために何かをすることはないと知っていたからだ。そして、期待通り、ミヤコは「すごいでしょ」と言うだけに留め、老夫婦も何らかの比喩と受け取ったらしい、「それはそれは」と頬を緩めるだけでそれ以上の追及はしてこなかった。超人のくせに魔法使いが実在するなど眉唾物だ、と断じている可能性もある。無理もない、超人であっても人は人だ。自分の常識に当てはめて考えるのが自然でもある。あるいは超人だからこそ、なのかもしれない。まったく別のベクトルの超常を想像できなくてもおかしくはなかった。


「でもさ、二人とも大丈夫なの? そういう機関ってさ、去る者は追う、来る者は拒む、みたいな価値観だと思うんだけど」

「まあねえ、一時期はちょっと大変だったけど、最近は落ち着いてきてるのよ」

「襲われるたびに返り討ちにしてきたからね」

「一郎ちゃんも花子ちゃんも強いんだねえ」


 内容の過激さに話の速度がかみ合っていない。そのずれに疲労を感じた僕は彼らの会話から離れ、周囲に目を配った。異常な体験を共有したからだろう、車内では旅客同士での会話も繰り広げられている。席が替わったため、僕とミヤコ、老夫婦は中央のあたりに座っていて、前方にいるのは運転手とバスガイドだけだ。会話が盛り上がっているのは後方で、ヒロトが頻りに四人の老人グループや若い恋人たちに話しかけていた。

 まるでバスジャックなどされていないかのようにバスは高速道路を北上し、岩手県に入った。と、同時にバスガイドのヤシマユミが通路に顔を見せる。左手には銀色のマイクが握られていた。


「さて、皆様、ただいま岩手県に入りました。お伝えしたとおり、この先、北上きたかみジャンクションから秋田自動車道には入らず、そのまま東北自動車道を直進させていただきます」


 立て板に水を流したような話し方だ。ヤシマユミは笑みを湛え、余韻が消え去るのを待ってから、続けた。


「途中トラブルがありましたが、新しいバスジャック犯の方はどうにも心優しい方々のようです。とはいえ、緊張しておられるお客様もいらっしゃるかもしれません。僭越ではございますが、バスガイドらしく岩手県についての情報を話させていただいても構いませんでしょうか?」


 ずいぶんと臨機応変な対応ではあったが、今さらその程度で驚くような乗客はいなかった。バスジャックと比べると歓迎すべき事態と思ったのかもしれない、最後部に座る老人のグループから「それはいいねえ」だとか「ありがたいねえ」だとかいった声が聞こえ、そのそばにいた若い恋人が「お願いしまあす」と声を揃えた。

「ありがとうございます」とヤシマユミは小さく頭を下げる。それから、まるで凶悪犯に話しかけるような面持ちで超人の老夫婦の顔を窺った。「よろしい、でしょうか」

「ああ、構わないよ」一郎老人が頷く。「長旅だしね」

「温泉とかの情報があると嬉しいかしら」

 花子夫人の言葉にミヤコがはしゃぐ。「あ、いいねえ、それ。温泉行きたいかも!」

「ミヤコ、落ち着きなよ」


 僕は顔を顰めるが、バスガイドのヤシマユミは表情を崩さない。職務上慣れているのか、それともこのバスに乗っている人間は器が広いのか、彼女は「では、バスジャック犯からの要求により、温泉の情報を多めに盛り込ませていただきます」とおどけた。不穏なジョークであるにも関わらず、車内に笑い声が満ちた。そこで僕は気付く。


 あ、このバスに乗っている人はみんなおかしくなっちゃってるんだ。


 変人はまともな人に囲まれているからこそ変人なのであり、その割合が逆転すれば「まともな人間」こそが「おかしな人」となってしまう。冷静に常識を説いたところで意味をなすはずもなく、僕はすべてを諦め、ヤシマユミの話に聞き入ることにした。


「皆様ご存じの通り、岩手県は東北地方、太平洋に面した県でございます。沿岸部のぎざぎざとした地形はリアス式海岸と呼ばれ、漁場として古くから利用されております。これから秋になるとマグロやカツオですとか、ホタテやカキが多く水揚げされます」

「カキかあ、いいなあ」

「ミヤコ。お金ないだろ」

「さて、バスジャック犯さまお待ちかねの温泉ですが、秋田県との境目に奥羽山脈があり、温泉地と言えば内陸部になってしまいます。とはいえ沿岸部にもございますのでどちらを選んでもそれぞれ海の幸山の幸といったものをお楽しみいただけると思います」


 ヤシマユミの話し方は丁寧で好感の持てるものだった。堅苦しくなく、ところどころ表情を変えながら感情を誘導する姿は熟練を感じさせる。三十代に届くか届かないか、という年齢でもこれほどうまくなるのか、と舌を巻きそうにもなった。ただ、依然として目の光が鈍いのが玉に瑕だ。もしかしたらこのような臨時の添乗員に指名されたのはそれが原因であるのかもしれない。バスガイドの戦場は観光バスが主であり、このような場面に駆り出されるのは名誉とは言えないはずだ。

 ヤシマユミはその後も岩手県内の観光情報を紹介していった。県庁所在地である盛岡や世界遺産にも登録された平泉、スキー場で有名な雫石、とさまざまな地名とその特色が述べられ、それが一通り終わると控えめな拍手が起こった。


 そのときである。

 ヤシマユミが音もなく立ち上がり、微笑みを浮かべたのだ。今まで暗く淀んでいた彼女の瞳が爛々と輝き始めていた。何が起こるかと緊張すると、ヤシマユミの右手がゆっくりと掲げられていった。

 まさか――。

 その声が漏れそうになるのをなんとか堪える。

 乗客たちの視線を一身に受け、ヤシマユミはにやりと口角を上げる。そして、これこそがバスガイドの本懐であると主張するような力強さで、言った。


「では、皆様、左手をご覧ください」


 その瞬間、ミヤコの首がぐるんと、バスガイドの示す方向とは反対に、つまり、僕の方に勢いよく回転した。胸焼けするほど色濃いしたり顔を向けている。賭けは成立していなかったはずだが、それでも「そういうことはしない」と断言したのは事実だ。彼女はそれを詰り、論い、弱みにつけ込んでくるだろう。「あれ? あたしの言ったとおりだけど、今どんな気持ち?」と馬鹿にするに決まってるのだ。

 暗澹たる気持ちに僕はそっと彼女から目を逸らした。忘れたふりをして、ヤシマユミが指し示す方向を凝視する。


「あれ」


 そこで溢れたのは疑問、というより、拍子抜けの感情だったかもしれない。進行方向左、窓の外にあるのは一面の緑だった。奥羽山脈の木々は太陽に照らされ、美しく光ってはいたけれど、案内すべきほど特筆した光景があるようには見えなかった。


「ねえ、ミヤコ、左、何かある?」

「んー?」とミヤコは不服そうに首を伸ばす。乗客の視線が揃ったのを確認したのか、ヤシマユミは嬉々とした声を出した。

「左手に見えますのが、『爆発』でございます」


 ちかっ、と左で豆粒ほどの光が生じる。それが一瞬にして膨張したのち、バスの左側面に轟音が叩きつけられた。びりびりと鼓膜に揺れが生じる。遅れて、開けられたままの窓からかすかな爆風が入り込んできた。土の臭いと燃焼物の焦げ臭さが鼻を突く。バスがよろめく。悲鳴はまだ上がらない。全員の視線はいまだ山に釘付けになっている。突如として弾けた炎は山肌を舐め、美しい緑を黒と赤に汚していた。


「みなさまあ、いかがでしたでしょうかあ」


 ヤシマユミの顔は興奮で歪んでいた。額から流れた汗が輪郭を伝う。唾を飲み込んだのか、喉が大きく動く。赤い舌をちろりと出して唇を舐める。それから彼女は妖艶とも言える表情で嘆息し、胸の中に充満した歓喜を吐き出した。


「あの」と花子夫人が声をかける。「あの、今のは」

「今のは爆発ですよお。美しかったですねえ」

 顔面を引き攣らせたミヤコがおずおずと訊ねる。「えっと、ここの風物詩ですか?」

「いえ、昨日、私が仕掛けておいたんですう」

「私たち」一郎老人は困惑を露わにしていた。「バスジャックしてるんだが」

「本当に優しい方々で助かりましたあ。でも、もう大丈夫ですよお。いろいろ途中でありましたけど、バスジャックの役割はこちらで引き継がせてもらいますからねえ」


 そこでようやく車内がざわつき始めた。引き継ぐ、という言葉に僕はいやな予感を覚え、身を震わせる。僕の声なき声に応えるかのように、ヤシマユミは涎を溢しそうなほど顔を蕩けさせ、頷いた。


「大変申し訳ありませんがあ、これより目的地を変更させていただきますう。このバスは車内に仕掛けた爆弾によりい、『あの世』へ向かうことになりますう」


 安臭い脅し文句をBGMに爆炎が後方へと流れていった。

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