休憩
『長者原サービスエリア』
老夫婦の手際は見ていて心地よくなるほどのものだった。彼らは乗客の一人がたまたま持っていたガムテープを用いて元バスジャック犯たちの腕を拘束していく。職人を思わせる手つきに溜息を漏らす者さえいた。意識を失った男たちは食材か何かのように何度もくるくると回転させられ、三十秒も経たないうちに一本の棒へと変じた。
バスは異常事態を感じさせないほど円滑に進み、十分ほどしたところで
平日にもかかわらず旅客で賑わっており、駐車場は車で埋め尽くされている。誰かが窓を開けたのか、香ばしい匂いとサービスエリア特有の高揚した空気が車内にも流れ込んできた。
休憩は十分ほどだ。異様な緊張に晒されていた乗客たちは我先にとバスから降りていく。僕とミヤコも顔を見合わせ、老夫婦とともに車外へと向かった。彼らが益子と石郷岡をどう始末するのか、確認しておきたかったからである。バスジャックを引き起こしてしまった張本人としての義務、のようなものがあったと言えばいいだろうか。
しかし、その義務感も虚しく、彼らの作業は十秒ほどで完了した。老夫婦はまさしく超人で、周囲の視線をかいくぐって犯人を素早く男子トイレの個室へと押し込めたのである。神業、というほかない。老人二人は目にも留まらぬ速度で動き、誰にも勘づかれることなく、バスへと戻っていった。感心したものか閉口したものか、僕には判断を下すことすらできなかった。
対してミヤコは素直に感嘆し、「すごい人たちもいるものだねえ」と背筋を伸ばしている。「どうなるものか、と思っちゃったよ」
「僕は今でも思ってるけどね」
「だろうね、まだバスジャックがいるし……ってあたしが言うことでもないか」
普段通りの口調に胸がちくりと痛んだ。彼女は強いひとで、心配するほど恐怖など感じてはいなかったのだろうけれど、それでも僕の口からは謝罪の言葉が漏れた。
「……ごめん、ミヤコ。助けられなくて」
「へ?」
ミヤコは考えもしていなかった、というふうに眉を上げる。僕が自分の落ち度を解説するより先に、彼女は小さく笑った。
「結果的に、でしょ。純は助けてくれようとしてたじゃん。それに純がやったら大変なことになってた」
「それは認める、けど、男だし恰好つけたいとも思ってた」
「どれだけ一緒にいると思ってるの? 恰好つけたって今さらだよ」
それから彼女は肩を竦め、「でも、次はお願いね」とおどける。次なんてないに越したことはないけれど、頷いておいた。
「それにしてもさ、なんであいつらバスジャックなんてしたんだろ? 暇潰しにしては壮大だよね」
「何か考えがあったんじゃない? 警察への挑発、とか、捜査の攪乱なんて可能性もある」
「攪乱でバスジャック?」
「もしかしたら、だよ。どれだけ考えても推測の域は出ない」
ただ、僕はその可能性も十分にあると踏んでいた。わざと姿を晒すことで警察の力点は移動せざるを得なくなる。上りと下りの施設を行き来できるサービスエリアに仲間を待たせていれば南下も北上も自由自在だ。もちろん一般道に直接出ることも可能である。だからこそ変装の一つもしていなかったのではないか?
しかし、それはもはや熟考すべき事柄でもなく、僕は肩を竦めて話題の打ち切りを示した。ミヤコもさほど興味がないのだろう、特に何を言うこともなかった。
十分という時間は短いようで長い。
ミヤコはトイレに行ったあと、食堂が併設された売店へと駆け込んでいった。土産物を買うつもりもなかったため、僕は時間までぶらぶらとサービスエリア内を歩くことにした。
施設の前に並んだ屋台には昼時であるからだろう、ちょっとした行列ができている。いつまでも凝視していると帰ってきたミヤコに何を言われるかわかったものではなく、少し覗くだけに留めておいた。だいたい、金も食欲もないのだ、立ち止まっていても仕方がない。強がりではなく、合理的な判断である。
そして、まさに屋台の前を通り過ぎようとしたとき、「にいちゃん」と声をかけられた。まさか呼び止められるとは予想もしていなくて、反射的に背筋が伸びる。振り返るとバスの中にいた男児が僕を見上げていた。なんと返したものか分からずに黙っていると、男児は「聞いてんの?」と不満そうに首を傾げた。
声が上擦りそうになるのを抑え、何とか応える。「え、っと、どうしたの?」
「いやあ、さっきのじいちゃんたちすごかったな、と思ってさあ」
世間話、というか、感想の交換をしよう、というつもりらしい。なぜ僕を選んだのか、と疑問には思ったが、ぶつけるのはやめた。口調は大人びているものの相手は小学校低学年ほどの子どもだ。無碍に扱って泣かれでもしたら堪らない。
「ああ、そうだね。僕には真似できないかな」
「あんなの誰もできねえって。驚いたよなあ。おれも誰か困ってたらあんなふうに助けようかな」
「それは、いい心がけ、なんじゃないかな」
「にいちゃんも困ってたら言ってよ、助けてあげるから」
男児は生意気に胸を張り、手に持った袋を揺らした。母親におつかいを頼まれたようで、白いビニール袋の中にはビールとライターが入っている。バスの中で酒を飲む人はあまり見ないな、と思いながら辺りに視線を彷徨かせた。彼の母親はどこにいるのだろう。
「どうしたの、きょろきょろして」
「いや、きみのお母さんは?」
「ん、ああ、トシコのこと?」と彼は呼び捨てにする。「トシコは売店だよ。やんなるよなあ、選ぶの長いと」
まるで恋人の買い物に付き合わされているような物言いに思わず噴き出してしまった。ミヤコとの間にも似たような思い出があり、僕は「そうだよね」と同意しておいた。それが嬉しかったのか、彼はさらに気をよくして「まったく、女ってやつはなあ」とわざとらしく腕を組んだ。
しばらく談笑していると「ヒロトくん、先に外に出ないでよ」と女性の声が聞こえた。見ると、バスで彼の隣にいた女性が売店の中から小走りにこちらへと向かってきている。改めて眺めてみると母親、という言葉のイメージよりは若い。二十代半ばほどだろうか。短く切り揃えられた髪の毛の動きは、揺れる、というより、跳ねる、というようなものに近く、活発的な美しさがあった。
「もう、戻るときは一声かけてって言ったじゃない」
「かけたよ、一声も二声もかけた」
そうおざなりな返事をして、ヒロトは彼女の手を握った。ちらちらと振り返って手を振ってくる彼を見送り、僕は改めてミヤコが姿を現すのを待つことにした。焦れったくなるほどの時間が過ぎて現れたミヤコは両手一杯のお土産を購入していて、閉口する。無駄遣いはやめてよ、と嘆き、「ほら、急がなきゃ」と彼女の背中を押してバスへと向かった。
バスの中には既に全員が、正確に言えば例の二人を除いた全員が揃っていた。僕とミヤコが着席するとともにバスガイドのヤシマユミが人数を確認していく。もう決められた席など関係なくなってしまっていて、カチカチと鳴るカウンターのリズムはとても不規則なものになっていた。
ヤシマユミは車内を一往復して、定位置につく。エンジンがかかる。出発と同時に彼女はマイクを握り、アナウンスをおこなった。
「えー、お客様が全員」と言ってから、訂正する。「お客様と現バスジャック犯の方々が全員揃いましたので出発いたします。皆様、いろいろありましたが、どうかおくつろぎください」
懇願にも似た口調に、笑い声が起こった。僕たちのそばにいる老夫婦のバスジャック犯は照れたように笑う。照れるところではないと思う。
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