計画的であればあるほど予想外の事態が起きる ③

「いやあ、まったくだ」


 撃たれたはずの一郎老人は顔を顰めて、悔しそうに右腕をぶんぶんと上下に振った。飛び散った血や肉塊はどこにもない。今、車内にあるのは硝煙の臭いと間の抜けた空白だけだ。乗客たちは伏せていた顔を上げ、それからいちように眉を顰める。状況を理解できず、僕も、そして益子も固まっていた。

 確かに銃声は鳴った。だが、それだけだったのだ。一郎老人から銃弾が逸れたのかとも思ったが、周囲には着弾したと思しき痕跡はなく、また、流れ弾に当たった人もいないようだ。では不発か? しかし、発砲した益子は呆けた表情で一郎老人と拳銃の間に視線を往復させている。その反応は銃弾を発射した反動が彼の手に残っていることを窺わせた。


「いかんよ、きみ」

 一郎老人は雰囲気にそぐわない、窘めるような声で言った。

「銃は確かに人に向ける用途もあるだろうがね、むやみやたらに撃っちゃだめだ。だいたい、撃ち方からちょっと勉強した方がいいんじゃないか?」

「おいおいおい、ちょっと待て、ジジイ。今、何したんだ?」

「何って――」


 返答を遮るように再び銃声が、二発、炸裂した。今度は石郷岡の拳銃だった。勢い任せの、照準すら合わせていない銃撃は、しかし、それだけで終わった。またもやどこかに着弾した音は生まれなかった。


「何って、ねえ」のんびりとした口調で花子夫人が言葉を継ぐ。「つまんだのよ」

「つまんだ?」


 そこでようやく、老夫婦が右拳を顔の位置まで挙げていることに、僕は気付く。

 おいおい、嘘だろ。って、まさか――

 困惑が笑いに変じると同時に彼らは同時に指を開いた。手の中から何かが溢れ、きん、と高い音が鳴った。ころころと足下に転がってきた黒い粒を見て、到底信じられない事態が起こったのだと把握する。

 床には今まさに発射されたであろう弾丸が落ちていた。

 この老人たちはあろうことか、飛んでくる銃弾を掴んだのだ――漫画や映画に登場するスーパーヒーローのように!

 僕は唖然とし、不格好な中腰のまま、老夫婦を見つめる。見つめることしかできなかった。常識を説くつもりはないが、それでも彼らの言動は常軌を逸している。


「それにしても、だめなのは撃ち方だけじゃないみたいねえ。その拳銃、中国製の安物なんじゃないかしら。大陸から日本に出回るのは粗悪品ばっかりだから弾道予測に苦労しちゃった」

「九十二式はなあ、中国内で流通しているものならまだいいんだがね」

「あら、そう言ってますけど、一郎さん。たかが時速千キロ程度のもので危ないところだったじゃないですか」

「砲身に歪みがなければ問題はなかったんだ」


 会話についていくことができない。目の前にいる老夫婦はまるで夕食後にその日の出来事を報告するような平穏さで、談笑している。少なくともバスジャック犯に銃口を向けられている態度ではなかった。


「なんだよ、お前ら!」

 石郷岡がその体躯に似合わない、弱々しい悲鳴を上げた。指は引き金にかかっている。

「死ね、バケ――」


 モノ、と彼は最後まで言い切ることができなかった。何が起こったのか、石郷岡は卒倒している。横倒れになり、その衝撃で拳銃が床を滑り、座席の下へと潜り込んでいった。


「バケモノなんて失礼ねえ」

「そうだそうだ」と一郎老人が相槌を打つ。「私たちはバケモノではない。どこにでもいる、ただの超人だよ。超人の夫婦カップルだ」


 言葉が出ない。狐につままれたような気分だった。乗客たちはあまりの荒唐無稽さに突発的なショーを眺めるような顔つきをしており、ミヤコもバスの中ほどでぽかんと口を開けている。

 ただ一人、狼狽しているのは益子だ。彼は顔を引き攣らせ、拳銃を構えながら一向に起き上がらない石郷岡に呼びかけた。


「おい、石郷岡! なにふざけてるんだ!」

 しかし、返事はない。大男は顔面を通路に密着させ、ぴくりとも動かなかった。

 花子夫人がからからと笑う。「ああ、しばらく起きないと思いますよ」

「ババア、てめえ、何した?」

「弾を返しただけよ。勢い余って額に直撃しちゃったの、ごめんなさいね」


 ぴん、と老婦人はでこぴんの要領で指を弾く。その瞬間、細腕から発せられたとは思えないほど大きな音が、車内に力強く轟いた。その音は彼女の言葉が真実であることをすべての乗員に叩きつける。益子の顔からは先ほどまであった余裕の残滓すら消え失せ、銃を握る手には未知の恐怖から来る震えが生じていた。


「なんなんだ、なんなんだよ、お前ら」

「だから超人ですってば」


 花子夫人の安穏とした受け答えに益子の恐怖が臨界点を超えた、それが手に取るように分かった。彼は意味をなさない叫び声を上げ、引き金に指をかける。その動作に呼応して一郎老人の身体が沈み込んだ。

 僕に見えたのはそこまでだ。

 三センチメートル――指がそれだけの距離を進むより速く、気付けば、一郎老人が益子との距離を詰めていた。一瞬遅れて、バスが大きく揺れる。悲鳴が上がる。床を蹴った衝撃だ、と認識したときには益子の拳銃は老人によって奪い去られていた。


「あ、あ――」


 滑稽なほど怯えたバスジャック犯の頭部に、銃把じゅうはが叩きつけられる。鈍い音が響いて益子は前のめりに崩れ落ちた。ふう、と老人は肩を竦め、拳銃から手を離す。益子の背中に当たった拳銃が床へと滑り落ちると静寂が訪れ、その空白を埋めるかのように歓声が爆発した。

 僕の後ろにいた乗客たちが手を叩き、思い思いの言葉を叫んでいた。ありがとう、だとか、すごい、だとか、余計な装飾のない賛辞と礼賛が飛び交う。命の危機が過ぎ去ったと感じたのか、運転手も奇声を発した。その拍子にアクセルを踏み込んだらしく、バスがぐんと加速する。その衝撃に体勢を崩すことなく、老夫婦は照れくさそうにはにかんだ。


「一郎ちゃんと花子ちゃん、やるねえ!」


 ミヤコが感謝の言葉を述べながら、労うように一郎老人の肩を叩く。偉そうな態度ではあったが、無事に事態が収束したことを実感し、僕も深い溜息を吐いた。

 こうして銀行強盗たちが起こしたバスジャック事件は発生から解決まで二十分もかからずに解決された。あとは彼らを拘束して警察に連絡するだけだ。経緯を説明するのに時間はかかってしまうが、それは仕方がない。

 僕と同じことを考えたのか、バスガイドのヤシマユミが携帯電話を取り出した。会社に報告するのが先かそれとも警察か、と迷ったのか、指を止めて考える素振りをしている。やがて彼女は決心したかのように顎を引いた。


 だが、一郎老人の動きは、やはり、その小さな動作よりも素早かった。


「ああ、すまん」

「え?」

「申し訳ないが、バスガイドさん」


 彼は目にも留まらぬ速度でヤシマユミの手から携帯電話を抜き去る。それから、心苦しい、と言いたげな表情を作り、顔の前で彼女の電話を揺らした。


「警察に言うのはやめてくれんか?」

「え、でも」

「警察が来るといろいろ面倒じゃないか。時間もかかる」


 そこで僕は老夫婦の事情を思い出した。ミヤコによれば、彼らは夜逃げをしているのだという。あるいは超人ということも関係しているのかもしれない。とにかく彼らにも彼らの苦労があるようで、一郎老人は益子と石郷岡をパーキングエリアに放り投げておくことを提案した。しかし、バスガイドのヤシマユミにも職務規定がある。彼女は乗客を一瞥し、「規則ですので」と食い下がった。とは言っても、食い下がる、と表現するには弱々しい態度で、少し粘れば簡単に押し切れそうなものにも見えた。

 ふむ、と一郎老人が顎に手を当てる。社会常識と己の都合を天秤にかけて悩んでいるようだ。僕もミヤコもそういった常識とはかけ離れた存在だから彼の気持ちは理解できた。社会のシステムというやつは超常的な存在には得てして煩わしいものなのだ。


「どうする、花子?」

「そうねえ」と花子夫人も唸る。彼女はしばらく思案したのち、顔を明るくさせ、手を叩いた。「じゃあ、こうしましょ。私たちでこのバスをジャックしちゃうの」

「え」ヤシマユミが呆ける。「お客様?」

 一郎老人は「それだ!」と頷く。「バスジャックしかないな」


 乗客たちがいっせいに呆ける。老人には相応しくない不穏な言葉に全員が反応に困っていた。しかし、抗議など頭の片隅にもないのは確かで、実際に彼らがバスジャックしたとしても反抗する者は誰もいないだろう。乗客の中に老夫婦に対抗できる力を持つ者がいるはずがない。


「でも、バスジャックって何をすればいいんだ?」


 困惑顔で一郎老人は首を捻る。返答のしにくい疑問は宙に浮き、ふらふらと車内を漂って、あろうことかミヤコへと当たった。今まで状況に翻弄されていたはずのミヤコはいつの間にか愉快そうに笑っており、ばしばしと老人の背中を叩いた。


「一郎ちゃん、バスジャックするならまずは何か要求しないと」

「ああ、なるほど。じゃあ、警察にも会社にも連絡せずに走ってもらうとするか」

「えー、それだけ?」なぜかミヤコは不服そうだ。「じゃあ、花子ちゃんは? もっとさ、金品とかそういうのもらった方がいいんじゃない?」

「ちょっとミヤコ、きみ、何言ってんの?」


 僕の注意を軽やかに無視し、ミヤコは花子夫人へと歩み寄る。真っ先にバスジャックを主張した花子夫人は「金品はちょっと」と苦笑したのち、続けた。


「じゃあ、縄、なんてないかしら。この人たちを縛り上げておかないといけないでしょ? ガムテープとかでもいいけど」


 ミヤコを含めた三人は楽しげに議論をしている。剣呑さとはかけ離れた雰囲気に僕は頭を抱えた。結局、連鎖したようにバスジャックが続いているではないか。

 しかも、人数だけで言えば、一人増えている。

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