計画的であればあるほど予想外の事態が起きる ②
「おい、前から見られる、銃を隠せ」
乗客を黙らせた鋭い印象の男、
改めて見るまでもなく、周囲の人々の身体が恐怖に縛られていると分かる。拳銃はあまりにステレオタイプな暴力の象徴だ。鉛玉より先に放たれた恐怖という弾丸に乗客たちは震え、声を発することもままならないようだった。ミヤコですら自分の迂闊な行動を悔いて頭を抱えている。
「ああ……失敗した、もう最悪」
その細い声にはあからさまな後悔が滲んでおり、わずかな動揺が僕の胸を走った。狼狽を悟られたら彼女の悔恨が膨らむ。僕は平然を装って、できるだけ冷静な声色を絞り出した。
「やっちゃったものは仕方ないよ、ミヤコ。僕も先に注意するべきだった」
「そうかもだけど」
「それに、ほら、最後の手段で魔法使えばいいしさ。頼るのはどうかと思うけど」
「まあ、うん……にしたって、変装ぐらいしてくれてもいいのに」
まったくだ、と同意する。ただでさえ彼らは特徴的な風体をしているのだ、帽子の一つも被らずに正体が露見しないと考えるなどいくらなんでも甘すぎる。おかげで顔を覚えてしまったではないか、と僕は八つ当たりにも似た不満を抱いた。
しかし、不満を抱いたところで現状は現状だ。バスジャック犯二人の銃口はそれぞれバスガイドと僕たち乗客に向けられている。狙いを定めなくとも引き金を引いただけで弾丸が誰かに命中する状況下にあった。
「ねえ、純」とミヤコが背を丸めたまま、顔だけを僕へと向ける。「純ならどうにかできるでしょ? ちゃっ、と解決するのはどう?」
「できる、とは思うけどさ」
「けど?」
「相手は二人だし、それに――」
ミヤコの言うとおり、僕が力を使えば彼らの無力化が可能だ。十数秒、といったところだろう。しかし、一度に一人ずつしか効力を発揮できない以上、現実的な案とは言えなかった。一人を打ち倒す間に死人が出てしまう可能性が、少なくとも血が流れる可能性があり、実行に移すのは躊躇われた。
「――それに、子どもがいる」
左の座席を一瞥する。そこには前から移動してきた女性と男児がいる。二人は顔を強張らせ、互いの背中に手を回していた。僕の持っている打開策はいささか――もしかしたら銀行強盗たちよりも――乱暴なもので、その光景が子どもに対して好ましい影響を与えることはない。僕に手を振ってきた陽気な男児に後ろ暗いものを見せたくはなかった。
「言いたいことはわかるだろ?」
「考え方は嫌いじゃないよ。でもさ」
「とにかく、彼らの動向を確認しよう。まだ誰も殺してないってことはむやみに攻撃するつもりはないんだろうし」
車内前方にいる銀行強盗たちを見る。彼らはそれぞれ運転手とバスガイドに何かを言い含めているところだった。おそらく外部と連絡をしないように脅しているのだろう。こういったバスには外部に非常事態を知らせる装置がつけられているはずで、それらを危惧しているのかもしれない。銃を座席にぶつける音が丁寧に何度も鳴らされていた。
あまりに手慣れている。
円滑な脅迫の様子から、僕は彼らが社会のアウトサイダーであると推測した。怒りの表情すらどこか事務的で、段取りに従っているようでもあったのだ。行き当たりばったりの犯行であるはずなのに、彼らの声には上擦りであるとか震えであるとか、そういった興奮が見受けられない。
しかし、だからこそ、疑問が浮かんだ。
バスジャックなど現代日本において成功する犯罪ではない。これまで日本でもいくつかの事件が起きているが、逃げおおせた例など存在しないのだ。銀行強盗を成功させたとは思えないちぐはぐさに僕は顔を顰める。
その瞬間、「さあて」という低い声が響いた。益子のものだ。痩身の彼は運転手が余計な行動を起こさないと確信したのだろうか、かすかな笑みを湛えて僕たちを見据えていた。
「まあ、そう怯えるな。あんたらがくだらないことをしない、限り命を取るつもりはねえよ。金だってたんまり持ってるし、あんたらから奪うつもりはこれっぽっちもねえ」
口調は穏やかではあったが、その内容は脅しだ。乗客たちは犯人の機嫌を損ねないよう、沈黙を貫いていた。
益子は静かに続ける。
「世の中、平穏がいちばんだ、そうだよな。銀行を襲った俺が言うことでもないけどよ、あんたらの気持ちは分かる。だから、バスが秋田に到着するまで大人しくしててくれや。言うことを聞いてくれるなら、何も、しないからよ」
どこかから溜息が漏れた気がした。
人間は道が定まると安心してしまうものだ。乗客たちは益子の言うとおり余計な行動をしなければ命だけは助かると考えているのかもしれない。暗闇の中で突然生じた燐光に縋るような、そんな精神状態に陥っている可能性もある。
だが、僕は疑問の靄を払うことができない。彼らの目的はなにか、黙考していると、そこで益子が「とはいえ」と流れを変えた。どこか演技じみた口調だった。
「とはいえ、こうなっちまったんだ、俺らのことなんて信じられないだろ? それと同じで俺もあんたらのことは信じられなくてな、悪いけどよ、携帯だのなんだのこっちに預けてくれ。出していないやつがいると困るから、その場で一回掲げて……そうだな、おい、さっきの女!」
「え」とミヤコの声が宙に浮いた。もしかしたら、僕も声を挙げていたかもしれない。ただ、それすら判然としないほど気が動転していた。
益子の視線は、まっすぐ、貫くような強度で、ミヤコへと向かっている。目が合ったのだろうか、彼は口角を歪めて大きく頷いた。
「そう、お前だよ、さっき喚いたお前だ。お前が全員の携帯電話を集めろ」
「あ、あたしが?」
拒否したわけでもないのに、益子の表情に険が混じった。僕が代わりに請け負うことができるはずもなく、彼女もそれを承知しており、小さく「大丈夫」と呟いて、立ち上がった。いざとなれば力を使うことも覚悟して、僕はわずかに腰を浮かせておく。
「よし、じゃあ、あんたらからだ」
益子は僕たちの前にいる老夫婦に向けて銃口を揺らす。彼らは二人で一台しか所有していないと説明して携帯電話を掲げた。手荷物やポケットをひっくり返して証明が済むとそこから反時計回りに受け渡しが進んでいく。すべての乗客を回り終えるころにはミヤコの手のひらの上に携帯電話の山ができていた。それを崩さぬよう、彼女は慎重に前へと進み出る。
「おう、そこに置いとけ」
そばの座席を顎で指され、ミヤコは静かに手を下ろした。安堵の息を吐いたのが分かる。そして、彼女は「それじゃあ、あたしはこれで」と座席へと踵を返した。
「待て」
益子が彼女の肩に手をかける。そして、狼狽するミヤコの鼻先で拳銃を揺らし、にやにやと不穏な笑みを作った。
「おい、お前の携帯はどうした?」
「え?」
「携帯くらい持ってるだろうが」
「あの、あたし、そういうの持ってなくて」
「はあ?」
益子の背後、バスガイドに銃を突きつけたまま、石郷岡が声を荒らげる。彼は強く足を踏み鳴らして苛立ちを露わにした。
「なあ、姉ちゃんよ、このご時世に携帯の一つも持ってないはずねえだろうが!」
「えっと、あの、本当で……」
「くだらねえ嘘吐くな、って言ってんだよ!」
鋭い恫喝にミヤコの身体がびくりと震える。
犯人たちの疑念は無理もなかった。彼らは僕たちの素性など知らない。携帯電話を所持しているのが常識という風潮がある以上、ミヤコの言葉を鵜呑みにする理由はあまりに薄い。だが、事実なのだ。小さい頃からずっと一緒だったが、彼女は今まで携帯電話などとは関わりのない生活を送っていた。そして、僕がそれを主張しても犯人たちの耳に届かないことは明白だ。
どうすれば彼らに納得してもらうことができる?
考えるが、いい案が思い浮かばない。ミヤコも黙り込んでいて咄嗟に何かできるような気配はなかった。益子も痺れを切らしたのだろう、深い嘆息をして、言った。
「じゃあ、ちょっと調べさせてもらうか」
そこで僕の思考は真っ白になった。
膨らみも何もない、彼女のジーンズのポケットに手が伸びている。怒りで狭くなった視界の中で、男の下卑た表情が揺れた。鼻が膨らみ、舌舐めずりをしている。
ああ、これは、茶番だ。
おそらく携帯電話を差し出していたとしても難癖をつけて似たような行為に及んでいたに違いない。恋人の贔屓目を抜きにしてもミヤコは目鼻立ちが整っているし、スタイルだっていい。男性に言い寄られている姿を目にしたこともある。益子はその身体をまさぐるために携帯電話の回収役にミヤコを選んだのだ。
時間を潰すための余興として――。
そう気付いた瞬間、怒りが弾けた。
「あ」と頭の端にかすかに残った冷静な僕が声を上げる。
あ、これ、だめだ。我慢の限界だ。
人死にが出たとしても、性欲に塗れた手で彼女に触れられたくなかった。僕は念じ、力を使おうと試みる。
一郎老人が立ち上がったのはそのときのことだった。
「あの、そういうのはやめた方がいいのでは、ないかと……」
彼はゆっくりとした足取りで前へと出て行く。その姿に気を取られ、集中が途切れる。僕が力を使うには時間が必要で、一度力が霧散するとやり直しになってしまう。そして、再度、意識を練り直す猶予があるはずもなかった。
「一郎さん」と花子夫人も不安げに腰を上げる。彼女の声をかき消すかのように、石郷岡は怒号を発した。逆上を隠そうともしていなかった。
「おい、ジジイ! こっち許可なく立ち上がってんじゃねえよ! 言ったよな、くだらないことはするな、ってよ」
「ええ、でも、そちらの方が……」
「何か文句があるのか?」益子が平坦な声色で言う。「それとも立場が分からないのか?」
「文句というか、その、いやがっておられるので……」
状況にそぐわない言葉に奇妙な空白が生まれた。益子と石郷岡は顔を見合わせ、すぐに笑いを漏らした。そんなまっとうな注意を受けるとは思わなかった、と言いたげに肩を揺らしている。
だが、これはチャンスだ。早く力を発動させなければならない。ミヤコの魔法があれば死人を甦らせることも可能だが、それはまったく別の話だ。
僕は拳を握り、念じる。念じる。念じる。何度も行使してきた力、それが生じるまでの時間がいやに長く感じた。焦れったさのあまり、頭がおかしくなりそうだった。
三秒が過ぎ、五秒が過ぎ、じわりと腹の奥から力が滲み出てくる。早く――そう叫びそうになったところで、益子の宣告が、確かな冷たさとなって車内に充満した。
「笑ったよ、ジジイ。でも、死ね」
銃声が轟く、一郎老人の身体がびくんと動く、一瞬遅れて後部座席から悲鳴が聞こえる。僕のすぐ前にいる花子夫人は絶望的な表情で、目を見開き、小さく細い声を漏らした。
一郎さん――どうして、そんなに動きが鈍っているんですか。
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