第1章 『バスジャックをする際は計画的な方がよい』
計画的であればあるほど予想外の事態が起きる ①
「当バスをご利用頂き、まことにありがとうございます。このバスは仙台発秋田行き高速バスでございます」
本来ならバスの運転手が行うべきアナウンスに僕とミヤコは顔を見合わせた。マイクを握っているのは運転席の後ろに座っていたブレザーの女だ。見ようによってはバスガイドに見えなくもなかったが、そもそもそれがおかしい。このバスは路線バスであり、観光バスではない。バスガイドが同乗しているはずがなかった。
「どういうこと?」と声を潜める。すると応えるようにブレザーの女が続けた。
「さて、事前にお知らせいたしましたとおり、昨日までの大雨で崖崩れが発生し、秋田自動車道が不通となっております。そのため、今回の行程は、盛岡まで進行したのち、高速道路を降りて国道四十六号線で秋田駅へと向かう形でございます、どうぞご了承ください。運転手は
「……そうなの?」
「って、言ってはいたけど」ミヤコはそこで身を乗り出し、老夫婦の夫の方へと話しかけた。「一郎ちゃん、新聞貸してくれる?」
「ちゃん、って初対面だったよね」
だが、苦言とは裏腹に老人は怒りなど見せず、それどころか少し嬉しそうな顔でミヤコへと新聞紙を手渡した。よほど心が広いか、不躾さを心地よく感じてしまっているのか、そのどちらであるか考えるのも億劫で、僕は追及を諦める。ミヤコは受け取った新聞を音を立てて広げ、該当の記事を探し始めた。
そこまでしなくたっていいのに。
乗客の誰もが不平の声を挙げていない。それに、バスの進行も、バスガイドの口調にも一切の淀みがなかっため、疑う気持ちなど消え去っていた。
「途中休憩ですが、本来の行程であれば
バスガイドのヤシマユミはその後も「臨時」というには流暢な説明を続け、最後に「長時間のご乗車となりますが、どうぞおくつろぎください」という定型文で締めくくった。それと同時にミヤコが「お、これこれ」と紙面を見せてくる。差し出された新聞に目を落とすと確かに大規模な崖崩れが発生したという見出しがあった。
「しかし、珍しいこともあるものだね。運休になってもおかしくなさそうだけど」
「経営的な問題があるんじゃない? でもさ、バスガイドさんがいると得した気分にならない? 左手に見えますのは、とか実際に聞く機会なんてあんまりないし」
「手、逆だよ」
「あ、そうか」ミヤコは左手を降ろし、右手を掲げなおす。
「というか、あの人は苦情受付窓口みたいな役割なんじゃないかな。きっとそういうバスガイド的な仕事はしないよ」
「じゃあ、賭ける?」「何を?」「んー、一千万円、とか?」「そんな大金ないし、もらっても持ってられないけどね」
いささか淡泊な受け答えだったからだろうか。途端にミヤコは機嫌を悪くして「つまんないの」と下唇を突き出した。それだけに留まらず、後ろに誰もいないのをいいことに、リクライニングシートを思い切り倒して新聞の熟読を開始する。あまりに横柄な態度だ。そもそも読んでいるのは老人から奪った新聞紙である。
「それ、返しなよ」
「大丈夫だって、一郎ちゃんと花子ちゃん、優しいし」
「呼んだかね?」
ミヤコの声はよく通る。そのせいで通路側、左の席にいる一郎老人が覗き込んできた。ミヤコは体勢を変えもせずに、なんでもないよごめんごめん、と紙に書かれた言葉を音読するみたいに応えた。それにもやはり一郎老人はいやそうな顔をすることもなく、莞爾たる笑みだけを残して体勢を戻した。
やはりとてつもない好々爺らしく、また、花子夫人もどうやら笑っているようだ。ここまで人が良いと悪い人間に騙されてしまうのではないのだろうか。勝手に不安になり、それを伝えるとミヤコは「そうだよ」と声を潜めてあっさり肯定した。
「『そうだよ』?」
「いや、大きな荷物持ってたでしょ? なんでかなーって純も言ってたし、気になって訊いてみたんだよね」
「なんで知らない人にそうやって話しかけられるの?」
「楽しいよ? 純もやってみれば?」
「僕はほら、そういうのできないタイプだし」
「知ってる」ミヤコは眉を上げる。「で、話戻すけどさ、一郎ちゃんと花子ちゃん、夜逃げしたんだって」
「は?」
一瞬、思考が混乱し、僕は窓の外に目を向けた。今は昼だから夜逃げにはならない、と考えたのち、論点はそこではない、と悟る。同時に二つの感情が浮かんだ。納得と疑念だ。ミヤコが言っていることが本当なら一郎と花子という平凡としすぎて逆に珍しい組み合わせにも納得できた。偽名として名乗るなら適当と言えば適当だ。
だが、一方で疑いもする。それが表情に出ていたのか、ミヤコは不服そうな声を、いくらか潜めて、上げた。
「純、信じてないでしょ」
「半々だね。ミヤコが嘘を吐いてなくても、前の二人が嘘を吐いてる可能性もある」それから以前東京で起きた事件を思い出し、脅してみた。「もしかしたらこの前の爆破事件の犯人かもしれない。あんな大荷物を持ってたらさ」
「まさか、そんなわけないでしょ」
「そりゃそうだけど、とにかく知らない人なんだからちゃんと敬語とか使おうよ。話しかけるのは止めないからさ」
「はいはい、善処します善処します」
ぶっきらぼうな物言いに僕もそれ以上苦言を呈そうとも思えず、黙る。すると、そこで会話は途切れてしまった。ミヤコは久々に手に入れた新聞を熱心に読み進めている。邪魔する気にもなれず、また、暇潰しの道具も持っていなかったため、僕は大人しく外を眺めることにした。
仙台に立ち寄ったのは久しぶりのことだった。旅ガラス、みたいな生活を始めてからもう何年も経過していて、それだけに風景に懐かしさはない。立ち並ぶビルは発展の象徴ではあるが、極めて人工的で、囲まれてしまうと他の街との差異が薄くなってしまう。だいいち、僕は自然の中に身を置いた方が好きなのだ。それはバスという人工的なものを利用しながら考えることではなく、自分の身勝手さに少しだけ笑いが漏れた。聞き咎められてはいなかったようで、改めて外の景色の鑑賞を再開する。
バスは渋滞に巻き込まれることもなく、市街地を抜けて、インターチェンジを通り過ぎた。じわじわと速度が上がり、バスガイドのヤシマがまた一言、二言、口にする。
乗車時に覚えた違和感が、あるいはそれに近い何かが喉元にせり上がったのはそのときのことだ。背筋に冷たいものが走り、僕は首を伸ばして前方の席を見渡す。おかしなところはない。小さな話し声が聞こえるだけで、バスの中はいたって安穏としたものだった。
「どうしたの? トイレ?」
ミヤコの軽口に首を振る。「きみじゃないんだからそんなわけないだろ、なんか変な感じがするんだ」
「変な感じ、って、どんな感じ? 幽霊、とかあ?」
「なんていうか、その――」
それ以降の言葉が出てこなかった。僕の視線はミヤコの手にある新聞、その一面記事に釘付けになっている。
『東北自動車道で車が暴走、男性一名死亡』――その大きな見出しの下に『銀行強盗が逃走中』と書かれ、容疑者と思しき男二人組の写真が載せられている。先週、ニュース番組を賑わせていた話題だ。昼食の時に眺めていたニュースを思い出す。監視カメラの映像を解析した結果、東京で銀行を襲い、現金を奪った強盗の身元が判明したと報じられていた。
その顔に見覚えがあったのだ。いや、見覚えがある、なんてものではない。僕は腰を浮かせ、前方、通路左側に座る強面の二人組を確認しようと試みた。だが、シートが邪魔で顔はちらりとも見えない。前へと歩み出て堂々と覗き込んでもよかったが、そこで女性アナウンサーの不安げな表情が甦った。「逃走中の犯人は銃を所持している模様です」。まずはミヤコに注意を促しておくべきだ。そう考えて、そっと彼女の肩を叩いた。
「ねえ、ミヤコ、あそこに銀行強盗が乗ってるかも」
「え、うそっ、銀行強盗?」
「ばっ――」
しまった、と考える暇すら、なかった。ミヤコの声は停滞していた車内の空気を破裂させている。気付けば前方に座るすべての人が視線をこちらへと注いできていた。その中には紙面に掲載されている顔とほぼ同一のものが、あった。
体格のよい坊主頭が顔を歪めてミヤコを睨んでいる。
何とかごまかせないか、という思考は空転に空転を繰り返した。そもそも銀行強盗がいる車内でその話題を口にした瞬間、安定は崩れ去るのだ。ミヤコが「まずい」という表情を浮かべるより先に窓際にいるもう一人の男が立ち上がり、右手を突き上げた。
その手には黒い拳銃が握られていた。
「騒ぐな!」
胃を揺らすような低い大声が座席の間を這う。ひっ、と短い悲鳴がいくつか漏れる。強盗たちの後ろの座席にいた男児が身を竦ませている。舌打ちの音が強く響き、その瞬間、鉛を流し込まれたかのように空気が重くなった。
「堂々としてりゃ逆に怪しまれないかと思ってたんだけどな」
通路側、右の席に座っていた坊主頭の大男も腰を上げている。黒いスーツの上からでも筋肉の発達が一目瞭然で、身体中から威圧感が発散されていた。男は滑らかな動きで胸ポケットから拳銃を取り出し、運転席へと歩み寄っていった。狼狽している運転手のこめかみに銃口が突きつけられる。あ、あ、と震えた声が行き場なく漂ったところで、落ち着き払った宣言が車内に浸透した。
「仕方がない、バスジャックだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます