感染性バスジャック症候群
カスイ漁池
プロローグ 『バスジャックをするにはバスに乗らなければならない』
さまざまな人がさまざまな事情を胸に高速バスへと乗り込む
直線的な水飛沫が、乾いたアスファルトに染みを作った。
前を歩くミヤコは悪戯な笑みを浮かべていて明らかに僕を狙ったものだと分かり、睨んでみる。文句も言ってみる。けれど彼女は「濡れてないんだからいいじゃん」と平然と口にするばかりで謝罪する気配をみじんも見せなかった。
九月の日差しはまだまだ夏を帯びたまま、強い。仙台駅からそう離れていないが細い路地にまでは補修工事が行き届かないのだろう、路面のあちこちにある水たまりから雨の残り香が漂っていた。エメンタールチーズ――外国のアニメに出てくるような――を彷彿とさせるその水の穴に、ミヤコは嬉々とした表情で飛び込む。リュックサックが上下に動き、長い髪の毛が揺れ、着地と同時に水が飛び散る。その姿に「きみはいくつになったんだっけ」と詰ると「いくつになったんだっけ」とおうむ返しにされた。ずいぶん前に成人しているはずなのに子どもっぽいところはいつまで経っても変わらなくて、苦笑が漏れてしまった。
火曜日の正午前、僕たちは高速バスの発着所へと向かっていた。ミヤコがゆっくりと食事を楽しんでいたせいで時間はぎりぎりだ。走った方がいい、と忠告した甲斐もなく、未だに彼女の歩調はのんびりとしている。
「ねえ、純」と言いながら、ミヤコは足首を振って靴の中に入った水を払った。「牛タン定食ってさ、最終的にとろろでご飯食べるよね。さっき食べたのもさ、とろろ定食フィーチャリング牛タンって呼ぶべきだと思うんだけど、どう思う?」
「はじめに牛タンを三枚も食べたら残るはずないだろ。批判する気はないけどさ」
「なーんか味、薄かったんだよね。ダブルにしとけばよかったかなあ」
「でも、お金がない。今日だって余裕があったら新幹線に乗ってる」
「どっかに一千万くらい落ちてればいいのに」
ミヤコはきょろきょろと視線をさまよわせる。その顔つきはとても真剣なものではあったけれど、本気でないことは明白で、僕は努めて無視を決め込んだ。
「どうでもいいけど、靴、濡れたままでバスに入っちゃだめだよ」
「分かってるってば、うるさいなあ」
今やろうと思ってました。ミヤコは宿題を催促された子どものように唇を尖らせ、立ち止まった。ぴたりと揃えた両足を凝視している。周囲の確認くらいすればいいのに、彼女はそれすら怠って、呪文を唱え始めた。祝詞を思わせる抑揚のない声が終わると、スニーカーから、じわっと、ひとりでに、水が染み出す。靴が完全に乾くまでまばたき程度の時間しかかからなかった。濡れた靴下の不快な感触が消え去ったらしく、彼女は気分が良さそうに前進を再開した。
――魔法使い、という存在がいる。
呼称は重要ではない。超人でも仙人でも陰陽師でも超能力者でもいい。とにかく超常的な力を持っている人間――
ミヤコは、それだ。
彼女は幼い頃からひとつだけ魔法を使うことができた。物質を元の状態に戻すことができる、というもので、その力によって僕たちの生活は成り立っている。とはいえ、立ち往生した車を修理したりだとか、折れたヒールをくっつけたりだとか、些細な手助けばかりするものだからお金は貯まらない。その気になれば怪我や病気を治すことも可能であるらしいが、ミヤコはそういった大きな用途に対してはあまり力を使おうとしなかった。
「目立つのいやだし。それに、原理分からないから怖いし。だいたい、人間は怪我したり病気したりして、それで死んだり生きたりするのが当たり前でしょ?」
ずっと昔、ミヤコはそう言って笑った。変なところで達観しているのだ。でもやはり幼稚な部分があるから道ばたで死んでいる猫を気まぐれに蘇生させたときもある。彼女にとっては何らかの基準があるようではあったが、それを厳然と示されたことはなかった。僕もあえて訊こうとは思わなかった。
「純」と呼びかけられ、顔を上げる。いつの間にかずいぶんと先に進んだミヤコが慌てふためいて急かしてきていた。
「時間やばいって、バス出発しちゃう」
先ほどまで僕がずっと翳していた忠告を奪われ、不服ではあったものの、追った。正直な話をすると僕自身もその「超常的な存在」の一人で、僕だけならすぐにでもバスの発着所に移動することができるのだが、ミヤコの横にいるのが心地よいので何も言わずに隣を進むことにする。
バスの発着所は仙台駅から徒歩五分ほどの場所に設けられている。ガラス張りの待合室があり、その前に入れ替わり立ち替わり高速バスが停車する形だ。一台出発すると一台滑り込んできて、乗客を飲み込み、その場を離れる。それが一日の間、朝から夜まで繰り返される。慌ただしさはあるが、背の低い車が行き交う中をのそりのそりと進んでくるバスは呑気な大型動物に見えなくもない。
僕たちが到着したとき、ちょうど秋田行きのバスがやって来たところだった。平日のためか、乗客はそれほどいない。親子らしき女と男児、若い恋人、老人のグループなどが三々五々といった具合に列を作り始める。しかし、ミヤコはそのさまを眺めているだけで後に続こうとしなかった。早く並べばいいのに、と僕は彼女をせっつく。
「乗ろうよ。チケットなら鞄の後ろポケットだ」
「知ってるってば」彼女はスムーズに二人分のチケットを取り出す。「並びたくないだけ」
列から外れていれば並んでいることにはならない、という主張に僕は笑うべきか、困惑すべきか、悩む。馬鹿げてはいるけれどどうせ席が決まっているのだし、すぐに列が掃けるのは明らかだったため、諭すのはやめた。その通り列は間もなく解消され、最後尾にいた老夫婦のチェックが始まった。人の良さそうな顔の二人は仙台秋田間の荷物には相応しくない、大きなキャリーバッグを一つ、トランクルームへと載せようとしている。海外旅行に赴くのではないか、というほどのものだった。
「すごいね、あの人たち。何泊するんだろ」
「あれ買えば旅費浮かせられるかも」
「僕を詰め込む気ならお金の無駄遣いだし、勘弁してよ」
うそうそ、と微笑んで、ミヤコは乗客の確認をしている運転手のもとへと向かっていった。とぼけた顔の運転手は名前の確認をし、座席を読み上げた後、僕を一瞥した。会釈すると小さく頭を下げ返されたものの、眉を顰められている。女性に手続きを任せているのか、だとか、平日なのに仕事はどうしたんだ、だとか、そう罵られることもないはずだが、さっさと乗車するに限る。僕は振り向かずにバスへと乗り込んだ。
慢性的に金銭不足の僕たちにとって、料金の安い高速バスという交通機関は旅のともと言っても過言ではない。だから、発車直前の車内に流れるなんとも言えない雰囲気には慣れきっていた。出発をせがむ焦燥感や見知らぬ他人といる緊張感、同じ目的地を目指しているという連帯感はどこか落ち着くし、少しわくわくもする。
しかし、車内に足を踏み入れた瞬間、慣れ親しんだ空気とはまったく別のものが僕を包み込んだ。
何かがおかしい。
思わず、足が止まる。これまで味わったことのない違和感に喉が詰まるような感触を覚えた。周囲を見渡す。だが、その直接的な原因には見当がつかない。確かにすぐ近くにいる強面の二人組は空気を圧迫している。運転席の後ろに座ったブレザーの女性は目の光が鈍くてどこか危うい。立ち止まっているのが不思議だったのか、中ほどの席にいる男児が僕へと向けて手を振ってきていた。
僕はそれに反応することができない。
何かが、おかしい。
ちょっとしたずれが積み重なり、大きな断絶になっている、そんな感じだ。滑らかに動く歯車の中に粘性の強いコールタールを流し込んだようなぎこちなさが、空気にへばりついていた。
不穏さの膜、とも表現すべきその雰囲気に「ミヤコ」と呼びかけようとして、なんとか声を飲み込む。僕たちには金銭的な余裕などない。ミヤコもたかがいやな予感がしただけで出発を見送る選択肢を採りはしないだろう。杞憂であることを祈りながら僕は所定の席へと座った。ほとんど最後尾だ。同時にミヤコが老夫婦たちと談笑しながら乗り込んでくる。彼女たちは僕のいやな予感などどこ吹く風といった表情で進んできて、ミヤコが隣に座り、ひとつ前の席に老夫婦たちが腰を下ろした。
乗降口が閉じられる。
ぷしゅう、という音が餓えた獣の、満足げなげっぷにも聞こえた。
〇
仙台発秋田行き高速バスは定刻通り、出発する。
善良な一般人以外に乗り込んでいるのは――銀行強盗、爆弾魔、魔法使いの男女、霊媒体質者、幽霊、超人のカップル。
各々の荷物と奇妙な因果を載せて、バスは東北自動車道へと向かっていく。
僕たちは確かにこの旅の一員だった。
そして、言うまでもないが、バスジャックは犯罪である。
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