[零月譚]小噺

@yomi043

[水の冥土] 交叉の街


一.


 恋の怪異。

 話を初めて耳にした時、乃木倣の脳裏に自然と浮かんだのは「したごころ」、立心偏の「こい」の文字だった。人間の強い思念、特に男女の色恋にまつわる多くの感情と怪異には古くから切っても切れぬ縁があるとはいえ、体を表す名が恋そのものの怪異には未だお目にかかったことがない。

 なんとも人臭い怪異が出るものだと感心していると、すかさず傍らの男が言い添える。


「魚だ、魚の鯉。それも馬鹿みたいに大きいのが出るらしい」

「どこに」

「話じゃ川…だが奴さんは怪異だからな」

 水辺ならどこでも、あるいは最早水なんて無くても構いやしないのかも。


 幼い見た目に反して落ち着き払った雰囲気の男…清水唯一は、組んだ胡坐の端に肘をついて独り言のように呟いた。何処に出るか分からない、それはいつ何時、誰が危機に晒されるか分からないということだ。穏やかだった縁側の空気がにわかに引き締まる。唯一さん、と呼び掛ける乃木の声にも、僅かに緊張の色が見えた。


 よく似た背格好に黒の学生服。丸みの残る頬や目元。清水の頬に走る掠り傷もやんちゃをしてこさえた物だと言って誰が疑うだろう。並んで座る彼らはどこからどう見ても十五、六の学生だ。日の高いうちから茶をしばいているあたり差し引いても違和感がない。

 しかし悲しきかな、彼らはどちらも齢二十五をとうに越えた成人男性である。では何故の装いか。罰や酔狂で着せられている訳ではない。学業を本分としない彼らにとっても学生服はれっきとした制服であった。


 秘密結社「まがつ」。

 そのように名付けられた組織に、彼らは所属している。揃いの学生服に身を包んではいるが、出自も目的もてんでばらばら、構成員を統率する頭も定期的な集会も存在しない、実に自由極まりない集団である。集うための拠点は存在するものの皆が皆そこへ出入りする訳でもない。一体何人いるのか、一体いつから存在する組織なのか、謎を挙げればきりがない。そんな組織と称して良いのかすら曖昧なこの集団に籍を置く者たちにも、たったひとつ、彼らを「まがつ」足らしめる共通点が存在した。

 その身に怪異を宿す者。怪異と契約を交わした者。怪異に干渉する者。彼らは皆、「怪異と共に生きる」という決断を下した者であった。


「唯一さん、俺はこの件」

「分かってる、別に止めにきた訳じゃない」

 片膝立てて言う。平時より感情が表に出にくい男だが、琴線に触れるものがあったらしい。止めたところで聞かないくせにと呆れたように笑う先輩に、よく分かっていると頷いた。そして言うが早いか荷物を担ぎ上げ、最後に腰に愛刀を差して立ち上がる。目深に被った学帽で陰る目に感情らしい感情は宿らず、ただどこまでも空虚だ。しかし清水はその虚が、不足としての虚ではないことを知っている。


 乃木倣は、己の意志で怪異をその身に「取り込む」ことができる人間である。取り込み、語り掛け、時には浸食して 怪異を元あるべき姿に戻す。己の身体を箱とし、鍵をかけて牢とする。

 それが乃木の、まがつとしての能力であり、決断であった。


 それじゃと足を門に向けた乃木に、おい、と清水が声をかけた。座っているのも惜しいと言わんばかりの乃木とは対照的にもう少しくつろいでいく気らしい清水は、聞いた話なんだが、と続ける。

「零部隊の奴ら、既にあっちこっちに張ってるらしい。それだけ注目を集めてるってことだ、出現すれば一斉に集まってくるだろうな」

「なら猶更だ、零の連中のやり方は」

 乃木が語調を強めたのを察して、清水があえてのんびりと彼の口癖を先取る。

「『本質的じゃない』、だろ。お前いつもそう言うものなあ」

 あまり熱くなるな、そういう事だろう。湯呑に茶を継ぎ足す姿を横目に捉え、返事の代わりに外套を翻す。

 一つしか違わない筈だが、彼は時折兄貴分のような物言いをすることがあった。そのことに特に反感を覚えないのは、ひとえに清水の悠揚さが理由だろう。風貌は幼いが中身はむしろ同年代の者より老成している。言う事をすっと飲み込ませる説得力を持ち、しかもそれが嫌味でないから、自然と彼を慕う者が集まってくる。

 己も間違いなくそのうちの一人であるのだが、認めるにはどこか反抗心というか、甘え下手な自分が顔を出す。早足に今度こそ門へと歩を進めれば、もう後ろから掛けられる声はない。こちらから振り向いてやるのが癪で、更に足を速めた。


 傾きだした日と冷たい秋風の中、手始めに目指すは裃ン原の中央を流れる川の下流、顔馴染みの大蛇の元。いつの間にか肩口に身を埋めた小さな怪異が、行先を察してキィ、と鳴いた。


 ***


二.


「知らぬ」


 取り付く島もない。あれから真っ直ぐ向かった下流にて、長い体のほとんどを水中に沈めた大蛇がきっぱり言い放つ。瀞という名を持つこの蛇は、乃木が知っている怪異の中でも長く生きている方だ。昔は深い淵に住んでいたそうだが、近代化と開発の波に呑まれてやむなく人里へ降りてきたのという。どろりと溶け出したような尾にぱっくり裂けた口、くすんだ色の体毛の間から除くぎょろりと大きな瞳など、確かに深淵の底が似合う、怪異らしい風貌の持ち主である。その気になれば人間など一呑みにしてしまいそうだが、乃木は更に一歩歩み寄った。水辺に靴底を浸して、口を開く。

「些細な事でいい、姿を見た事もないか」

「くどいぞ、人間。知らぬというのが聞こえぬか。………」


 またも素気無く返される…が、様子がおかしい。ゆっかり持ち上げた体は動かぬものの、目は何かを探すようにあちこちに動き、長い舌をしきりにちろちろと覗かせ、その注意はどうやら乃木の周囲へ向けられている。睨み合うようで、いまいち視線が合わない。

 さらさら流れる川の水音ばかりで後は沈黙…これ以上押しても無駄か、そう判断し、立ち去ろうとした乃木の頭上。

 やわらかい重みが、鳴いた。


「きゅっ」

「!!!!」


 ざっぱーん!

 先程までの不動が嘘のように巨体が、飛び上がった。ざばん、ざばん、盛大に水しぶきを上げてもの凄い勢いで後退していく。水が溢れる。引き攣った尾が水面を打つ。ここだけ大水のような騒がしさ、至近距離にいた乃木も思いっきり水を浴びて一瞬で濡れ鼠と化す。

「おい、」

 帽子の鍔から滴り落ちる水滴を払う。瀞はと言えばしきりに水中に逃げようとするが、浅すぎてどうしようもないらしい。収まりきらないからだをしばらくうねらせていたが、数分もしないうちに諦めて、ゆっ…くりと顔の上半分だけを水から出し、こちらを見た。


「…近づけるなよ、その」

「管狐か?」

「名など如何でも良い、兎に角… !!」

 瀞がびくりと跳ねる。寝起きの管狐が欠伸をして、ちらりと牙が覗いたらしい。成程、怪異とはいえ捕食者への本能的な恐怖はそう簡単に消えるものではないようだ。


「…」

「…」

「…なァ管狐、良い遊び相手を紹介してやろうか」

「!」

 瀞にも聞こえるようわざとらしく声を張れば、面白いくらい水面が揺れる。蛇の面をしている間のほうが、人型の時よりも随分と感情豊かだ。意外な一面に口角が意地悪く上がるのをなんとか抑えつつ、冗談だ、と管狐を制した。手の中でもだもだと短い前足をばたつかせるのを見るに、こちらの怪異は本気にしたらしい。今にも瀞へ飛び掛からんとするのが見えたのだろう、川に視線を戻したとき、既に瀞の姿はなかった。正確には、覗かせていた頭が完全に水中に消えてしまっている。…あまり苛めすぎても嫌われてしまうだけだ、それは惜しい。


「話はそれだけだ、『鯉の怪異』に関して何か分かったら教えてほしい。死体と水に縁のあるお前の力が借りられれば、無駄な血が流れずに済む」

 水中に鱗が光る。聞いてはいるのだろう。返事は、ない。

 協力を仰げるかは分からないが声を掛けられただけでも良しとしよう。元々瀞は人間に協力的な怪異ではない。生きた肉ではなく死体を食らう彼は、必要以上に人間の領域に関わろうとはしない。それでいい、と乃木は思う。協力を仰いでおいて可笑しな話だが、乃木自身あまり人間と怪異が関わり合いになるのを良しとしない考えの持ち主だった。生まれつき怪異を寄せやすい己のような例外を除き、普通の人間が怪異と必要以上に交わるべきではない。だからこそ、大事になる前に事態を収束させたい。


 目的は果たした。後は例の鯉が出そうな場所を何箇所か回って、収穫が無ければそれまでだ。未だ沈んだままの瀞に一礼して背を向けると、背後から低く声がした。


「…ぬしの右腕を寄越せば考えなくもないぞ」


 聞かなかったことにした。


 ***


三.



 正面から、背後から、木々の影から、視線が突き刺さる。恐らく片手で数えられるだけの人間が、己の一挙一動を見ている。…下手を打てばそのすべてがこの首を狙って得物を抜く。思わず、苦味を伴って独り言ちた。


「お前さんの宣戦布告のおかげで、事が厄介になってきたぜ」


 烈。そう名乗った零の青年は、乃木に真っ二つに折られた彼の刃の切っ先でこの首に傷をつけた。しかしその間合いでは長くは戦えまい、何より握り込む刃が敵よりも先に自分自身を傷付ける。今度こそ止めを刺さんと素早く刀を手元に引き寄せた。

 獲った。確信が快感として背筋を駆け上がる― 刹那。

 視界を、闇が覆った。


 が キィンッ !



 振り下ろされた鋼が、火花を散らす。

 …闇夜と見紛う黒衣を翻した濫入者が、ふたり。似た外套に身を包むも片や蛮殻制服、片や軍服。まがつと零部隊―  一瞬の打ち合いの後、それぞれが、同じ装いをした側へとつく。


「何勝手に刀折られてんだ、…腑抜けるのも大概しやがれ」

 刀はこちらへ向けたままに背後へ檄を飛ばす、縁の無い眼鏡の青年。その顔にある筈のない既視感を覚えて目を見開く。否、思い当たるとすればひとつ。庇うように立ち塞がった覆面の男の背を捉えて囁く。

「拓真、ありゃあ…お前さんの」

 問えば、小さく頷いた。兄弟が居るなど聞いたことがないが、まさか零の所属とは。通りで顔が似ている訳だと合点して見遣れば、

(…あれが、血のつながった人間に向ける目か)

 一言で言うなら、憎悪。兄と同じ端正な顔を嘲笑に歪め、レンズ越しにも薄れることのない強い感情に、背後の自分まで射抜かれたような錯覚に陥る。相対する拓真の背からも心の内を読み取ることはできない。血縁故の愛憎、であれば…部外者たる乃木に介入する余地など欠片もないのだろう。


「…?」

 ふと落とした視線の先、点々と散る黒の水滴。それが、ぱたぱたと増えていく。

 体温の低下、眩暈、…夢中になるうちに忘れていた失血の自覚が一斉に襲い掛かる。触れれば、斬り付けられた時より傷が深い。始まった、 ― 蝕まれていく。

 乃木の変化に既に気付いているのだろう、振り向かないままの拓真に首を差された。まがつとして在る時、彼は言葉を発さない。そこにどのような経緯があるのか乃木は知り得ない。けれど、言葉が無くとも分かる。

 彼はここから自分を逃がす為に刀を抜いた。今ここから乃木が去れば拓真に二対一を強いることになる。何より大きな借りだ、…だからこそ、彼が作った逃げ道を無駄にする訳にはいかない。一度流れ始めたこの血は、手当てをしなければ止まらない。

 人間にとって妖刀が害を成すように、怪異にとって零部隊の刀傷は触れるだけでも危険な代物だ。それは人の身に怪異を宿し続けた果て、人とも怪異ともつかないこの身にとっても同じこと。焼け付くような痛みが半身に広がっていく。一刻も早く、ここから立ち去らなければ。


その時、視界の端で なにかが揺れた気がした。


「……な、っ」

大量の水が、何処からか勢い良く湧き出す光景。飛沫を上げるそれは大蛇が川をのたうつのに良く似て、目を凝らせば矢張りと言ったところか赤と黒の鱗が透ける。間違いなく「怪異」の仕業だ。それも目当て中の目当て、ここに居る全員が血眼で探す「鯉の怪異」、その物。

何者かが名を呼ぶ声がする。知らぬ名だ、零の人間だろうか。大水は何かを呑み込んで、その場所に留まり続けている。であれば引きずり込まれた人間が居る、…逃げ出すなら、今だ。


 恩に着る。眼前の彼へと届くだけの声で言い残して駆け出した。急な運動に血が噴き出す。その生温さを感じられるだけの皮膚の感覚も最早無い。


 浸食される。痛みが思考を奪っていく。…而してそれは、己だけの痛みではない。同じだけの傷を負わせた、苛烈な相貌を思い出す。致命傷には至らぬだろうが、それでもきっと、長く残る傷になる。その事に、どうしようもなく愉悦を感じた。



縺れる足元が、ゆらり、水面のように揺れる。



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