琵琶湖環状線
安江俊明
琵琶湖環状線
「今度の休みに琵琶湖環状線に乗らへんか?」中学校の教室で香山蓮(れん)が同級生の山田華(はな)に声を掛けた。
「何、それ? 大阪に環状線走ってるのは知ってるけど、琵琶湖にもあるってこと?」華は首を傾げた。
「滋賀県が考えた琵琶湖をぐるっと回る鉄道の構想があるんや。大阪みたいに直通で回れへんけど、、電車を乗り換えたら一周出来る事実上の環状線や。しかも一駅の運賃で」
「へえ、えらい安いんやなあ」
「ただし、その運賃やったら乗ってる間は駅の外には出られへんから、昼間やったら何処かの駅で駅弁買うて食べなあかん」
「面白そうやな。どっから乗るん?」
「そやなあ、この頃やたら外人観光客が目立つようになった湖西線のおごと温泉駅からにしょうか。そこからひとつ大津寄りの比叡山坂本駅まで切符は百九十円。それだけで琵琶湖をぐるり一周の旅や。紅葉も見ごろやし、秋の琵琶湖の色んな顔も見られるしな」
「ええなあ、行こ、行こ」
という訳で蓮と華は早速次の土曜日におごと温泉駅で待ち合わせて、一駅上りの比叡山坂本駅までの切符を買い、一駅下りの堅田駅方面に向かう午前七時二十一分発の福井行ローカル電車に乗り込んだ。
こうして琵琶湖を一周する全線高架の湖西線から北陸本線、それに琵琶湖線(東海道本線)と乗り継いで、四時間余りかけて琵琶湖を一周する鉄道の旅が始まった。蓮と華は湖側の席に座った。松尾芭蕉の句でも有名な浮御堂のある堅田と琵琶湖の対岸を結ぶ琵琶湖大橋が見えて来た。日本最大の湖の最も狭くなる両岸を結んでいる。
湖西のみちは作家・司馬遼太郎の長編『街道をゆく』の第一巻という出発点になったところで、地元と渡来人の両文化に育まれた土地柄である。
堅田駅の次の小野駅周辺は、遣隋使の小野妹子、歌人の小野道風らが輩出した小野氏ゆかりの地。「小野」を冠する神社が複数ある。そこから、古代豪族・和邇(わに)氏の根拠地があったことに由来する和邇、蓬莱、志賀、比良と駅は続く。白砂青松が約四キロ続く近江舞子を超えると、万葉集にも登場する比良山系の連峰が迫り、トンネルも多くなって来た。
「この前、この近くで鹿が電車にはねられたんや。それで電車が長いこと停まった」蓮が言った。
「へえ! 高架やのに鹿はどないして線路まで入って来るんやろなあ」
「ほら、この辺トンネル多いやろ。トンネルの出入り口にある坂を上って線路に入るらしい」
「鹿か。堅田には鹿肉のカレーライスが食べられる店もあるしな」
湖の中に鳥居がある白髭(しらひげ)神社や幾つかの遊泳場を過ぎて、車窓に展開する風景を楽しみながら四十五分ほどすると、琵琶湖に浮かぶ三つの島のひとつ、竹生島に通う連絡船の基地・近江今津に着く。
「ここには琵琶湖産の鰻やら鯉やらを食わす店があるねん。うまいで」蓮が言う。
「へえ、今度わたしも行ってみたい」
「考えとくわ」蓮はちょっと生返事。
さらに二十分電車に揺られると、湖西線と北陸本線がつながる近江塩津の駅に滑り込んだ。
「同じホームで北陸線に乗り換えや。冬場やったら、かなりの雪が積もるで。ボクのこの辺くらいまでかな」長身の蓮は胸のあたりを指差した。
二人は北陸線が琵琶湖線につながる米原駅に向かって、今度も湖側の席に座り、紅葉の合間から時折顔を出す琵琶湖の秋を楽しんだ。
琵琶湖線に入ると、城と地元キャラ『ひこにゃん』で有名な彦根、織田信長ゆかりの城で石垣が残る安土城跡、日本で数多くの西洋建築を手がけたアメリカ人建築家ウィリアム・ヴォーリズが最初宣教師兼英語教師として赴任した近江八幡、『東海道中膝栗毛』の宿場町・草津を経て山科駅に至る。
『忠臣蔵』の大石内蔵助が討ち入り前に家族と隠棲した山科で湖西線に乗り換え、二人は最終目的地の比叡山坂本を目指した。
「もう少しで四時間も経つんやなあ。地元やけど、ホンマに小旅行した気がするわ」華が蓮を見つめながら言った。
「ホンマやなあ、華ちゃん。さあ弁当食べよか」
二人は北陸線の米原駅構内で停車三分の間に買った駅弁を頬張った。普通は塩焼きにするが、珍しく一夜干しにした琵琶湖産の鮎がご飯に載り、里芋の煮つけや卵焼きの入った駅弁だ。
「この鮎美味しい!」と華が言う。蓮は「うまいなあ」と応える。
午前十一時二十八分。電車は比叡山坂本駅に予定通り到着。朝に出発した一駅先のおごと温泉駅から四時間七分の二人だけの旅だった。
「この駅で降りたら琵琶湖一周しても百九十円ちゅうこっちゃ」
「何でそうなるん?」
「ちょっと待ってや」そう言って蓮はバッグからメモ帖を取り出し、ページをめくった。
「あった、あった。この前駅員さんに聞いてみたんや。あのな、大都市近郊区間相互発着制度ちゅう長ったらしい名前の制度があってな、大都市近郊区間内だけを普通乗車券か回数乗車券で利用したら実際に乗る経路にかかわらず、一番安うなる経路で計算した運賃で乗ることが出来るという制度なんやて。例えば、僕らが乗った今日の場合やと、おごと温泉駅から上りの比叡山坂本駅までの切符やったら、一駅だけ乗っておしまいにするか、あるいは僕らみたいにわざわざ下りに乗って琵琶湖を一周してから同じ比叡山坂本駅まで戻って来るか、どちらで目的の駅に行くのかは乗った人しだいというのを認めましょということや。ただなあ、滋賀県が観光客向けのPRで作った『琵琶湖環状線』て言うたら、一本でぐるっと回れる直通電車があると誤解される恐れがあるんで、JRはそういう表現を使わんらしい」
「そうなんや。けど、そんなことはどうでもええわ。わたしは今日半日、蓮とこうして二人だけで旅行を楽しめたんがすごく嬉しい!」
そう言って華は目をつぶり、蓮と唇を合わせるため、うんと背伸びをしようと脚を踏ん張った。
完
琵琶湖環状線 安江俊明 @tyty
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます