8-5-1

 じいちゃんのアパートの前に車を停めて貰って、ぼくは車を降りた。運転席の窓が開いて、母さんが話しかけてくる。

「母さんも行こうか? あんたがお世話になった、お礼もあるから」

 それは絶対に困る。ぼくは思いきり首を横に振った。

「二人だけで話がしたいんだ。お礼は、ちゃんと伝えるから」

 分かった。母さんがあっさり引き下がる。すぐに戻るよ。ぼくは母さんにそう告げて、重たい足を引きずってじいちゃんの部屋に向かった。

 部屋の扉の前に立ち、大きく深呼吸をする。じいちゃんはいるだろうか。いなければいないで構わない。いや、いない方が、いいかもしれない。

 複雑な気持ちのまま、わずかに震える指でインターホンを押す。軽い音の後、扉はあっけなく開いた。

「お前か。久しぶりだな」

 本当に久しぶり。だけどじいちゃんはそんな態度を示さない。いつも通り。でもぼくは、いつも通りじゃない。

「何か用か?」

「……うん。ちょっと、中入ってもいい?」

 玄関前でする話じゃない。だから提案。じいちゃんは思いつめたぼくの顔を見ると、「いいぞ」と先に中に入った。ぼくは無言で、その後をついていく。

 居間のちゃぶ台の近くにじいちゃんが座る。座らないのか?という顔でぼくを見る。だけどぼくは、キッチンと居間の境目ぐらいに立ち竦んだまま動けない。これ以上、じいちゃんの中に入り込むのが怖い。

「どうした?」

 もう、ここでいい。ここで言おう。ぼくは足を踏ん張り、背骨を伸ばした。

「じいちゃん、ぼく、引っ越すんだ」

 じいちゃんの目が少し険しくなる。ぼくは負けじと声を張り上げる。

「父さんと母さん、離婚することになった。それで母さんについて行く。だからこの街からいなくなる。じいちゃんとも、さよならだ」

 さよなら。寂しい言葉が蒸し暑い部屋に溶ける。背中にじんわり、汗がにじむ。

「……そうか。それは、寂しくなるな」

 しんみりと呟くじいちゃん。ぼくの胸が締め付けられる。本当に、いいのだろうか。じいちゃんはこんなにもぼくのことを思っていてくれているのに、ぼくのしようとしていることは、許されることなのだろうか。

「それで、いつ、さよならなんだ?」

「……今日」

 じいちゃんが、驚いたように大きく目を見開いた。

「今日?」

「うん。表に母さんの車が停まってる。これから、この街を出るところ」

「お前、そりゃあ、薄情だな。もし俺が今日、家にいなかったらどうするつもりだったんだ。会えないまま、さよならだぞ」

 そんなこと――分かっている。

 ぼくは唇を強く噛んだ。言わなくちゃいけない。だけど喉の奥に何か固いものが詰まっていて、声が出ない。そんなぼくの葛藤を知らないで、じいちゃんは優しく笑う。

「そんなに、さよならを言いたくなかったのか?」

 それもある。だけど、一番は違う。

「――会ったら、聞いちゃうと思ったから」

 喉の奥に詰まっていた何かが、取れた。堰を切ったように、言葉が溢れ出す。

「聞いたってどうしようもないのに、最後だって思ったら、もう会えないかもって思ったら、絶対に我慢できない。じいちゃんの花瓶を割っちゃう。だからじいちゃんとは、会わないままさよならしてもいいかなって思った。無理に本気の会話をしなくても、分かり合わなくてもいい。それも、一つの道だから」

 じいちゃんは動かない。じっと座って、ぼくの話を聞いている。

「でも、会ったから。今日、いたから。だから、聞くね」

 息を吸う。そして、今まで吸い込んだものを、溜め込んでいたものを、全てを吐き出すように肺を動かす。

「じいちゃん」

 絞り出した声は、まるで自分の声じゃないみたいに、ぼくの耳にじんと響いた。

「どうして、とらじろうを見殺しにしたの?」

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