8-5-2

 じいちゃんは、動かない。

 人形みたいに、置き物みたいに、動かない。ぼくも同じように、動かない。動いたら負ける。そう思った。本気の会話は、戦いは、もう始まっている。

 手のひらから汗がにじみ出る。握った拳の内側がぬめる。何もかも投げ捨てて、「なーんちゃって」と大きな声を上げたくなる。ごめん、驚いた? 全部、嘘だよ。冗談だよ。そんな風に終わらせたくなる気持ちを、ぼくはグッと抑え込む。

 やがてじいちゃんが、無表情のまま、ぼくに硬い声を放った。

「どうして分かった」

 認めた。だけど、それほど衝撃は受けない。間違いないと思っていたから。

「ぼくがとらじろうの死体を見つけた時、秘密基地の扉はちょっとだけ空いていた。ぼくとじいちゃんが、とらじろうが入れるようにって開けた分ぐらい」

 前の日と何も変わっていないように見えた秘密基地。だからぼくは、何の警戒もしないで玄関に飛び込んだ。

「でもあそこでとらじろうを殺した子は夢中だった。来た時のことを思い出して、部屋の扉を元に戻す余裕なんて無かったんだ。だからあの扉は、誰かがああいう風に直した。それが出来るのは、扉が元々はああだったって知ってるのは、ぼく以外にはじいちゃんしかいないんだ」

 じいちゃんは黙ってぼくを見る。続けろ。そんな態度。

「夜、ぼくが寝た後、見に行ったんでしょ。夕ご飯もあげてないし、心配だから。それで中に刺されたとらじろうがいて、だけどじいちゃんは何もしないで、そのまま家に帰って来たんだ。扉を元に戻したのは、家に入った時にどうなっていたか思い出せなかったからだよね。それでとらじろうを刺した犯人がずる賢く、パッと見て何も起こってないように見せるために現場を元に戻した可能性に賭けた」

 だけど賭けは外れた。とらじろうが殺された理由は悪意じゃなかった。でも、とらじろうが死んだ理由には、しっかり悪意が関わっている。

 じいちゃんの、不気味で得体の知れない悪意が。

「それに気づいた時、じいちゃんはどうして何もしないで帰って来たんだろうって考えた。最初に思いついた理由は『ぼくにとらじろうの死体を見せるため』だった。だけどあの日、走り出したぼくをじいちゃんは止めようとした。ぼくの目を塞いだりもした。だからそれは違う気がした。それで思ったんだ。もしかしてじいちゃんが夜に秘密基地に行った時、とらじろうはまだ生きていたんじゃないかって。それで生きていると都合が悪いから、死んでいて貰いたいから、助けないで帰って来たんじゃないかって」

 生きていると都合が悪い。死んでいて貰いたい。自分で口にした言葉に納得出来なくて、ぼくの中に激情が湧く。

「どうしてだよ」

 理由。それも予想がついている。だけど聞かずにはいられない。

「ずっと友達だったんでしょ。きっと、助けてって、鳴いてたんでしょ。ダメだったかもしれないけど、どうして助けてやらなかったんだよ。どうしてとらじろうに、死んでいて貰いたかったんだよ」

 無言。ぼくは部屋中の空気を揺らすように、大声で叫んだ。

「答えてよ!」

 自分の出した音にびっくりしたみたいに、ぼくの肩がぶるぶると震える。じいちゃんが、重たい口を開いた。

「猫が殺されれば、事件になる」

 猫。とらじろうじゃなくて、猫。

「そうなれば家は壊しにくくなる。子どもたちが大切にしていた猫で、墓もそこに作ったとなれば、尚更だ。そうして家の解体が引き伸ばされれば、いつかはゴミ処理場の建設が中止になって、あの家は残るかもしれない。そう思った」

 予想通りの答え。そんなことで。ぼくはそう思う。だけどじいちゃんにとってあの家は、息子との思い出は、「そんなこと」ではない。諦める時だって、血を吐くような思いで諦めようとした。そこに、ぼくが希望を与えてしまった。

「あの女の子が『時間は最強』だと言っていたらしいな」

 佐伯さんの言葉。それをじいちゃんに伝えたぼくの言葉。その両方をぼくは思い出す。

「あの言葉は間違っている。時間は最強じゃない。ただ、最強でなくてはならないだけなんだ。そうでないと人はまともに生きられない。忘れることを忘れてしまったら、人は前に進めない」

 じいちゃんが、ゆるゆると力なく首を横に振った。

「俺は、時間に勝ってしまった。だからまともに前に進めなかった。思い出に縋りつく気持ちを抑えきれなかったんだ。情けないことをしたと、自分でも思っている」

 じいちゃんがうな垂れる。反省しているように、後悔しているように。全て認めた。全て明かした。だからこれで終わりにしてくれ。そう懇願するみたいに。

 だけどぼくは、それを許さない。

「違う」

 じいちゃんの丸まった背中が、大きく上下した。そしてゆっくり顔を上げるじいちゃんに向かって、ぼくは渾身の言葉を放つ。

「じいちゃんは時間に勝ったんじゃない。戦ってないんだ」

 じいちゃんの瞳が大きく揺らいだ。初めての動揺。そこまで分かっているのか。そんな言葉が聞こえてきそうな表情。

 そうだよ。分かってるよ、じいちゃん。ぼくは、さっき言ったはずだ。

 じいちゃんの花瓶を割っちゃう、って。

「じいちゃんの子どもは、死んじゃったんだよね?」

 問いかける。じいちゃんは、顔を真下に向ける。

「交通事故にあって、じいちゃんの目の前で、命を落としたんだよね。そうならそうだって言ってよ。俺の息子は死んだって、じいちゃんの口から言って」

 じいちゃんは答えない。俯いて口を固く引き絞り、言葉を発する気配がない。

「――やっぱり、そうなんだね」

 ぼくはじいちゃんに、寂しく笑いかけた。

「じいちゃんは、自分の子どもが死んだことを認めてないんだ」

 じいちゃんの花瓶は、まだ割れていなかった。

 ぼくはもうとっくに割れていると思っていた。だって、子どもは死んでいるのだ。どうしようもないぐらいに破片になっている。そうとしか思えない。

 だけどじいちゃんは認めていなかった。もう誰が見ても粉々なのに、それでもまだ割れていないと、抵抗を続けていた。

「認めてないから『遠くに行った』なんて言い方をする。『死んじゃったの?』って聞いても頷かない。家のどこにも、お仏壇がない。高校の先生なのに、中学校のジャージを持ってたのもそうでしょ。あれ、子どもに買ったんだよね。中学校に入ったら、ジャージ、必要だから」

 死んだ息子のために中学校のジャージを買う。その時、じいちゃんはどういう気持ちだったのだろう。「お前もいよいよ中学生か」なんて、笑ったりしていたのだろうか。

 安藤さんの娘さんが語ったエピソード。五歳で死んだじいちゃんの息子が高校生になっていた話。娘さんは自分を励ますために嘘をついたと思ったようだけど、違う。じいちゃんは本気だった。じいちゃんにしか見えない息子と、じいちゃんにしか分からない思い出を築いていたのだ。

「どうして?」

 理由なんてない。あればそんなことにならない。分かっているのに、言葉が止まらない。

「どうして、認められないの?」

 じいちゃんの全身がわなわなと震えはじめる。噴火前の火山。そんなもの、見たことないけれど、そんな印象を受けた。

 そしてその火山は、すぐに爆発した。

「認められるか」

 芯の通ったしっかりした声。錯乱しているわけじゃない。だからこそ、苦しい。

「大切な宝物だったんだ。これから、ずっと、一生、何があっても大事にして行こうと思っていたんだ。それが目の前で、あんな、あんなこと――」

 じいちゃんが立ち上がった。そして大きく手を振り払いながら、たぶん、ぼくにじゃなくて、神さまに向かって叫ぶ。

「認められるか! 認めてたまるか!」

 キッとじいちゃんがぼくを睨んだ。こんな激情を剥き出しにしたじいちゃんは今まで一回しか見たことがない。隆聖と話をしたいと頼んだ時、世の中には向き合ってもどうしようもないこともあると言った、あの一回だけ。

「中学のジャージだけじゃない。高校のジャージも、中高の制服も全部持っている。社会人になる年にはスーツを買った。毎年、誕生日にはお祝いをしている。今、あいつが何歳か、聞かれればすぐに答えられる」

 違う。じいちゃんの息子は何歳にもなってない。五歳だ。五歳のままだ。しなくちゃいけないのは、誕生日のお祝いじゃなくて、命日のお墓参りなんだ。

「あいつは死んでない。俺しか会えない、遠い場所に行っただけだ。それの何が悪い。そう思って、思い出を積み重ねて生きることの、どこが悪いって言うんだ」

 じいちゃんが問う。ぼくに。神さまに。自分自身に。

「俺の――俺の人生だろう。俺が一番やりたい生き方をして、何が悪いんだ!」

 再び、じいちゃんが慟哭する。理不尽で、遣る瀬無くて、何にぶつけていいか分からない怒りを、ぼくにぶつける。ぼくは目に薄い涙の膜を張りながら、だけどそれを溢すことだけは必死に堪える。この泣き虫は、きっと、悪い泣き虫。

 ――じいちゃん。

 ぼくは、思う。

 いっぱい、じいちゃんは色々なものをぼくにくれたね。形のあるものも、形のないものも、いっぱい。じいちゃんがいなかったらぼくは、どうなっていたか分からない。じいちゃんがぼくを大事にしてくれたから、ぼくはそれを無駄にしないで生きようって思えるようになったんだ。本当に、心から、ありがとう。

 僕も、思う。

 縁もゆかりもない近所の小学生に、じいちゃんは本当に良くしてくれた。今の僕があるのは間違いなくじいちゃんのおかげだ。父さんと互いに背を向け続け、母さんのことをどんどん嫌いになり、やがては自分自身も嫌いになっていく。そういう未来が、大げさではなく確かに存在した。じいちゃんには、どれだけ感謝しても足りない。

 だけど、

 それでも、

「ぼくは――」

 僕は――


「あなたみたいには、ならない」


 世界の底が、震えた。

 真夏の湿った空気が声を溶かして、揺蕩って、地球の核まで届いた。水の張った水槽の底をとんと叩いた時のように、世界がほんのわずか、誰にも見えないぐらい、ゆらりと揺れた。その揺らぎを感じ取れたのは、ぼくと――

 身体をぐらりとよろめかせた、じいちゃんだけ。

 よろよろと、じいちゃんの足元が覚束なくなった。そしてほんの少しフラフラ歩いた後、崩れ落ちるようにストンとその場に腰を落とす。両足を投げだして、肩を落とし、頭を下げ、抜け殻みたいになって、はははと乾いた笑い声を上げる。

 間違いない。

 花瓶が――割れた。

「そりゃあ、そうだ。当たり前だ。今の俺は、そういう大人だ」

 感情の無い空っぽの声。自分の底が抜けて、何もなくなってしまった人の声。

「どうして、気づかなかったんだろうな。仕事で先生なんかやってて、変に尊敬されたのが悪かったのかな。何が『大人はみんな子どもの先生』だ。ふざけやがって」

 じいちゃんが憎々しげに口元を歪める。そしてぼんやりとした目で、ぼくを見上げた。

「俺みたいにならないと言ったな」

 ぼくは、ほんの数ミリだけ、頷くように首を前に倒す。それが見えたのか、見えていなかったのかは分からない。すぐにじいちゃんはまた俯き、語り出した。

「それがいい。そうしなさい。自分の人生だ。自分が一番なのは悪くない。だけど自分のことだけを考えて生きるようになったら、人間はおしまいだ」

 そしてじいちゃんは、動かなくなる。焦点の合わない目で、投げされた自分の足先を見つめたまま。ぼくはポケットからプテラノドンのキーホルダーを取り出し、そこから秘密基地の鍵を外して、足元の畳の上に置いた。

「秘密基地の鍵、ここに置いて行きます」

 じいちゃんは答えない。ぼくの方を向くことすらしない。ぼくは深々と頭を下げて、お礼を告げた。

「今まで本当にありがとうございました。母さんも、ぼくの相手をしてくれてありがとうと、お礼を言っていました」

 頭を上げる。重たい声で、最後の言葉を告げる。

「さよなら」

 返事はない。くるりと踵を返して玄関に向かう。そして外に出て玄関の扉を閉めようとした時、閉じかかった扉のわずかな隙間から、か細い声が届いた。

 じゃあな。

 パタン。扉が閉まる。ぼくは駆け足で母さんの待つ車に向かった。

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