8-4
七月の終わり。いよいよ、ぼくが街を出て行く日がやって来た。
もうほとんど家にぼくと母さんの荷物は残っていなかった。朝起きて、いつもの半袖半ズボンに着替えて、脱いだパジャマを衣装ケースに入れる。衣装ケースは車のトランクに積む。車は、母さんのものになった。
出て行く準備が全部整った後、昼ご飯を近所のとんかつ屋さんに三人で食べに行った。ぼくの希望だ。最後にどこに行きたいか聞かれて、思いついたのがそこだった。肉厚で衣の柔らかいヒレカツはとてもおいしくて、これが最後なのが勿体ないとつい思ってしまう。不味い店に行って心置きなく去った方が良かったかもしれない。でもそれはそれで、悔いが残りそうだ。
とんかつ屋さんに行った後はマンションの前に戻る。そして父さんだけが降りる。これで本当に、本当に、最後。
「なあ」
父さんが窓の外から後部座席のぼくに声をかける。大きく、両手を広げながら。
「最後に、ギュッてしていいか?」
ぼくは母さんを見る。母さんは無言で頷く。ぼくは車の扉を開けて地面に降り立ち、父さんの前まで歩く。父さんは屈みながら、ぼくの背中に腕を回して、苦しいぐらいに力を入れて抱きしめて来た。
「ごめんな。父さん、悪い父さんだったな」
そんなことないよ――と言う気にはなれない。
面倒だとすぐ家に帰らなくなる。自分の実家が母さんをいじめても何のフォローもしない。少し話せば解決することも黙るからややこしくする。挙句の果てに若い女の人と浮気して好き放題やる。父さんは間違いなく、お父さんランクを付けるならかなり下の方だ。そんなこと、ぼくにだって簡単に分かる。
だけど――
「あのね、父さん。一つだけ、言っておきたいことがあるんだ」
「何だ?」
ぼくは父さんの胸に埋めていた顔を上げた。そして無精ひげの一本一本がよく見えるぐらいに近くにある父さんの顔に向かって、にっこりと笑いかける。
「ぼくは、プテラノドンより、父さんが好きだよ」
父さんがきょとんとする。そして不思議そうに「プテラノドン?」と聞き返す。ああ、やっぱり。そんなものだと思ってはいたけれど、ぼくの気にし過ぎだと分かってはいたけれど、予想通りに忘れていた。
結局、ぼくと父さんは似たもの同士なのだ。気になるなら聞けばいいのに聞けない。そして話をややこしくする。そんな不器用な男たち。言いたいことはバンバン言ってしまう母さんは、見ていてやきもきしたことだろう。
父さんがぼくを離した。ぼくはポケットからプテラノドンのキーホルダーを取り出して、家の鍵を外す。プテラノドンの話をするまですっかり忘れていた。危うく持って行ってしまうところだった。
「家の鍵、返すね」
ぼくは鍵の頭を持って父さんに差し出した。父さんは少し躊躇ってから、その鍵を受け取り、ジーパンのポケットにしまう。これでもうあの家は、本当にぼくの家じゃない。
ぼくは車の中に戻った。今度は後部座席じゃなくて、ついさっきまで父さんが座っていた助手席。父さんが、運転席の母さんに最後の言葉をかけた。
「じゃあ、元気でな」
「ええ。貴方こそ」
「言えた義理じゃないけど、俺のことなんか忘れていいからな。新しい旦那でも捕まえて、楽しくやれよ」
「気が向いたらね。すぐにそんな気分には、なれないと思うけど」
「そう落ち込むなよ。今時、離婚なんか、大したことでもないさ」
さらりと、本当にさらりと、父さんはそう言った。特に構えることなく、何に注意することもなく、軽く笑いながら。お互い前向きに生きて行こうぜ。そんな感じ。その発言が地雷を踏むかもしれないなんて、一切考えていない感じ。
だけど、その瞬間、空気が変わった。
ぼくから見て変わったのは、父さんの表情。だけど空気を変えたのは、間違いなくぼくに後頭部を向けている母さん。だって父さんは明らかに怯えている。都合が悪いから黙る時の顔をしている。
穏やかで切ない別れの場面が、ロードムービーのラストシーンのようだった雰囲気が、いきなりバトルアクションのクライマックスのように緊迫する。無声映画の静寂から、ただ音量をミュートにしただけの沈黙へ。ぼくは、ごくりと唾を飲んだ。
「……そうね。貴方の言う通りだと思う」
上滑りする平坦な声。母さんが本気で怒っている時の声。ぼくはこの声の母さんが一番怖い。怒鳴られるより怖い。
「今時、離婚は珍しくない。再婚だってやろうと思えばきっと出来る。だけどね――」
母さんがぼくをチラリと見た。そしてぼくの頭にポンと左手を乗せながら、父さんに向かって言い放つ。
「その新しい旦那は、この子の昔を、何も知らない」
頭に乗せられた母さんの手に、ほんの少し、力が入ったのが分かった。
「初めて喋った言葉が、なんでか分からないけど『ハム』だったことを知らない。三歳の時、サンタさんへの手紙に『いつもありがとう』しか書いてなくて、何が欲しいのか分からなかったことを知らない。幼稚園の年中の時、ビデオ屋でいなくなったと思ったら、アダルトビデオのコーナーにいたことを知らない。小学校一年生の時、パジャマのまま学校まで行って帰って来て、上だけ着替えてもう一回出て行こうとしたことを知らない。何にも知らないの。だからもっとずっと先の未来、家族みんなで昔を懐かしみながら、大きくなったこの子に『二人とも恥ずかしいから止めろよ』って言われることは絶対にないの。貴方と私がしたのは、そういう未来を捨てたってことなの」
未来を捨てた。母さんが、ボロボロの花瓶を、それでも割れなかった理由。
僕がその手の本を読むと、だいたい「子どもに花瓶を割らせてはいけません」という類のことが書いてある。子どもを巻き込まない。子どもに嘘をつかない。子どもには責任を感じさせない。どうしても花瓶を割りたくなったなら、そうしましょう。
思い返せば、母さんも色々と間違っていた。変に粘ったせいでたっぷり巻き込まれた。汚いゴタゴタを隠すための嘘もだいぶつかれた。責任を一人で感じ続けていたのは、今更、言うまでもない。
でも――
それでもぼくは、母さんが花瓶を割れなかった理由を聞いた時、ぼくが僕になってからのことを考えていると知った時、嬉しかった。
「今が辛いから未来をゼロにするのは、そんなに軽い話じゃない。時代がどれだけ変わっても、それはきっと一緒のはず」
母さんがぼくの頭を撫でた。命を確かめるような手つき。
「だから『大したことない』とか、貴方が簡単に言わないで。それを言っていいのは、この子だけ」
父さんが俯いた。ごめん。消え入りそうな声で呟く。そして父さんは、下を向いた顔から少し上目づかいに視線を送りつつ、母さんに尋ねる。
「――やり直したいのか?」
沈黙。やがて母さんがふうと息を吐いた。疲れたように背中を運転席の背もたれに預ける。その表情が、ぼくにも見えるようになる。
全て吹っ切れた、ぼくの大好きな明るい笑顔。
「まさか」
夏の陽気みたいに朗らかな声。父さんが目に見えてしょげかえる。ああ、フラれた男ってこうなるんだ。良かった、ぼく、フラれないで。
「じゃあ、本当に、元気で」
「……おう。じゃあな」
車の窓が閉まる。父さんと母さんの間に見えない壁が出来る。父さんはずっと母さんを見つめ続けている。だけど母さんは前を向いて、車を走らせる。バックミラーに映る父さんが、どんどん、どんどん、小さくなる。
――さようなら、父さん。
すぐに、父さんの姿は見えなくなった。ぼくはポケットをまさぐって、プテラノドンのキーホルダーを取り出して目の前に掲げる。残り一つになった鍵が、フロントガラスから飛び込む光を反射してキラリと輝く。
「――母さん」
ぼくはキーホルダーごと、秘密基地の鍵を強く握りしめた。
「おばあちゃんの家に行く前に、寄って欲しい場所があるんだ」
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