8-3
終業式の日、クラスのみんなから寄せ書きを貰った。
特別に仲良くしているやつなんてほとんどいないのに、貰った寄せ書きを読んでいるとじんわり来た。ちょっとした思い出を拾ったり、励ましてくれたり、一つ一つのコメントが嬉しかった。
あんまり仲の良い友達は出来なかったけれど、心を閉ざしていたのはぼくの方だったんだな。次はもっと頑張ろう。ぼくは新天地への決意を胸に、心を入れ替える。ぼくを変えたその寄せ書きは、今でも、実家の僕の部屋に飾られている。
家に帰ると、母さんが昼ご飯を作っていた。離婚が決まってから母さん仕事を辞めて、おばあちゃんの家に荷物を送ったり、着々と引っ越す準備を進めている。たまに落ち込んでいるように見えることもあるけれど、基本的には前よりもずっと明るい。色々と難しいところだけど、とりあえずは花瓶を割って良かったと思える感じだ。
昼ご飯はチャーハンだった。ちなみにぼくの家のチャーハンは茶色い。醤油炒め飯。僕の記憶では、ぼくがそれを異常だと気づくまで、あと数年かかる。
「今日、女の子と天体観測なんでしょ。夕ご飯はどうするの?」
食事中、母さんがぼくに尋ねる。「女の子」は「友達」でいいと思う。ぼくはそんなことを考える。母さんにとっては「天体観測」よりも重要なワードなんだけど。
「早めに食べて、明るいうちに行きたいな。準備とかあるから」
「分かった。じゃあ軽めにしておにぎりを作ってあげる。女の子にも分けてあげてね」
やけに楽しそうな母さん。だから女の子はどうでもいいでしょ。そう思いつつも言わないぼくは、それなりに賢い。言ったら確実により面倒なことになっていた。
昼ご飯を食べた後はしばらくゴロゴロ。そして予定通り、早めに夕ご飯を食べて、おにぎりを持って、明るいうちに秘密基地に向かう。家を出る時も母さんは「女の子によろしくね」と言って来た。ここまで来ると、もう苛立ちも起きない。
秘密基地に到着したぼくは、とりあえずいつものように雨戸を開けた。そして望遠鏡の入った袋を家に置いてから、とらじろうのお墓に向かう。
持ってきたお線香にマッチで火をつけて、お墓の前に備えた。両手を合わせて祈り、天国のとらじろうに言葉を送る。
――とらじろう。ぼく、ここを離れることになったよ。
お線香のツンとした匂い。想いを溶かして空に運んでくれる、煙の匂い。
――ありがとう。短い間だったけど、楽しかった。さよなら。
目を開く。瞼が重い。軽く涙が滲んでいる。隆聖の言う通り、確かにぼくはちょっと泣き虫かもしれない。でもこれはいい泣き虫だと思うから、いいことにしよう。
立ち上がって、とらじろうの墓石を見下ろす。ぼくが備えたお線香以外に真新しいお供え物は見当たらない。じいちゃんは全然来てないのかな。来たくないのかな。その気持ちは、分かるけれど。
家の中に望遠鏡を取りに戻る。とらじろうの血が染み付いた畳が目に入って、つい気が重くなる。そしてそのすぐ横の畳にある焼け焦げた跡が、さらにぼくの気を滅入らせる。
死んでしまったじいちゃんの子どもがつけた焦げ跡。じいちゃんの大切な思い出。ぼくがいなくなった後、この家はどうなるのだろう。とらじろうがいなくなって、ぼくもいなくなって、残るのはじいちゃん一人だ。それでもじいちゃんは、やっぱりこの家を守ろうとするのだろうか。ボロボロの家を壊させないように、頑張るのだろうか。
ぼくの思う通りなら、じいちゃんのこの家に対する想いは、死んでしまった子どもに対する想いは、ぼくにはとても想像が出来ないぐらいに重い。ぼくが今まで生きてきた時間よりもずっと長い時間、やりきれない気持ちを積み重ねてきたのだ。もうきっと、元々がどんな感情だったのか、分からないぐらいに積もり積もっている。
――じいちゃん。
心の中で、その場にいないじいちゃんに呼びかける。父さんと母さんの離婚が決まってから、この街からいなくなることが決定してから、ぼくはまだじいちゃんに会っていない。あれだけお世話になったのだ。会わないでいきなりいなくなるわけにはいかない。ちゃんと会って、さよならをして、それから街を出なくてはいけない。
でも――
でも、きっと会ったら、我慢できない。
グッと拳を握る。とりあえず今は天体観測のことを考えよう。ぼくはそう割り切って、割り切ることにして、天体望遠鏡のセットを始めた。
◆
佐伯さんは、辺りがすっかり暗くなってから現れた。まずは天体望遠鏡抜きで星空を見たいと言うので、ぼくは懐中電灯と星座早見盤を片手にそれに付き合う。石田と違って根気よく話を聞いてくれたので、代表的な夏の星座は示して、解説することが出来た。
佐伯さんはさそり座だったから、さそり座については特に詳しく解説した。さそりにはオリオンを殺した神話があって、だから冬のオリオン座が夏のさそり座が出る頃には隠れてしまうんだと教えてあげると、とても面白がっていた。
「望遠鏡、使ってみようよ」
やがて佐伯さんがはしゃいだ様子で望遠鏡の元に駆け寄る。だけどレンズは覗かないで、ぼくの到着を待っている。何か面白いもの探して。そんな態度。
ぼくは望遠鏡を覗き、はくちょう座のアルビレオが見えるようにセットした。星座盤を使って「今、あの星を見てるよ」と教えてあげた後、佐伯さんにレンズを覗かせる。すると佐伯さんの大きな歓声が、夜をビリビリと震わせた。
「何これ! 赤い星と青い星が並んでる!」
「重星って言うんだ。二つの星が近くに並んでるから肉眼だと一つにしか見えない。でも望遠鏡だと二つに見える。はくちょう座のアルビレオは全部の星の中で一番綺麗な二重星って言われてるんだよ。ぼくもさっき初めて見て、感動した」
「初めて? あ、そうか、別に前から望遠鏡使ってたわけじゃないんだっけ」
「うん。望遠鏡を使った天体観測は二回目」
「じゃあ、わたしとおんなじだ。でもその割には詳しいね。なんで?」
佐伯さんを楽しませるためにいっぱい予習したんだよ。だって――
「好きだから」
「え?」
「星が」
「ああ、なるほど。そうだよね」
少し動揺した様子の佐伯さん。ちょっと悪戯心を出してみたけれど、もしかしてこれ、向こうも意識してるんじゃないだろうか。期待大だ。
しばらく望遠鏡を使って天体観測をした後、夜食を食べることにした。秘密基地の縁側に座って、母さんが作ってくれたおにぎりを佐伯さんと分け合う。たまに夜の底をくすぐるゆったりした風が吹いて、佐伯さんの匂いがふんわりとぼくの鼻に届く。シャツの下がじっとりと汗ばんでいるのは、きっと夏の暑さのせいだけじゃない。
――思い出セックスまでやっちゃえよ。
隆聖の言葉が頭の中で回る。固くなっているのが分かる。ああ、もう、ぼくはそんなことする気ないのに、隆聖があんなこと言うからだ。ばかやろう。
「本当にここの星空、綺麗だよね。ずっと見ていたい」
夜空を見上げながら佐伯さんがうっとりと呟く。佐伯さんも綺麗だよ。そんな浮ついた言葉が頭に浮かぶ。
「満月じゃなければ、もっと綺麗なのかな」
「そうだね。満月は満月で綺麗だけど、月の光が弱ければ、天の川も見られたと思う」
「あの星がいっぱいあるところが天の川じゃないの?」
「そうなんだけど、暗くて綺麗なところだと、もっとぼんやりした雲みたいな光が見えるんだ。本とかで見たことない?」
「ある。そっか、星そのものじゃなくて、あれが天の川なんだ。あれ、何なの?」
「銀河」
「銀河?」
「そう。ぼくたちのいる銀河。それを中から見てるんだ」
佐伯さんが首を傾げる。プラネタリウムで教わった話、どう説明しよう。
「えっと、宇宙には銀河っていう塊があって、星とかガスがいっぱい集まって円盤みたいな形をしてるんだ。それは知ってる?」
「星がいっぱいで銀河なのは知ってる。円盤なんだ」
「そう。真ん中が膨らんだ円盤。ぼくたちの住んでいる地球も銀河の中にあって、地球はその銀河の端っこの方にいるんだ。それで、端っこから内側を見ると、中から自分たちのいる銀河が観察できるでしょ。それが天の川」
ぼくは佐伯さんをチラリと見る。佐伯さんはなんだか難しそうな顔。――ダメだ。通じてない。
「どこまで分かった?」
「星がいっぱい集まると銀河で、銀河は円盤で、地球も銀河の中にあるってとこまで」
「じゃああと一歩だよ。そうだな……学校の朝礼で一番前に並ぶ人の気持ちになって」
「うん」
「前を見てると校長先生しか見えないでしょ?」
「うん」
「後ろ見ると人がいっぱい見えるでしょ?」
「うん」
「それだよ。天の川はそんな感じ。集団の中から集団を見てる」
「ああ、なるほど! 分かった!」
佐伯さんがぽんと手を叩く。理解してくれたようだ。良かった。
「じゃあ天の川は、同じ銀河の仲間なんだ」
「肉眼で見える星はだいたい同じ銀河の仲間だよ。アンドロメダ銀河とかは違うけど」
「それは、今は見えないの?」
「ちょっと難しいかな。もっと性能がいい望遠鏡なら今でも見えそうな銀河はあるんだけど、この望遠鏡は銀河とか星雲とか、綺麗に見られるほどじゃないから……」
「ふーん。でもすごい良く知ってるね。尊敬しちゃう」
勉強したからね。君のために。だって――
「そんなに色々教えてくれるなんて、本当に好きなんだね」
月明かりの中、佐伯さんがぼくに向かって優しく微笑む。まるで心を読まれたような台詞。佐伯さんに聞こえてしまうんじゃないかと思えるぐらい、ぼくの鼓動が高鳴る。
そしてすぐに、その優しい微笑みは、悪戯っぽい含み笑いに変わった。
「星が」
やり返された。ちくちょう。ぼくは悔しがり、だけどすぐに気づいた。同じ手でやり返されたということは、つまり――
佐伯さんも、やっぱり意識していたということ。
気づいた瞬間、世界から佐伯さんと自分以外が消えた。油絵の中に入ったみたいに、静かで、動かない、だけど鮮やかな空間。そして、凍ってしまった時間を動かすように、ぼくはその名前を呼ぶ。
「佐伯さん」
これで最後だけど、言いたいことがあるんだ。
まるっきり無駄かもしれないけど、ただぼくが伝えたいだけだから気にしないで。
返事は要らない。佐伯さんは、ただ聞いていてくれればいい。
あのね――
――違う。そうじゃない。丸ごとだ。丸ごとそのままだ。
「好きだよ」
世界に音が帰って来る。心臓の音。だけどその音は耳からは聞こえない。骨で、筋肉で、内臓で、全身で聞く血液の流れの音。
身体が熱い。口の中がカラカラに乾く。目の裏側がパチパチと痺れる。
あと少しでもこのままが続いたら死んでしまう。そのあと少しが永久に引き伸ばされる感覚。何が返事は要らないだ。ばかじゃないか、ぼくは。少し前の自分を全力で罵倒しながら、ぼくはじっと、佐伯さんの言葉を待ち続ける。
佐伯さんが、柔らかい唇をゆっくりと開いた。
「ありがとう」
それは、答えではない。続きを待つぼく。続ける佐伯さん。
「わたしね、やっぱり、時間は最強だと思うの」
佐伯さんが自分の胸の上にそっと手を載せる。自分の存在を確かめるみたいに。
「死ぬわけじゃない、もう会えないわけじゃないって言ってくれたけど、それでも、どうしても、今日は最後だと思う。名古屋って遠いもん。会わなくなって、気持ちも薄れて行って、お互いに全然違う人を好きになって、そうやって生きて行くことになるんだと思う。きっと、それが現実」
それが現実。正しくて強い言葉。ぼくの胸に痛みが走る。そして正しくて強い佐伯さんは、真っ直ぐに、逃げないで、その現実と向き合いながら回答を出す。
「だから、忘れない」
澄んだ声が森の澄んだ空気を揺らした。星が、月が、にわかに輝きを増す。
「絶対に、何があっても、忘れない。このまま離れて、それぞれの人生を生きて、やり取りもなくなって、それでもわたしは、絶対に忘れない。だからそっちは、わたしが忘れてないことを忘れないで。なんだか放っておけない人がいたこと、その人と一緒に天体観測したこと、その人がわたしのことを好きだって言ってくれたこと――」
佐伯さんがぼくに向かって、はにかむように笑いかけた。
「そんな人を、わたしも好きになったこと――」
これが、答え。ざあっと、夜風が草木を順番に倒す。止まっていた時間が、雪崩みたいに動き始める。
「絶対に、絶対に、忘れないから」
佐伯さんが右手を差し出す。月光に照らされた細長くて白い指。作り物みたいに、確かな現実。
「ぼくも――」
ぼくは佐伯さんの手を握った。無関係の星と星とが繋がって星座になる。意味が生まれる。それを、体現するみたいに。
「ぼくも、絶対に、忘れない」
約束は守られる。ぼくは忘れない。僕が言うのだから、絶対に間違いない。
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