8-2
その日の放課後、ぼくは石田のいる施設に向かった。
通されたのは前と同じ、テーブルとソファがある絨毯の部屋。だけど今度はケースワーカーのお姉さんじゃなくて、石田がちゃんと現れた。石田はぼくを見るなり、照れくさそうにしながら「よ」と手を挙げて、ぼくの向かいに座った。
「何しに来たの?」
「伝えなきゃいけないことがあってさ。ぼく、転校することになった」
「転校?」
「うん。父さんと母さんが離婚することになって、ぼくは母さんの方に行く」
あまり重たくならないように、さらっと言葉を流す。石田は「そっか」としんみり呟くと、湿った声で続けた。
「お前も色々、大変だな」
色々大変。間違いではないと思う。だけど――
「ぼくなんて、石田に比べたら大したことないよ」
心の底からそう思った。だからそう口にした。ぼくには母さんがいる。家族にいじめられたわけでもない。ぼくなんかが大変なんて口にしたら、本当に大変な石田に失礼だ。そういう風に石田を気づかうつもりで。
だけど石田はぼくの言葉を聞いて、ムッと眉間にしわを寄せた。
「お前さ、そういうのやめろよ」
――しまった。また「かわいそう」を押し付けてしまった。あんなに反省したのに。
「ごめん。同情されるのイヤだよね。無神経だった」
ぼくは頭を下げた。すると石田は、予想外の反応。
「それは別にいいよ。おれが言いたいのはそこじゃなくて、自分とおれを比較して考えるのを止めろってこと」
ぼくは頭を上げた。逆に石田は、顔を伏せる。
「おれ、母ちゃんに『お前は恵まれてる』って言われてたんだ」
衝撃的な告白に、ぼくの脳みそがぐらりと揺れた。あんな目にあっていた石田が恵まれている。しかもそれを、そういう目に合わせた張本人が言う。
「貧しい国の子どもたちは食べるものがなくて餓死したり、戦争に巻き込まれて死んだりしてる。お前は生きているだけ幸福だ。ありがたく思え。そんなこと、ずっと言われ続けてた。だからおれもそうなのかなって、なんとなく思ってた」
暗くて、重たくて、耳を塞ぎたくなる話。ぼくの表情が沈む。だけど石田はそんなぼくの反応とは真逆に、パッと顔を上げ、瞳を輝かせた。
「だけど、ここの施設の人たちが言うんだ。それは違うって」
石田は、どこか吹っ切れたように、明るく語る。
「ここ、そういう施設だから、おれよりずっと小さいのに、おれより辛い目にあってる子もいるんだ。そういう子を見ると、おれは辛いとか言えないなって思う。だけど違うんだって。自分より辛いやつがいるから、自分は辛いなんて言っちゃいけない。そんなことはないんだってさ」
辛いときは辛い。それでいい。じいちゃんの言葉を、ぼくは思い出す。
「だからおれは、誰かと自分を比較するのは止めた。自分を一番、大事にすることにした」
自分を一番、大事にする。
少し前、ぼくはじいちゃんの家で泣いた。自分がイヤだから石田の家族を壊して、それを許して貰うように泣いた。そんな自分がイヤで、さらに泣いた。ぼくはぼくが一番大事なんだ。そんなことを考えて、泣き続けた。
でもそうか。自分が一番でいいのか。なんかだいぶ、気が楽になった。
「だからお前もさ、おれと比較するの止めろよ。辛くて泣きたいなら、余計なこと考えないで泣けばいいんだ」
頼もしすぎる台詞に、ぼくは感動するより前に戸惑った。すると石田はそんなぼくの反応に気づいて、ポリポリと頭を掻く。
「ま、今の台詞は、施設の人に言われたこと、丸パクリなんだけど」
なんだ。でも安心した。石田にそういうことを言ってくれる人がいて。
「分かったよ。これからは、泣きたくなったら泣く」
「そうしろよ。でもさ、泣きたくなったら泣く覚悟が出来たやつは、強いからあんまり泣かないんだって。ムジュンしてるよな」
石田が朗らかに笑った。そしてそのまま、勢いづいてぼくを挑発する。
「まあお前は泣き虫だから、すぐ泣くと思うけど」
泣き虫。今度はぼくが、ムッと眉をひそめる番。
「泣き虫ってどういうことだよ」
「そのまんまだよ。お前、泣き虫じゃん。すぐ涙目になるもん」
「お前だって、あの家でボロボロ泣きまくってただろ」
「それはお互い様だろ。あの日もお前の方が泣いてたし」
「はあ? どう考えてもお前の方が泣いてただろ!」
「ねーよ! お前の方が泣いてた!」
平行線の問答が始まる。あの時はお互いに涙でぐちゃぐちゃだったから、もうどっちがどうとか言う話ではないのに、ギャーギャーお互いを非難する。やがて石田の方が「もうどうでもいいや」と言い争いを切り上げて、話を元に戻した。
「そんで、転校はいつからなんだ?」
泣き虫と言われた身としてはどうでもよくない。だけど、そこで不毛な争いを蒸し返すほど、ぼくも愚かじゃない。
「二学期から。夏休み中に移動。新しい住所、書いてきたから後で渡す」
「分かった。ありがと」
「そっちは? いつまでここにいるの?」
「さあ。なんか、おれが素直になって扱いに困ってるみたい」
「素直なのに困るの?」
「うん。ほら、神戸の小学生が殺された事件の犯人、捕まっただろ。中学生。あれがおれと同じことしてたから、警戒されてるんだ。でも素直になったおれを認めてやりたい気持ちもあるし、どうしよう、みたいな」
「同じこと?」
ぼくは悪意なく尋ねた。石田は、辛そうに唇を噛む。
「……猫だよ。猫殺し」
ぼくはハッと口に手を当てた。そう言えば、ニュースであの中学生は猫を殺していたと言っていた。ニュースで見た時は石田ととらじろうのことを思い出したのに、いざ目の前にした石田があまりにも普通だったから、すっかり忘れてしまっていた。
石田は目に見えて落ち込んでいた。ぼくはもう過去にしたのに、石田は過去に出来ていない。それがありありと分かる。
――とらじろう、ごめん。ちょっと擁護する。
「でも、お前は、やりたくてやったんじゃない」
「関係ないよ。周りから見れば同じだ」
「そんなことない。佐伯さんに誓ったみたいにちゃんと生きれば、今は分かってくれなくても、みんなそのうち分かってくれる」
ぼくは、ほとんど無意識に右手を差し出した。
「少なくとも、ぼくは、分かってるつもりだよ」
差し出された手を、石田は少しおっかなびっくりに握る。ぼくはギュウッとその手に力を込める。すると石田も、同じように強くぼくの手を握り返して来た。
「握手、三回目だな。病院と、校舎の裏と、今回」
「そうだね。でもこれは前二回とは全然違う。本物の握手だよ」
本物の握手。石田の唇が皮肉っぽく歪む。
「最後の最後、お別れの握手が本物の握手ってのも、遅いよな」
「遅くないよ。だってぼくたち、まだ十歳なんだから」
「……そうだな。まだまだ、生きなくちゃいけないもんな」
石田の口元から歪みが消える。柔らかくて温かい手が離れる。さよならが、近い。
「そうだ。石田、ここ、夜は自由に動けるの?」
「基本は無理。許可取れば行けるけど、なんで?」
「終業式の日に佐伯さんと天体観測するんだ。最後の思い出作り。石田も一緒に、どうかなって思って」
別れが名残惜しくなって唐突に思いついた提案。佐伯さんには後で説明しよう。きっと認めてくれるはずだ。そんなことを楽観的に考える。だけど肝心の誘われた石田本人が、呆れたように溜息をついた。
「お前、馬鹿?」
「え?」
「好きな女子と天体観測するのに他の男を呼ぶなよ。告白、するんだろ?」
思惑をあっさりと見抜かれて、ぼくは胸を抑えた。告白。もちろん、その予定だ。天体観測の日、ぼくは佐伯さんと本気の会話を――戦いをする。あまりにも遅すぎる、絶対に勝ち目のない戦いだけど、それでもする。
「おれはお前と見た星空が凄く綺麗だったから、それでいいよ。だからお前は告白を頑張れ。思い出天体観測から、思い出チューして、思い出セックスまでやっちゃえよ」
早熟な石田がぼくをからかう。だけど未熟なぼくには残念ながら分からない。そういえば前にも言ってたな、セックス。なんだろう。気になる。
「ねえ、セックスってなに?」
ぼくは無邪気に尋ねる。石田はびっくりしたように目を丸くする。
「知らねえの?」
「うん」
「しょうがねえなあ。教えてやるよ。ちょっと来い」
部屋にはぼくと石田しかいないのに内緒話。違和感を覚えながら、ぼくは素直に石田の隣に座り、耳を寄せる。そして語られた内容を聞いて、思い直した。
ああ、これは内緒話で正解だ。
「……本当にそんなことするの?」
「する。愛し合う二人は絶対にする。そうしないと子どもが出来ない」
「じゃあ、ぼくの父さんと母さんも?」
「お前が拾って来た子じゃなければ、絶対にしてる」
ぼくは深く息を吐いた。愛し合う二人が必ずすること。子どもを作るためにやらなくちゃならないこと。ぼくのあれを、佐伯さんの――
「もしかして、固くなってる?」
石田がニヤニヤ笑いながらぼくの股間に手を伸ばす。その推測通りに固くなっていたので、ぼくはそれに全力で抵抗する。固くなってんだろ。なってない。なら触らせろ。イヤだ。そんなやりとりを交わしながらソファの上でこれでもかというほど暴れまわり、やがて絨毯の床に落ちて二人揃って頭をぶつけた。そしてぼくは床に手をつき、ハアハアと肩で息をしながら、石田に向かって愚痴った。
「石田。お前、本当に、本気で、ふざけんなよ」
石田も同じ体勢で、息を切らしながら、それに答える。
「悪い。調子乗った。あと一個、お願い」
「なに」
「石田じゃなくて、隆聖がいい」
荒い呼吸音に紛れ込んだお願い。ぼくの息は整い、逆に石田の息はわざとらしさを感じるぐらいに激しくなる。そんなにゼイゼイするわけないのに。本当に恥ずかしがり屋だ。
「隆聖」
石田の――隆聖の呼吸が、分かりやすく落ち着いた。
「次やったら、ぶっとばすから」
来るかどうか分からない次の話。隆聖の横顔が、くしゃくしゃの笑顔に変わった。
「やってみろよ」
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