第八章「最後の花瓶」

8-1

 安藤さんは、ぼくにモナカの詰め合わせをくれた。最初に来た時にお茶菓子として貰ったモナカだ。同情で物を釣ったみたいでちょっと気後れしたけれど、どうしても受け取って欲しいと言うので、素直に貰うことにした。

 帰る時には、また娘さんが案内してくれた。門を出て、「ありがとうございました」と去ろうとする。するとまた娘さんは「待って」とぼくたちを引き止めた。

「君に、お話したいことがあるの。ちょっといい?」

 娘さんはぼくを指さしていた。ぼくが「はい」と答えると、娘さんは近寄って来て、屈んで目線を合わせる。

「あのね、いつか、田原先生のお話をしたの、覚えてる?」

 ぼくはこくりと頷いた。当然、覚えている。ぼくがじいちゃんを理解するヒントになった、重要な話だ。

「あの時にお話した親友とね、私、今でも付き合いがあるの」

「そうなんですか」

「そう。それでその人、実は女じゃなくて男なんだけど、今度、離婚するらしいの」

 ぼくは固まる。離婚。最近、やたら身近になった単語。

「奥さんに愛情、持てなくなっちゃったんだって。それで浮気して、家が滅茶苦茶になって、最後には離婚。子どもは男の子が一人いて、その子のことは好きなんだけど、子どもはそんな父親より母親の方がずっと好きだから、母親について行くらしいの。言っちゃ悪いけど、ざまあみろよね。私、聞いてて、さすがにもうこいつと縁切ろうかなって思ったもの。一発引っぱたいたし」

 離婚する男の人。娘さんの知りあい。ずっと昔からこの辺りに住んでいて、安藤さんの家が地主の家だと知っていた父さん。

「――分かったかな?」

 ぼくはこくりと頷いた。ぼくからわざわざ再確認する必要は、ない。

「世界は狭いね。こんなに狭いなら、どこで生きていても、きっと大丈夫よ」

 娘さんの口元は笑っていて、目元は困っていた。父さんが間違っているのは分かっている。だけど付き合いの分、無下にも出来ない。そんな複雑な感情が滲み出ている。

「お父さんもね、一応は君のこと、気にしてたのよ。私、ここに来た君を見てすぐに分かったから連絡したの。そうしたら、裏でお母さんを説得してたみたい。まあ本人談だからどこまで信用していいんだかって感じだけど、『あいつは本気みたいだから好きなようにさせてやれ』って言ってたんだって。君、この活動、お母さんからあまり反対されなかったんじゃない?」

 あまりどころではない。『森の思い出』集めの時も、テレビ取材の時も、拍子抜けするぐらいにあっさり通った。あの裏に、父さんがいた。

 ――お前、テレビ出るんだろ。あれ、どうなったんだ?

 いつかの夕食で父さんが口にした言葉。ぼくは、父さんはぼくのことを何も知らないんだなと思った。でも今の話を聞くと、父さんが何も知らないわけがない。だからきっとあれは、合図。父さんも協力した反対運動について、思ったことや感じたことを二人で話そうという合図。だけど――

 ――分かるわけないだろ、そんなの。

 真っ先に、非難が頭に浮かんだ。まあ「気づけなくてごめんなさい」より健全な思考だろう。少なくとも僕は、そう思う。

 分かるわけない。分かる理由がない。だいたい、父さんは話を全く広げなかった。ぼくがぶっきらぼうな返しをしたのが良くなかったのかもしれないけど、それでもいくらでも話を広げられたのに「そうか」で終わらせた。不器用にもほどがある。石田の方が諦めないでしつこく関わって来る分、まだ分かりやすい。

 愛情表現が絶望的にへたくそなやつはいる。よく分かったよ、じいちゃん。確かに、その通りみたいだ。

「別に私は、お父さんのことを許してやってくれ、認めてやってくれって言ってるわけじゃないの。ただ――」

 娘さんがぼくの肩に手をやった。息がかかりそうなぐらい近くで、視線から言葉を叩き込もうとするみたいに、目と目を強く合わせる。

「君はちゃんと愛されていた。それだけは、忘れないであげて」

 ぼくは首を縦に振る。娘さんは「ありがとう」と、穏やかに笑った。


     ◆


 翌日、ぼくの転校がクラスで発表された。

 一応、みんなに新しい住所を教えて、合わせて苗字が変わる話もしたから、離婚のことは隠せなかった。さらに石田が仕掛けた浮気写真の悪戯のせいで、離婚の原因までバレている。針のむしろだ。僕は、小学校生活で最も居心地が悪かった時期を答えろと言われたら、四年生の転校発表から終業式までの約二週間と躊躇いなく答える。ほぼ全員が腫れ物に触るようにぼくに近寄らず、ぼくの方もただひたすらに大人しくしていた。

 だけど佐伯さんは、そんな雰囲気を一切気にしないで、ぼくに声をかけてくれた。

 転校が発表された日の昼休み、ぼくは自分の机で星の本を読んでいた。佐伯さんとの天体観測に備えて、夏の星空の予習だ。すると佐伯さんがぼくのところに近寄ってきて、天体観測について親から許可を貰ったこと、日にちもほとんどいつでも大丈夫だということを告げた。

「ママに『ボーイフレンドなの?』って聞かれたから、『近いかも』って言っちゃった」

 悪戯っぽく笑う佐伯さん。思わせぶりな態度にぼくの胸は高鳴る。そして佐伯さんはぼくに顔を寄せると、少し声のトーンを下げた。

「ねえ、提案があるんだけど」

「提案?」

「うん。あのね、天体観測、終業式の日にやらない?」

 終業式の日に天体観測。ぼくは頭の中にある月齢カレンダーをめくる。ええっと、確か終業式の辺りは――あ、ダメだ。

「もっと早くしようよ。終業式の日は満月に近いよ」

「満月だとダメなの?」

「天体観測には向いてないんだ。月は明るいから、星の光がかすんじゃう」

 佐伯さんがしゅんとなる。分かりやすい意気消沈。思い付きじゃなくて、何か理由がありそうだ。

「どうして、終業式の日にしたいの?」

 質問に、佐伯さんは落ち込みながら答えた。

「だって、そうすれば、最後の思い出が天体観測になるでしょ」

 ぼくはハッとなる。そうか。言われてみれば、その通りだ。

「学校の終業式でさよならするより、ずっといい思い出になると思うの。夏休み入ったらいついなくなるか分からないんでしょ。わたしも塾の夏期講習で忙しくなっちゃうし、だったら、終業式の日しかないかなって」

 最後の思い出が天体観測。なんて素敵なアイディア。ぼくはすぐさま、自らのついさっき発言を覆した。

「分かった。終業式の日にしよう」

「え。いいの?」

「うん。満月だって星は見られるよ。それはそれで綺麗だし」

 言っていることが百八十度違う。さすが、ぼく。「貴方ってたまに本当に適当なこと言うよね」と妻になじられる僕の片鱗が、既に出ている。

「じゃあ、天体観測は、終業式の日で確定ね」

 佐伯さんが微笑む。だけどすぐ、ふっと、切なげに目線を横に流した。

「楽しみ……って言っていいのかな」

「どういうこと?」

「だって、最後の思い出にするんだから、それでお別れってことでしょ。素直に喜んでいいのかなって思っちゃうよ」

「思い出は思い出だよ。もう会えないわけじゃない。死ぬんじゃないんだからさ」

「……うん」

 納得いってない様子。ぼくは佐伯さんの不安を追い払うよう、強く言い切る。

「ぼくは天体観測、楽しみだよ。だから佐伯さんにも同じ気持ちで来て貰いたいな」

 佐伯さんがぼくを見る。そしてちょっと陰のある表情で、弱弱しく笑った。

「うん。分かった」

 あんまり分かって無さそうだ。仕方ない。当日、ぼくが楽しませよう。ボーイフレンドみたいなもんだし。ぼくは内心で調子に乗りながら、「よろしくね」と胸を張った。

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