7-6

 親が離婚して、引っ越すから、協力できない。

 重い告白に安藤さんは言葉を失っていた。そしてぼくは、話さなければいけないという責任ではなく、誰かに聞いてもらいたいという感情から、言葉を紡ぐ。

「しばらく待って貰おうかなとも、思いました」

 不思議と落ち着いていた。来る前はちゃんと話せるかどうか本当に不安だったのに。一番大事な戦いが、既に終わっているからかもしれない。

「秘密基地のことはやっぱり気になるし、『森の思い出』も返って来ちゃったし、このままいなくなるのは無責任かなとも考えました。でも、そういうこと言ってたらいつまでも変わらないから、夏休み中にいなくなることにしました。引っ掻き回しちゃって、本当にごめんなさい」

 ぼくはぺこりと頭を下げた。口にすると、実感が湧く。そうか、もう秘密基地は終わりなんだ。安藤さんがものすごく頑張って、マムシの森が残って、秘密基地が残っても、そこにぼくはいないんだ。

 いいや。ぼくは一番大事なものを失くさない道を選んだ。後悔はない。

「秘密の基地は、優しいから――」

 星々の煌めき。草と土の匂い。あの場所はいつだって、ぼくに優しかった。

「全部、許してくれちゃうから――」

 ぼくの場所。ぼくだけの場所。ぼくだけが幸せになれる場所。

「だからぼくは、そこから出て行かなくちゃいけないと思いました」

 言いたいことは全部言った。そういう確信があった。ぼくは安藤さんの反応を待つ。そして安藤さんは腕を組んで、ただ一言、ポツリと呟く。

「そうか」

 安藤さんが立ち上がった。そして座るぼくを見下ろしながら告げる。

「引っ越すなら、餞別を持ってくるよ。君には戦う力を貰った。お礼をしたい」

 ぼくは「いいですよ」と首を振った。だけど安藤さんは「遠慮するな」と、そのまま部屋を出て行こうとする。だけど部屋のふすまの前に立ったところで足を止めて、背中を向けたまま語り始めた。

「私には、大嫌いな男がいるんだ」

 ぼくに話している。それは、すぐに分かった。

「昔からいけ好かない男でな。私が特別なんじゃなくて、あいつを知る人間は誰もがあいつのことを嫌いというような男だ。ある日、そいつの持っている土地をゴミ処理場にするからと行政が買い取ることになって、そいつはもう有頂天だった。私の知人は、土地を売った金でお前の家の隣にお前が入る墓地でも作ってやろうかと言われた。そうなれば、そりゃあ、面白くない。そしてそいつはそんな奴だから、面白くない人たちの方が圧倒的に多い。それでまあ、その中に街の現職議員のライバル議員と近しい人間がいるとか、色々と要因が重なってな。反対運動を展開することになった。それが私の戦う理由だ」

 娘さんから既に聞いた話。だけど安藤さんの口から聞くのは、意味が全く違う。

「でも――なんだろうな」

 安藤さんが右手で後頭部を掻いた。その表情は、後ろ姿からは分からない。

「君のために戦っていたわけじゃないのに、君が要らないというならば、あの森は要らないんじゃないか。そうも思えてくるよ。不思議なものだ」

 安藤さんが、部屋から出て行った。ふすまが閉められて、広い部屋にぼくと佐伯さんが二人で残される。佐伯さん、さっきの話、どう思ってるのかな。ぼくはおそるおそる佐伯さんの方を伺った。

 佐伯さんは握った手を膝の上にやって、顔を伏せ、その横顔は何かを堪えるように張り詰めていた。

「天体観測」

 ポツリと呟かれた言葉に、ぼくの身体が大きく上下した。臆病者め。

「夏休み前って、そういうことだったんだ」

「うん。夏休み入ったら、いつ引っ越すか分からないから」

「言ってくれれば良かったのに」

「言ったら、絶対にOKしちゃうでしょ。遠くに行くから最後に一緒に天体観測してくれなんてお願い、佐伯さんは断れないもん」

「OKならいいでしょ」

「ダメだよ。それじゃ、ダメ」

 ぼくはきっぱり首を振る。佐伯さんは、薄く、弱弱しく笑った。

「お父さんとプラネタリウムに行くって言ってたから、わたし、仲直りしたんだなって思ってた。夏休みの話、いっぱいしちゃったよ」

 まあ、そうだよね。それは言わなかったぼくが悪い。

「最後に、ちゃんと話がしたかったんだ」

 最後。その言葉はつっかえることなく、すんなりと出てきた。

「話をして、今のぼくを知って貰いたかった。父さんの中のぼくって、たぶん、二年生ぐらいで止まっちゃってるから、それを動かしたかった。どうしてもさよならしたくない気持ちになったら、満足出来なかったら母さんに言おうと思ってたけど、満足出来たからそれでいいんだ。もうぼくは、それでいい」

 ぼくは中空を見上げ、父さんと行ったプラネタリウムを思い出しながら語った。そして佐伯さんの方を向き、声をかける。

「だから――」

 気にすることないよ。そう言おうとした。だけど、言えなかった。

 佐伯さんがぼくを見ながら、ボロボロと涙をこぼしていたから。

「ねえ」

 声をかけられる。言葉の端々が覚束ない涙声。

「『かわいそう』って、そんなにダメかなあ」

 ぼくは答えられない。佐伯さんは泣きじゃくりながら、言葉を続ける。

「辛い中、頑張った人を見て、かわいそうだね、辛かったね、よく頑張ったねって思うのは、間違ってるのかなあ」

 感情と理性を戦わせている。戦い疲れた心が汗を流すみたいに、涙をこぼしている。感情を生んだのはぼく。理性を生んだのも、きっとぼく。学校から逃げたぼくを追いかけて来た佐伯さんに、かわいそうと思われるのがイヤだと言い切ったぼく。

 なら、救えるのも、ぼくしかいない。

「間違ってるか、正しいかは、ぼくには分からないけれど――」

 ぼくは佐伯さんの真っ赤な頬を見つめながら、出来るだけ、優しく微笑んだ。

「ぼくは、ぼくのために泣いてくれるなら、それはすごく嬉しい」

 佐伯さんの理性が、折れた。泣き声が大きくなる。泣きながらぼくの胸に飛び込んでくる。ぼくは初めて抱き止める異性に戸惑いながら、その長い髪の毛を上から下へ、安藤さんが戻って来るまで撫でつけていた。


     ◆


 あの頃、ぼくは三つの花瓶を割った。

 一つは、石田の家族。

 一つは、ぼくの家族。

 そして――

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