7-3

 プラネタリウムを出て、夕ご飯を食べに行く前に、喫茶店に寄った。

 あまり広くない店内に、ぼくたち以外のお客さんは居なかった。父さんはアイスコーヒーを、ぼくはアイスミルクを頼んだ。ケーキも頼んでいいというので、チョコレートのケーキを頼んだ。すると父さんは、びっくりしたように目を丸くした。

「ショートケーキじゃなくていいのか?」

 そっか。まだ勘違いしてるんだっけ。忘れてた。

「今はチョコレートのケーキが好きなんだ。ショートケーキは卒業」

「幼稚園の頃は、ショートケーキをいっぱい食べるためにケーキ屋さんの女の子と結婚するとか言ってたのに?」

「……そんなこと言ってたの?」

「ああ。言ってた」

 なんて食い意地の張った子どもだ。恥ずかしさに、ぼくは肩を竦める。もしかして、父さんがぼくについて知らないことより、ぼくが父さんにお話したのに忘れてしまっていることの方が多いのかもしれない。そんな気がした。

 やがて、アイスコーヒーとアイスミルクが目の前に置かれた。父さんはブラックで、ぼくはガムシロップを入れてそれを飲む。あんまり会話をしないから、母さんと一緒に飲むミルクより、減るのが早い気がした。

 テーブルを挟んで向き合うとなんだか話しづらい。でも今日は話さなきゃ。ぼくはそう思う。そして父さんもきっと、そう思っていた。だから声をかけてくれた。

「今日は、来てよかったか?」

 父さんは一言話して、一口アイスコーヒーを飲む。ぼくもアイスミルクを一口飲んでから、一言話す。父さんと話すと、喉が渇く。

「うん。すごく綺麗で、解説も面白くて、本当に来てよかった」

「そうか。父さんも来てよかったよ。思っていたよりずっと綺麗だった。あんな綺麗な星空、現実では一度も見たことないな」

 現実の星空。石田と一緒に秘密基地から見上げた真夜中の星空が、ふと頭に浮かんだ。

「ぼくは、あるよ」

 プラネタリウムも凄く綺麗だけど、やっぱりあの星空には適わない。遠いお星様の光は軽くて、近いお星様の光は重い。そんな光の重さを感じることが出来そうなぐらい、心に直接飛び込んでくる煌めき。

「例の秘密基地か」

「うん」

「そうか。そんなに綺麗なのか。そりゃあ、天体望遠鏡も欲しくなるな」

 それだけじゃないよ。好きな子と天体観測したかったなんて、絶対に言わないけど。

「望遠鏡、ちゃんと使ってるのか?」

「まだ一回しか使えてないんだ。最近、曇りとか雨とか多いし、それにほら――」

 そこまで口にして、ぼくは気づく。しまった。これはあまりいい話題ではない。だけどもう途中まで言ってしまったから、ぼかすので精一杯だ。

「色々、あったから」

 色々。その中には当然、良くないこともいっぱいに含まれている。父さんはコーヒーを一口、時間をかけてゆっくり喉に流し込むと、ポツリと呟いた。

「――そうだな」

 ぼくは黙る。またどうにもならない沈黙の時間が訪れる。だけど頼んだチョコレートケーキがテーブルの上に置かれた時、場の空気が大きく変わった。

「そうだ。ケーキ見て思い出した」

 父さんはどこかわざとらしくそう呟くと、ぼくに向かって穏やかな笑顔を浮かべた。

「お誕生日、おめでとう」

 とっくに終わった誕生日のお祝い。戸惑うぼくに、父さんは続ける。

「あの日、父さん、おめでとうって言ってなかっただろ。お前と二人で出かけることになって、それを思い出したんだ。だから今日、絶対に言わなくちゃいけないと思った」

 父さんはそう言うと、申し訳なさそうに顔を伏せた。

「あの日は、本当に仕事だったんだ」

 分かってるよ。

 分かっている。あの日、父さんは逃げたんじゃない。それは僕じゃなくて、ぼくが、ちゃんと分かっている。

 本当に逃げたのならケーキを買って帰って来たりなんかしない。逃げ癖がついている父さんは、そのまま逃げてしまうはずだ。父さんはぼくとちゃんと話をするために、ぼくと戦うために、母さんと喧嘩になることを覚悟して家に帰って来た。

 あの時は部屋が暗くて、父さんの顔が良く見えなかった。いったいどんな顔をしていたのだろう。ぼくはチョコレートケーキの方が好きだな。でも気持ちはすごく嬉しいよ。ありがとう。そう言えていれば、また何か、変わっていたのだろうか。

「父さん、お前に寂しい想い、いっぱいさせたよな」

 ぼくは唇を噛んだ。そんなことはない。ぼくは父さんがいなくても寂しくない。とっくに、そういう風になってしまっている。

「父さんのこと、恨んでいるか?」

 父さんが俯いたまま尋ねる。ぼくはチョコレートケーキを食べる。甘い塊を胃の奥に流し込んで、すっきりした喉を震わせて、芯の通った声を出す。

「別に。どうでもいいよ」

 伏せられた顔の奥で、父さんの口元が緩む。ひどいなあ。そう言って、いつかどこかで見たように、はにかむように笑う。

 でも今度のぼくは、ここで終わらせない。

「だけど――」

 父さんが顔を上げた。逆にぼくは、照れたようにそっぽを向く。

「父さんがそういう風に気にしてくれてたのは、けっこう嬉しい」

 横目でちらりと父さんを見る。鼻から下でしか笑っていなかった父さんは、全て笑顔になっていた。

「ありがとうな」

 お礼を言われる理由はない。だけどぼくは黙って、その言葉を受け取った。


     ◆


 喫茶店を出た後、父さんと一緒に外で夕ご飯を食べてから、家に帰った。

 家に帰ると母さんがお風呂を用意してくれていて、父さんが「一緒に入るか」と声をかけてきた。だけどすぐに「ああ、もう十歳だからそういうことはしないのか」と止めてしまう。ちょっと、入りたかったんだけどな。名残惜しく思いながらも、恥ずかしくて、それを口には出来ない。

 お風呂には父さんが先に入った。ぼくは熱いお風呂が苦手で水を入れてぬるくしてしまうから、いつも順番は最後。母さんはもう入ったらしいから、次がぼくの番だ。

 ぼくは部屋に入って、着替えを準備すると、ベッドの上でゲームを始めた。しばらくすると部屋の扉がノックされる。そして返事をする前に、母さんが扉を開ける。ノックをする意味がない。

「今日、どうだった?」

 ベッドの上のぼくに、母さんから質問。ぼくはゲームを止めない。ゲームになんて全然集中出来てないくせに、父さんのことを話す顔を、母さんに見られたくない一心で。

「満足したよ」

「プラネタリウムはどんな感じだったの?」

「凄かったよ。星とか星座だけじゃなくて、星雲とか星団とか銀河とか、そういうおっきな話もいっぱいあった。もっといい天体望遠鏡、欲しくなっちゃった。あれ、そういうの見るのには向いてないから」

「何言ってんの。買ったばっかりでしょ」

「分かってるよ。欲しくなっただけ」

 少し沈黙。そして、妙に湿った声の質問。

「父さんとは、何食べて来たの?」

 今度はぼくが少し黙る。だけど結局、正直に答える。

「ステーキ」

「ステーキ?」

「うん。東京の大きな街で、ステーキ屋さんのステーキ食べて来た。お肉やわらかくて、おいしかった」

 母さんが「ふーん」と不機嫌そうなに呟く。二人だけでおいしいもの食べて来て、怒っているのかな。ぼくのその推測は、当たっているようで外れている。

「じゃあ明日は、母さんと二人でお寿司にしようか」

 さすがにゲーム機から顔を上げた。母さんは、思った通りの膨れ顔。

「だってあんたと父さんだけ美味しいもの食べてズルいでしょう。母さんも食べたい」

 ――違うだろう。「食べたい」じゃなくて、「食べさせたい」だろう。僕には分かるよ。ぼくは「やっぱり予想通りだった」とか、考えていたけれど。

「そんなおいしいものばっかり食べてたら、お金無くなるよ」

「子どもがそんなこと気にしなくていいの。父さんには内緒だからね」

 母さんが唇の前で人差し指を立てる。「ないしょ」の仕草。ちょうどその時、お風呂から父さんが上がる音がして、ぼくたちは含み笑いを浮かべた。

「じゃあ、お風呂入って来るね」

 着替えセットを持って洗面所へ。身体を拭いてパジャマを着る父さんの横で、ぼくは逆に服を脱ぐ。父さんが「十歳なのにまだちんちんの毛は生えてないんだな」とからかってきたから、ぼくは「十歳はふつう生えてないよ」とそんな知識なんて全くないのに強がった。まあ別に、間違ってはないけれど。

 風呂場に行って浴槽に手を突っ込むと、やっぱり熱かった。ぼくはまずシャワーから水を入れて、かき混ぜてぬるくする。そして身体を洗ってから、浴槽に身を沈めた。

 全身をふやかして、身体の境目をあいまいにする温かさ。父さんとの戦いで疲れたせいか、今日は特に気持ちが良い。ぼくはぼうっと天井を見上げ、そして、まだ残っている戦いのことを考える。

 ちゃんと話せるだろうか。

 ちゃんと伝わるだろうか。

 何から話すか考えてみても、考えがまとまらない。戦いの前はいつもそうだ。ぼくは顔を半分、湯船に沈めて、ぶくぶくと泡を吐いた。

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