7-2

 土曜日、学校が終わって家に帰ると、父さんがリビングでテレビを見ていた。

 ちゃんと家にいる。約束を守ってくれた。それが単純に嬉しくもあり、今更になってそんなことを喜んでいる自分が、少し空しくもなる。十年以上、家族だったはずなのに。

 昼ご飯は母さんが茹でてくれたそうめん。これからの予定があるから、いつもの食卓より話はずっと弾む。家に置いてけぼりにされる予定の母さんは少し不満そうだったけれど、そこはそういう約束だから仕方ない。我慢して貰おう。

「じゃあ、行ってくる」

 玄関を出る時、見送る母さんに父さんがそう声をかけた。「行ってらっしゃい」と母さんの返事。当たり前のやりとりなんだけど、本当に久しぶりで、懐かしく思える。

 外に出ると、やっぱりしばらくは無言。自分から誘ったんだから何か話さなくちゃ。そんなデートみたいなことを考えるけれど、喉から息が出てこない。気まずい雰囲気の中、父さんがすっとぼくに手を差しのべる。

「手、繋ぐか?」

 差し出された手は中途半端に伸びていて、父さんは明らかに照れていた。あんたもデート気分か。僕ならそう突っ込む。そしてぼくの感想も、大差ない。おかしくなって笑いながら、父さんに告げる。

「父さん、ぼく、もう十歳だよ」

「十歳は普通、歩く時に親と手は繋がないのか?」

「繋がないよ。学校のやつに見られたら恥ずかしいよ」

「そうか。そりゃあ、残念だ」

 一度差し出された手が引っ込んで、父さんが顔を前に戻す。自分で手は繋がないと言ったくせに、なんだかちょっと勿体ない気もしてくる。そして父さんは手のことなんて話をするきっかけだと言うように、そのまま言葉を続ける。

「なあ」

「なに?」

「どうして今日は、父さんと二人きりなんだ? 母さんがいても良かっただろう」

 父さんの目はぼくを見ていない。だけどゆっくりになった父さんの歩く速さは、心はぼくをしっかり見ていると語っている。ぼくは、アスファルトに薄く伸びる二つの影を見つめながら、口を開いた。

「母さんが言ってたんだ。ぼくたちは、都合が悪いと黙っちゃうんだって」

 父さんからの返事はない。都合が悪いと黙っちゃうと言われて、都合が悪いから黙っている。そう考えると、なんだかおかしい。

「だからね、母さんがいると、ぼくと父さんは話をしないと思う。三人でご飯を食べてるも、『母さん、助けて』って感じだったから」

 少し、ぼくは歩く速度を速めた。照れ隠し。

「でも二人きりなら、黙っちゃった方が、都合が悪いでしょ」

 二人しかいなければ、誰も助けてくれなければ、話すしかない。そんなに話したくはなくても、ずっと無言はもっとイヤだから、口を開くしかない。そんな作戦。とりあえずは成功していると思う。だって父さんは、「手を繋ぐか」と声をかけてくれた。

「なるほどねえ。確かに、その通りだ」

 ぼんやりとした返事の父さん。少しは話を広げてよ。ぼくは不満に思いながら、歩く速度をまた元に戻した。


     ◆


 電車を降りて、十分ぐらい大通りを沿って歩くと、目的のプラネタリウムが姿を現した。

 都の行政が運営する郷土資料館と天文博物館とプラネタリウムが一緒になった施設。四角くて綺麗な建物の真ん中に、丸いドームのプラネタリウム。将来的には東京に就職した僕が、仕事の疲れを癒すために足繁く通うようになる場所だ。

 チケットを買って中に入った時、プラネタリウムの上映にはまだ時間があった。ぼくと父さんは三階の天文博物館に向かう。入口に置いてあった天球儀を弄り倒したり、展示物を父さんに解説して貰ったりして、しばらく時間を潰した。

 とはいえ、父さんは別に天文に興味があるわけでもなんでもない。リアルタイムで太陽の表面を捉えてスクリーンに映し出していたクーデ式太陽望遠鏡とか、十六世紀後半に星の位置を測るために使われていた巨大な分度器である大アーミラリーとか、仕組みを聞かれても分かるわけがない。だけど初めて見る天体観測の道具にキラキラ目を輝かせるぼくの手前、「父さんにも分からないよ」と言うわけにも行かない。あの日、ぼくはかなり父さんを困惑させたと思う。ごめん、父さん。僕から謝っておく。

 やがてプラネタリウム開演のアナウンスが流れ、ぼくたちはドームに向かった。一番後ろの席が一番良く見えるらしいので、そこに陣取る。まだ白いドームの内壁をぼうっと眺めていると、横に座る父さんが独り言のように呟いた。

「結構、一人で見に来る人もいるんだな」

 ぼくは辺りを見渡した。確かに、ぼくたちみたいな親子連れや、恋人同士っぽいお兄さんお姉さんが多いけれど、おとな一人で来ている人も結構いる。

「父さんは、一人でプラネタリウムに来たことはないの?」

「ないな。父さん、あんまり『意味がないもの』には興味がないタイプだから」

 やがて星が映し出される壁面を眺めながら、父さんが語る。

「宇宙がどうなっていても、星座なんかなくても、人間は生きていけるだろ。だから宇宙の研究とか、星を繋いで星座にするとか、そういうのにあまり興味が無かったんだ。父さんはそんなだから、お前が天体望遠鏡を欲しがったって母さんから聞いた時は、本当に驚いたよ」

 父さんがぐるりとドーム内を見回した。父さんとは全く違う、「意味がないもの」に興味津々な人たちが、星々の到来を今か今かと待ち構えている。

「大人はみんな、そういうものだと思ってたんだけどな。でもよく考えたら、宇宙の研究をしているのも、星座を作ったのも、みんな大人なんだよな。視野が狭くて、色々、見えてなかったみたいだ」

 父さんがしみじみと呟く。その横顔は、どこか寂しげ。何が見えてなかったのか、何を見落としたのか。少し聞きたかったけれど、聞けなかった。

 やがて開演のアナウンスが流れて、場内がゆっくりと暗くなる。最初に映し出されたのは、青色の砂粒が集まったようにざらざらした画面。その青色に徐々に濃淡が生まれて、ちらほら、薄黄色のぼんやりした光が生まれて行く。宇宙の誕生だ。

 バラバラの光が集まる。お互いに惹かれあい、寄り添って、二つは一つになる。それを何度も何度も繰り返して、光の渦巻きがあちこちに出来上がる。その渦巻きのうちの一つが大きくなって、内壁の中心にドンと映し出される。ぼんやり輝く光球を雲のように星々が囲む、円盤状の星の集合体。

『これが、私たちの住む銀河です』

 アナウンスが説明と共に、光の円盤の端の方に矢印が浮かんだ。地球がいるのはこの辺りという矢印。地球のいる銀河。十万光年に渡る大きさを持つ、およそ二千億個の星々の集まり。

『実は、夜空に浮かぶ天の川は、この銀河なのです』

 天の川が銀河。確かに同じ川と河だけど、どういうことだろう。ぼくのその疑問に答えように、銀河の中の地球がクローズアップされる。そして地球を取り巻く光の帯を、地球の中から見ているような視点になる。

 ああ、なるほど。そういうことか。

『こうやって、銀河の中から、銀河を見ている。それが天の川なのです』

 光の帯が、ドームを横切るように大きく広がる。その周囲には無数の光点。誰もが知っている、でも実際に見たことのある人はあまりいない、美しい夏の星空がドームの中に再現される。

 最初に説明されるのは、織姫のベガと彦星のアルタイル。誰もが知っている一年に一回しか会えない恋人たち。二人は一度、一緒になったけれど、一緒にいることが楽しくてお仕事が適当になってしまい、神さまに怒られて離れ離れにされたらしい。

 ――うちと逆だな。

 一緒にいるのがイヤで、お仕事を頑張るようになった父さん。ぼくはチラリと父さんを見る。「意味がないもの」に興味がなかったはずの父さんは、夢中になって天井を見上げている。ぼくは、せっかくのプラネタリウムなのに余計なことを考えた自分が恥ずかしくなって、視線を元に戻した。

 ベガとアルタイルの二つに、デネブを加えて夏の大三角、ベガのあること座、アルタイルのあるわし座、デネブのあるはくちょう座――夏の夜空を煌めかせる星と星座たちが次々と示されていく。

 星の名前には意味があるらしい。例えば、さそり座のアンタレス。アンタレスは赤い星で同じく赤い火星に似ているから、「対抗する」という意味の「アンチ」と「火星」という意味の「ターレス」を組み合わせて、「火星に対抗するもの」という意味で「アンタレス」だそうだ。近くの美容院の名前がアンタレスだった気がするけど、あの店、火星に対抗していたのか。ぼくはそんなことを考えて、何だかおかしくなった。

 やがてお話は、宇宙のもっと遠くて深いところに触れるようになる。

 天の川の中、いて座の干潟星雲。ルビー色のガスがぼんやり広がる綺麗な映像が、ドーム内に大きく映し出される。この中には星の卵がいっぱいあって、新しい星が次々に生まれているそうだ。

 星が生まれる。全く、想像も出来ないぐらいにスケールの大きな話。ぼくたちの地球だって、同じように生まれてきたはずなのに。

『宇宙は、星は、人は、私たちは、どこから来たのか。たまには星空を見上げながら、その起源に思いを馳せてみても、良いのではないでしょうか』

 ぼくたちはどこから来たのか。知らなくても生きていけること。でもどうしても知りたくなってしまうこと。だから人は、宇宙の研究を止められない。

 同じことをつい最近、ぼくもやった気がする。別にやらなくても良かった。でもどうしてもやりたくなって、やってしまった。そして――分かり合うことが出来た。

 分かり合わなくたって生きていける。でもどうしても分かり合いたくなってしまう。だから話をすることを止められない。宇宙と人間は似ているのかもしれない。なかなか、分からないところまで含めて。

 ――父さん、あんまり「意味がないもの」には興味がないタイプだから。

 意味がないのは当たり前だよ。だって、これから探すんだから。ぼくは勝ち誇った含み笑いを浮かべながら、人工の星空に見惚れる父さんに心の中で声をかけた。

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