7-4

 月曜日、ぼくにはいくつかのミッションがあった。

 一つ目は安藤さんの家に行って『森の思い出』を渡すこと。これは簡単。二つ目は、安藤さんに言わなくてはならないことを言うこと。これはちょっと難しいけれど、三つ目ほどではない。三つ目は――

 佐伯さんを、天体観測に誘うこと。

 学校にいる間は、誘うどころか、ほとんど話しかけることすら出来なかった。やがて放課後になって、安藤さんに家に一緒に向かう。学校から離れた場所で二人きり。この状況で誘えなかったらもう無理だ。情けないにもほどがある。

 そしてぼくは、基本は、情けないにもほどがある男だった。

 なかなか、どうしても、言葉が出てこない。佐伯さんばっかりが喋って、ぼくは上の空で相槌をうつばかり。佐伯さんの夏休みの予定の話なんて今はどうでもいいのに、それを止めて本題に話を持って行くことが出来ない。

 安藤さんの家がどんどんと近づいてくる。もう、天体観測の誘うのは安藤さんの家からの帰りでもいいかな。ぼくは一瞬、そんなことを考える。問題の先送り。僕にも残っているよくない癖だ。

 だけどぼくはすぐ、今回はそれではいけないということに気づいた。

 安藤さんの家に行った後だと、佐伯さんはあのしっとりした笑顔で頷く可能性がある。ぼくが安藤さんに言おうとしているのはそういう内容だ。それではダメだ。かわいそうだからと思われて一緒に天体観測するぐらいなら、しない方がいい。

「佐伯さん」

 会話が少し止まったところで、佐伯さんに強く呼びかける。いきなり真剣になったぼくに、佐伯さんはきょとんとする。天体観測しよう、天体観測しよう。ぼくは呪文のように頭の中でその言葉を繰り返し、そして、一旦迂回する。

「ぼく、土曜日、プラネタリウム行って来たんだ」

 話の入口を作る。ちょっとしたテクニック。

「そう言えば、行くって言ってたね。どうだった?」

「面白かったよ。それで、また、天体観測したいなって思ってさ」

 ぼくは両手を広げる。さあおいで。受け止めてあげる。少し自惚れた感じ。

「夏休み前に、また一緒に天体観測しようよ」

 にこにこ笑いながら、口をギュッと閉じる。忙しいかな。イヤならいいけど。今にも飛び出しそうになる弱音を全力で抑えつける。同情を誘うような言葉もいくつか思いつく。これを言えば絶対に喰いついてくる台詞もある。だけど今は、全部ダメだ。

 佐伯さんは、顎に手を当てて悩んでいた。気が進まないのかな。ぼくは少し不安になる。だけど佐伯さんが納得していなかったのは、別のところ。

「わたしは別に夏休み中でもいいよ。そっちの方が時間取れるし」

 一緒に休日を過ごしても良いという嬉しい申し出。だけど――

「それは、ぼくの方が困る」

「どうして?」

「早い方がいいんだ。うずうずしててさ」

 無理があるかな。ぼくは佐伯さんの様子をじっと伺う。佐伯さんもぼくの真意を探ろうとするみたいに、じっとぼくを見る。そしてやがて、別に何を考えていても関係ないよねとばかりに、満開の笑みを浮かべる。

「分かった。じゃあ、行こう」

 久しぶりに、胸がときめいた。そうか。最初から、こうしていれば良かったんだ。相手が何を考えていようと関係ない。自分丸ごとでぶつかれば良かったんだな。何か一つ、重要な答えを見つけた気分だ。

「ありがとう」

 ぼくが見つけた答えは、妻へのプロポーズという形で僕の人生を動かす。まあ、それはまた、別の話。


     ◆


 安藤さんの家に着いて、インターホンを押すと、いつも通り娘さんが出て来た。

 今回はいつもと違って事前に連絡はしていなかったから、娘さんは「あら」と本当に驚いたように大きく目を見開いた。連絡をしなかった理由は、テレビの時は安藤さんがぼくたちを驚かせたから、今度はぼくたちが安藤さんを驚かせようとぼくが提案したから。でもぼくの本当の目的は、安藤さんを驚かせることじゃなくて、安藤さんに期待をさせないこと。ぼくが安藤さんに言いたいことを考えると、そうした方がいい。

「久しぶり。今日は、お父さんに会いに来たの?」

「はい。いますか?」

「いるわよ。ちょっと待っててね」

 娘さんが家の中に戻った。そしてすぐに出て来て、「中で待ってて、だって」とぼくたちをいつもの広間に案内してくれる。突然の訪問だから、今回は、お菓子はなし。すぐに安藤さんが出て来て、ぼくたちと向かい合って座った。

「久しぶりだね。今日は、何しに来たんだい?」

 言いたいことがあって来ました。その本当の理由は口にしないで、まずは『森の思い出』の紙束をランドセルから取り出す。

「これ、返って来たので、渡しに来ました」

 安藤さんはポカンと呆けた顔で紙束を受け取った。そしてしげしげそれを眺めながら、ぼくに向かって問いかける。

「捨てられたんじゃなかったのかい?」

「捨ててなかったんです。友達になって、返してもらいました」

 安藤さんは知っている。石田の事情も、ぼくとの確執も、全部知っている。だから話を聞いて、とても信じられないという風に目を丸くした。

「あいつ、ぼくと友達になりたかっただけなんです。だから、テレビはダメになっちゃったけど、集めた紙はちゃんと返って来たから、許してやって下さい。お願いします」

 ぼくは頭を下げた。安藤さんはらしくなくオロオロしている。話の急展開についていけていないようだ。

「いや、怒ってはいないから、気にすることはないよ。彼にだって、色々とあったわけだからね。それに――」

 安藤さんが言葉を切った。そして、ぼくたちに新事実を告げる。

「テレビもまだ、間に合わないわけじゃない」

 今度はぼくが驚く番。ぼくが驚いたのを見て、安藤さんは落ち着きを取り戻す。シーソーみたいな関係。

「五月末頃、小学生の子の首が校門に置かれる、痛ましい事件があっただろう。最近、中学生の犯人が捕まったあれだ。あれが起きてからずっとテレビはあの話題一色。ここで放送しても埋もれてしまう。だから少し遅らせることにしたんだよ」

 安藤さんが二カッと笑う。だけどぼくは困惑していた。まだ取材が出来る。テレビに出て秘密基地を守る活動を展開することが出来る。

 それは――困る。

「今からでも、君は取材を受けることが出来るかもしれない。森を守るために、協力してくれないかな?」

 当然、してくれるよね。安藤さんがそんな目でぼくを見る。佐伯さんも良かったねという感じでぼくを見る。そしてぼくは、膝の上の手をギュッと握りしめながら、大きく口を開いた。

「それは、出来ません」

 ぼくが落ち着いて、安藤さんが驚く。シーソーがまた動いた。

「なぜ?」

 不思議そうな安藤さん。ぼくは、ゆっくりと語り始める。

「ぼくは、森なんか、本当はどうでもいいんです」

 どうでもいい。敢えて強い言葉を使った。気持ちが伝わる言葉。

「ぼく、あの森に秘密基地があるんです。ぼくはそれを守りたいだけで、環境とか、公害とか、別にどうでもいいんです。そこから見る星空が好きだから、自然を守りたいっていうのには繋がるのかもしれないけど、でもやっぱり、すごく個人的な理由なのは変わらないと思います」

 それに――

 口を閉じる。続きを言わなくてはならないのは分かるけど、口にしたらもう戻れないとばかりに、肺から空気が出てこない。もうとっくに、戻れないのに。

「だから、協力できない。そういうことかな?」

 俯いて黙るぼくに、安藤さんが発言を促す。そして安藤さんは、ぼくが返事を言うより前に、自分の言葉を繋げた。

「そんなこと、気にすることはない」

 安藤さんが肩を竦めた。ぼくの気を楽にしようとする、おどけた仕草。

「個人的な理由を隠して、立派なことを言って戦う。それを君は汚いと思うのかもしれないけれど、大人の世界では普通のことだ。ゴミ処理場の建設だって似たようなものさ。偉い人が本当に欲しいのはゴミを処理する施設じゃなくて、それにまつわる利権なんだから。だから同じように戦うことは、何もおかしくない。君は、間違ってないんだよ」

 間違ってない。安藤さんはそう言い切った。だけどぼくは、俯いたまま顔を上げない。そして安藤は机の向こうから身を乗り出して、ぼくに近くから声をかける。

「そんなに、気になるかい?」

 ぼくは小さく、首を横に振った。

「違います」

 やっと、声が出た。その細い音を頼りに、ぼくは声を繋げる。

「違うんです。個人的な理由を隠して戦うのに納得出来ないのはそうだけど、それは諦めてもいいと思う理由の一つです。諦めなくちゃいけない理由は、協力できない理由は、別にあります」

 ぼくは顔を上げた。そして身を乗り出した分、俯く前より近くにいる安藤さんに向かって、きっぱりと言い放つ。

「ぼく、転校するんです」

 佐伯さんはどんな顔をしているのだろう。ふと、そんなことが気になった。

「父さんと母さんが離婚して、母さんについていきます」

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