6-5
先に起きたのは、ぼくだった。
ランタンの光はもう切れていて、家の中は真っ暗だった。音も全くしない。どうやら、嵐は去ったようだ。
光も音もない闇の中、ぼくはゆっくりと起き上がる。目が慣れて来て、すぐそばで石田が眠っているのが分かった。外に出よう。ぼくは何となく、そう思った。
玄関に向かい、靴を履こうとする。だけど靴は隠れるためにキッチンの方に置いてあることに気づいて、取りに戻る。その間に石田が一つ、寝返りをうった。ぼくは石田を起こさないように、そろそろと玄関の扉を開けて外に飛び出した。
外はまだ暗かった。ぼくは、以前に失敗した真夜中に星を見よう作戦を思い出す。そしてそよそよとぬるい夜風が頬を撫でる中、空を見上げた。
光り輝く星の海が、一面に広がっていた。
織姫星のベガ。牽牛星のアルタイル。そしてその二つを分かつ天の川。誰もが知っている夏の星空。だけどぼくが見ているこんなめちゃくちゃな星空は、きっと誰も知らない。光の川は氾濫して、夜空全部を水びだしに――光びだしにしている。
星空を見上げて呆けるぼくの耳に、秘密基地の玄関の扉がガラガラと開く音が届く。振り向くと、目覚めた石田が外に出て来ていた。
「何してんの?」
ぼくは無言で上を指さした。そして石田はついさっきのぼくと同じように首を上向かせると、大声で叫ぶ。
「うお! すげえ!」
目を輝かせて空を見つめる石田。ぼくはその横で、同じようにまた空を見上げる。
「すげえな。ここ、こんなに星が綺麗に見えるんだ」
「そうだよ。今まで見たことなかったの?」
「だっておれ、曇ってる時しか来ないし、帰る時はそんな余裕ないし。知らなかったよ。こんな近くに、こんなすごい景色があったなんて」
石田の声は弾んでいる。こんな明るくて楽しそうな声、初めて聞いた。
「なあ、星座って分かる?」
「分かるよ。ぼく、ここで星を見るの好きで、勉強したから」
「何か教えてくれよ」
「そこに特に光ってる星があるでしょ。あれが彦星で、わし座のアルタイルだから――」
「どこだよ」
「だからそこだよ」
「だからどこだよ!」
「そこだってば!」
指をさすぼく。分からない石田。やがて石田は「もういいや」と諦めた。
「こんだけ綺麗なら、星座とか、もうどうでもいいよな」
身も蓋もない。まあでも、そういう考え方もありかもしれない。ぼくも石田に星座を教えるのを諦める。そしてしばらくの無言の後、石田は、空ではなくはっきりとぼくに向かって言葉を吐いた。
「ごめん」
ぼくは石田の方を向く。石田は、申し訳なさそうに目を伏せていた。
「今までやって来たこと、本当にごめん。猫のことだって、わざとじゃないけれど、殺したがおれなのは間違いない。お前にやらせたのと同じように、素っ裸になって土下座しろって言うなら、する。許してくれなくても構わない。とにかく、ごめん」
石田が深々と頭を下げた。いつか校舎裏で見たのとは違う、心からの謝罪。
だけど石田が謝ったからって、とらじろうが帰って来るわけじゃない。ぼくが石田を認めてしまったら、天国のとらじろうは怒るかもしれない。ボクを殺した相手となに仲良くしてるんだ。そう言うかもしれない。
でも――
それでもぼくは、石田と分かり合えたことを、無駄にしたくない。
「猫じゃなくて、とらじろうだよ」
ぼくはふうと息を吐いた。そして頭を上げた石田に、とらじろうの墓石を指し示す。
「あそこにお墓があるから、とらじろうに直接謝って。ぼくはそれをやってくれれば、もうそれでいい。許せないけど、過去にする」
石田が「分かった」と頷いた。そしてとらじろうの墓石の前まで行き、跪いて両手を合わせる。
「とらじろう、本当に、本当にごめん」
とらじろうは答えない。ぼくも「とらじろうは許してくれたと思うよ」なんて、言うつもりはない。命を奪うって、きっとそういうことだ。
「他に、謝らなくちゃならない相手はいないか?」
石田がぼくに尋ねる。ぼくは少し悩んでから、答えた。
「じいちゃんと佐伯さんかな。とらじろうと仲良くしてたから」
「じいちゃん?」
「この家に住んでた人だよ。ぼくはその人から、ここを借りてる」
「ああ、会いそうになって隠れたことある。そう言えば餌、あげてたな。どうやって謝ればいい?」
「朝になったら、ランタン返しにその人の家に行くから、その時に一緒に来ればいいよ」
「分かった。そうする。佐伯には――」
石田が顎に手を当てて考える。そしてしばらく後、ぼくに驚くべき言葉を放った。
「今度、お前に反対運動の紙を返す時に、一緒に謝る」
反対運動の紙。みんなの『森の思い出』。あれを返す。
「あれは、屋上から捨てたでしょ?」
「捨てたのはほとんどただの紙だよ。本物は取ってある」
「なんでそんなことしたの?」
「捨てちゃったらもう仲良くなれないって、無意識で思ったのかもな」
「無意識はいいから、なんで?」
「……残しておけば、もう一回ぐらい、お前のこといじめられるじゃん」
ぼくは石田をにらみ、石田は肩を竦めた。まあ何にせよ、集めた『森の思い出』がまだ残っているという情報は大きい。それはつまり、ぼくは反対運動のお手伝いを再開できるということ。秘密基地を守るために、出来ることがあるということ。
だけど――
「どうした?」
浮かない顔をするぼくに、石田が心配そうに話しかけてくる。ぼくは「何でもない」と首を振った。会話は止まり、石田はまた、ふらっと空を見上げる。
「この星空さ」
石田が、短パンのポケットに手を突っ込みながら呟いた。
「忘れたくないな」
青白い光に照らされる石田の横顔。輝きに満ちた目。ぼくは、同じように天に顔を向けながら答える。
「忘れないよ、きっと」
ぼくは正しい。だって僕は、まだ、あの星空を覚えている。
◆
明け方、石田と一緒にじいちゃんの家に行った。
居間に正座して向き合い、自分の気持ちを全て明かして謝る石田を、じいちゃんは許した。今の気持ちをずっと覚えていればいい。そう言って許した。もしかしてそれは、何よりも残酷な罰なのかもしれないけれど。
「せっかくだから朝飯、喰っていけ。目玉焼き程度だけどな」
じいちゃんが石田に声をかける。石田は「はい」と妙に畏まった感じで答える。らしくなさすぎて、見ていて面白い。
「じゃあ、じいちゃん。ぼくは帰るね」
「おう。またな」
ぼくは別れを告げて、玄関に向かった。すると石田が、ぼくを引き止める。
「お前は喰っていかねえの?」
答えづらい質問。だけど答えづらいと思っていること自体も、何だか申し訳なくて、結局は正直に答える。
「母さんが作ってると思うから。じいちゃんの家の目玉焼きも、惜しいんだけどね」
石田はお母さんに朝ご飯なんて作ってもらったことなんてないかもしれない。傷つけたかもしれない。そんな少し行き過ぎた心配をぼくは抱く。だけど石田はあっけらかんと、ぼくが全く予想していなかったところに喰いついた。
「この家の目玉焼きって、そんなにウマいの?」
「え? いや、ぼくんちと違うから、珍しいだけだよ」
「そうなんだ。どんなの?」
「ぼくんちは半熟で醤油だけど、ここは完熟でソースなんだ」
「あー、なるほど」
石田が頷く。そして何気なく、当然のように、ぼくにとっては凄まじく衝撃的な言葉を口にした。
「うちのは、完熟で塩だったわ」
家庭の味。
家がないと、何回も作ってくれる人がいないと、絶対に生まれない味。愛されていたという証拠。それが石田にもある。石田も、愛されたことがある。
中途半端にあるぐらいなら、ない方が良かったという人間もいるかもしれない。真っ白なまま、新しい世界に踏み出せた方が幸せだったという意見もあるかもしれない。でも、それでもぼくは石田に家庭の味があると聞いた時、泣きたくなるぐらいに安心した。
胸が震える。声も震えそうになる。だけどぼくはどうにか、それを隠す。
「じゃあ、ソースで食べてみなよ。おいしいから」
「おう。じゃあ、またな」
石田が手を振る。ぼくも「またね」と手を振って、じいちゃんの家から出る。嵐の後、明け方の空気はまだまだ湿っていた。ぼくは頭を冷やしながら、石田と分かり合って感じたことを反芻し、そして次にぼくがやるべきことを考える。
考えているうちに、すぐに家に到着した。毎日毎日簡単に開いているはずの扉が、今日はやけに重たく見える。今日は土曜日だ。休日だ。父さんはいるだろうか。そしてもし、いたら、どうすればいいのだろうか。
ぼくは大きく深呼吸をした。ドアノブを握り、右に捻る。ドアはあっけなく開き、「さあかかって来い」とばかりにぼくを受け入れる。
本気の会話は戦い。ぼくはまだ、一番戦わなくてはならない相手と戦っていない。
「ただいまー」
ぼくの戦いは、まだ終わっていない。
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