6-4
石田は答えない。ひたすらにぼくの胸にしがみついて震えている。物凄い音だったから、復帰にはかなり時間がかかりそうだ。
「お前は雷が落ちると、そうなっちゃうんだろ。だから雨が降ってる日や、降りそうな日は、雷が来るかもしれないから、学校に来なかったり途中で帰ったりするんだ。そうなる自分を、誰にも見られたくないから」
石田の背中を撫でる。震えは、少し治まった気がする。
「昼の電話は天気予報だよな。177。あれで昼間に天気を確認して、午後の雲行きが怪しかったら学校を早退してたんだろ。ぼくを殴った時、『雨、降りそうだから』って言ってたもんな。あれ、冗談だと思ってたよ」
耳を澄ます。家を揺らす雨風の音は激しいまま。次の雷も、きっと近い。
「そしてお前の雨宿りの場所は、ここだった」
ぼくは石田の背中に手を回しながら、二人分の上半身を起こした。
「ぼくは晴れてないと来ない。お前は雨じゃないと来ない。だから気づかなかった。ここはぼくの秘密基地だけど、お前の秘密基地でもあったんだ。だからお前は、自分が入れなくなると困るから、ぼくが秘密基地に泊まっていたことを誰にも言わなかった。自分の秘密基地を守ったんだ」
そして雨の日にここに逃げ込むのは、保護施設に行っても変わらなかった。雷が怖いのに教室に悪戯をしかける日に嵐の日を選んだのは、ここに来る予定があったから。ついでだったのだ。そしてそこで――とらじろうと出会った。
「ぼくを見ろ」
石田の両頬を両手で抑える。石田は焦点の合わない目で、ぼんやりと、ぼくではなく視界に映るもの全てを見ていた。まだ、目は真っ黒なまま。
「ぼくを見ろ!」
ぼくは叫んだ。石田の目に輝きが生まれる。助けてくれと縋る目。ぼくが以前、秘密基地で見た、あの目。
「話をするんだ。いっぱい、聞きたいことがある」
石田がこくこくと頷いた。ぼくのシャツを、赤ん坊みたいにギュッと掴みながら。
「どうして、とらじろうを殺した」
最初の質問。これは、これだけは絶対に聞かなくてはならない。だけどその答えは既に、だいたい予想出来ている。
「理由なんて、ない」
やっぱり。本当にぼくの居場所を消しに来たのなら、ぼくは堂々と石田と対立出来るのに、それを許してくれない答え。
「あの日、ここに逃げ込んだら、中に猫がいた。そのうち、すごい近いところに雷が落ちて、興奮した猫が襲い掛かって来た。それからすぐ嵐が止んで、気がついたら猫、瀕死だった。それでおれ、逃げたんだ。わけわかんないまま、めちゃくちゃに逃げた」
たどたどしく説明する石田。ぼくの首を絞めたのと同じだ。パニックの時に襲われて、大げさに反応してしまった。その結果が、あの惨劇。
ぼくは自分の首を撫でた。もし雷が来なかったら、ぼくは本当にあのまま絞め殺されていたのだろうか。考えるとゾッとする。
石田の仕草がいちいち乱暴な理由が分かった。生き物の扱い方を教わっていないのだ。間違って教わっていると言った方が、正しいのかもしれない。
「じゃあ、次の質問だ。どうして、ぼくにだけやたら絡んできた」
石田の潤んだ瞳が、横たわるランタンの黄色い光に照らされて、ゆらりと揺れた。
「やたらと、色々、突っかかって来ただろ。みんなは無視するのに、ぼくばっかり。あれはどういう理由だ。どうしてぼくに目をつけた。説明しろ」
喧嘩の目的は、仲良くなりたいでもいい。納得出来ないわけじゃない。だけど目的が生まれるのにも、理由があるはずだ。ぼくは、そこが知りたい。
石田が息を整える。顔がすごく近くにあるから、生温かい吐息が当たる。
「最初から、気になってた」
「最初っていつ」
「転校初日」
ぼくは眉をひそめた。転校初日なんて、一言も話してない。
「なんで?」
素直に尋ねる。そして石田は、ぼくの頭をガンと叩くような言葉を口にする。
「お前、目が真っ黒だった。だからなんか、気になった」
目が真っ黒。
ぼくの目が、真っ黒。石田の真っ黒な目を飲み込まれそうだと、心底恐ろしいと感じていたぼくの目が、真っ黒。
「嘘だ! ぼくはそんな目、してない!」
「嘘じゃない! その時は本当にそういう目をしてた! みんなおれに注目してるのに、おれのことぜんぜん見てなくて、全部どうでもいいみたいな!」
石田のことをぜんぜん見ていない。全部どうでもいい。ぼくはハッと気づく。そう言えば、石田が転校して来た日は――
父さんと母さんが喧嘩した、次の日だった。
「おれ、母ちゃんによく言われてたんだ。目が真っ黒で、何にも見えてないみたいで、薄気味悪いって。だから同じお前のこと、気になった」
同じ。ぼくと石田が、同じ。
「気になって、機会があればちょっかい出してた。でも佐伯と仲良くなりはじめて、あんな目もあれっきりしなくなったから、やっぱり違うのかなって思った。そんな時、急な嵐からここに逃げてきたら、寝てるお前を見つけたんだ」
嵐の中の出会い。ぼくと石田が、決定的に近づいた日。
「一人でこんな場所で寝てるなんて、絶対におかしいだろ。家族がいたら、普通は出来ないだろ。だから仲間だって思ったんだ。おれは、母ちゃんが彼氏連れてきたら家から追い出されてたから、同じなのかなとか考えた」
よく一人で街をウロウロしている。石田の行動が、次々と理由づけられて行く。
「そしたらやっぱり、ワケありで、おれはお前がさらに気になった。おれのこと、意識させたいって思った。復讐だって、やってる時は気づかなかったけど、きっと口実だ。だって猫を殺した時、おれ、やりすぎたって思った。ずっと嫌われるようなことばっかりしてるのに、これは嫌われるって思った」
石田のぼくのシャツを掴む力が、ほんの少しだけ強くなった。
「そうか。分かった。おれ、お前と仲良くなりたかったんだ」
じいちゃんが話を聞いただけで導いた結論に、石田がようやっとたどり着いた。自分自身のことなのに、こんなにも遅く。
「石田――」
名前を呼ぶ。だけど続く言葉は、雷鳴に遮られた。
石田が甲高い悲鳴を上げた。ぼくの胸に再び顔を埋め、しがみつく力をギリギリと爪が食い込むほどに強める。ぼくは痛みに顔をしかめながら、石田をどうにか受け止める。
「なんでお前、そんなに雷、ダメなんだよ」
また強く震え出した背中を撫でながら尋ねる。石田はぼくの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。
「初めて母ちゃんに思いきりぶたれた日が、こんな日だったんだ」
重たい語り出し。ぼくは耳を塞ぎたくなった。だけど、逃げちゃいけない。石田の剥き出しを受け止めてやらなければ、話をしたことにはならない。
「母ちゃんに、彼氏が来るからお前は出て行けって言われて、おれは雷が怖いってグズった。そしたら家の中に連れてかれて、ボコボコにされて、『雷とこのまま家にいるのどっちが怖い?』って聞かれたんだ。おれ、出て行ったけど、やっぱり雷怖くて、ずっと泣いてた。それから、ダメなんだ。どうしてもダメなんだよ。雷だけじゃなくて、雨が降るだけでも、ちょっとダメなんだ」
話しているうちに、声がどんどん揺れていく。泣いている。ぼくは背中を撫でる手を少し強めた。
「それで、お母さんに酷いことをされたのを思い出すから――」
「違う」
ぼくの言葉を、石田がきっぱりと遮る。ぼくは手を止めた。
「母ちゃんは酷くない。悪くない。おれが悪い」
お母さんは悪くない。石田が悪い。――そんな理屈、あるわけない。だけど石田の声は、真剣だった。
「その日まで、母ちゃんはおれをそんな思いきりぶったりしなかった。でもその日から、ちょっとしたことで本気でぶつようになった。だから全部、おれが悪いんだ」
石田が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの目で、ぼくを真っ直ぐに見つめながら叫ぶ。
「おれがあの日、雷が怖いなんてグズったから悪いんだ!」
耳に届く雨風の音が、消えた。石田の声が心の深いところ反響して、頭の中は光の海に飛び込んだように真っ白になる。
「おれがグズらなければ、母ちゃんはあんな風にならなかった。おれが雷を怖がらなければ良かったんだ。だから、だからおれが悪いんだ。おれが悪いんだよ」
おれが悪い。おれが悪い。石田は繰り返す。ただ自分が選択を間違えただけなんだと主張する。そうでなくては困るみたいに。正しくて幸せな未来が絶対にどこかにあったんだと、信じるみたいに。
それでも「君は悪くない」と、僕なら言う。
君は悪くない。絶対に悪くない。悪いのは運だ。神さまだ。だから自分を責める必要はない。存在しなかった未来に縛られることはない。今ある命を、これから続く人生を、精一杯輝かせることだけを考えればいい。そんな綺麗なことを、僕なら、きっと言う。
だけどぼくはそうしなかった。
同じだ、と思ったから。
「その気持ちは、分かる」
石田の自虐が止まった。ぼくは石田の潤んだ瞳にじっと見つめられながら、たどたどしく言葉を繋げる。
「自分が悪いって思う、その気持ちは、ぼくにも分かる」
ぼくはポケットを探った。そして二つの鍵がついたプテラノドンのキーホルダーを取り出して、石田の前にかざす。
「このキーホルダー、父さんに買ってもらったんだ」
小学二年生の春休み。家族で行った博物館。
「家族で恐竜展に行ったんだ。ぼくが恐竜好きだったから連れて行ってくれた。家族で出かけるの本当に久しぶりで、恐竜も本当に好きだったから、すごい嬉しかった」
ティラノサウルスの骨格標本。次々出てくる恐竜たち。ぼくは、大はしゃぎしていた。
「それで最後に、お土産コーナーがあったんだ。そこでキーホルダー見てたら、父さんに好きなやつ買ってやるから選べって言われた。ぼくはプテラノドンが好きだったから、すぐにプテラノドンを選んだ」
これにする。父さんにキーホルダーを渡すぼく。そしてそんなぼくに、含み笑いで意地悪な質問をする父さん。
「そしたら父さんが『父さんとプテラノドン、どっちが好きだ』って聞いてきたんだ。それでね、いっぱい恐竜見た後で、本当に、本当に興奮してたから――」
ぼくの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ぼく、プテラノドンって言っちゃった」
ずっと、後悔していた。
久しぶりに家族三人でお出かけ。みんな仲良しになる大チャンス。だけどぼくは、そこで父さんにそっぽを向いた。せっかくの大チャンスを、台無しにした。
それから家族の仲はどんどん悪くなる。父さんがさらに家に帰ってこなくなる。たまに帰って来たと思ったら、母さんと喧嘩ばかりしている。「あの女」なんて人が、出てくるようになる。
後になってからぼくは考える。ぼくが迷わずプテラノドンを選んだ時、父さんはどう思っただろう。きっと、きっと、こう思われてしまったに違いない。
ああ、そうか。お前はそうなんだな。
父さんが忙しい中、お前のために時間を作って相手してやっているのに、お前はそんなこと、全く気にしていないんだな。
父さんはお前のために、まだ家族仲良しでいてやろうとしているのに、お前は父さんより、プテラノドンの方が好きだって言うんだな。
お前は、父さんなんか、要らないって言うんだな。
いいよ。分かったよ。お前の気持ちはようく分かった。
じゃあ、父さんも――
父さんも、お前なんか、要らないよ。
「ぼくが――」
ずっと隠していた想いを開放する。心を剥き出しにして、話す。
「ぼくが、あんなこと言わなければ、父さんはぼくが好きで、ぼくも父さんが好きで、家族も、みんな、仲良かったかもしれないのに!」
守る殻のなくなった心が、痛い。痛くて、涙が止まらない。ぼくは、ぼくにしがみつく石田の背中に手を回す。自分も石田にしがみつくようにして、わんわん泣き続ける。
父さんはぼくのことなんか、どうでもいい。ぼくだって父さんのことなんか、どうでもいい。だけど先にどうでもよくなったのは、どっちだろう。きっと、どっちでもない。両方だ。両方が悪いのだ。
だからぼくは、かわいそうな自分を認めるわけにはいかなかった。だってそれは、ぼくのせいでもあるのだから。家族という花瓶にヒビを入れたのは、父さんと母さんだけではない。ぼくも入れた。ぼくも、ヒビだらけの花瓶を作る手伝いをした。
再び、雷鳴が轟く。石田が音を避けるようにぼくの胸に頭を潜り込ませる。ぼくはそんな石田の背中を、ギュウと強く抱きしめる。
石田が、震える声で囁く。
「母ちゃん」
ぼくも、同じように囁く。
「母さん」
母ちゃん、母さん、母ちゃん、母さん、母ちゃん、母さん、母ちゃん、母さん――
ぼくたちは繰り返す。お互いがお互いを聞いていることを信じて、ただ自分に向けて声を出す。ぼくたちは似ていた。同じ場所を秘密基地にしてしまうぐらい同じだった。だからこんなにも、気になって、気になって、しょうがなかったのだ。
ごうごう、ひゅうひゅう。嵐は止まない。だけど不思議と、怖くはない。ランタンの黄色い光がぼんやりと暗闇を照らす中、ぼくたちは泣きつかれて眠るまで、ずっと、お互いを確かめるように抱き合っていた。
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