6-3

 チャンスは、すぐに訪れた。

 仕掛けるタイミングは夜中。その曜日は次の日が休みの金曜日。またとない絶好の機会だ。今まで意地悪ばかりして来た神さまが、ようやく味方してくれた。

 その日、ぼくは学校で明らかにそわそわしていた。委員会の仕事では一緒にいた佐伯さんに「今日、何かあるの?」と聞かれた。あるけど、言えないよ。そんな思わせぶりな返事はしないで、「別に」と素っ気なく答えた。

 家に帰ったぼくは、ランドセルを置いて、すぐさまじいちゃんの家に向かった。インターホンを押すとじいちゃんが出て来て、「どうした?」と眉をひそめる。

 ぼくはグッと顎を引いた。とっても大事な場面だ。気を抜けない。

「あのね、ぼく、じいちゃんに頼みたいことがあるんだ」

「なんだ?」

「今日、ぼくは、じいちゃんの家に泊まることにして欲しい」

 じいちゃんが目線を強めた。悪戯小僧を叱ろうとする先生の目線。

「それは、本当は俺の家には泊まらないってことだよな」

「うん」

「どこに行くんだ?」

「秘密基地」

 ぼくは淀みなく答える。少しでも止まれば、止められてしまうとばかりに。

「とらじろうを殺した子、いるでしょ。あの子が今日の夜、秘密基地に来るかもしれないんだ。そこでその子と話をしたい。でも母さんは絶対に許してくれないと思うから、じいちゃんの家にいることにしてもらいたいんだ。ね、お願い!」

 両手を合わせて頼み込む。じいちゃんは拝むぼくを見下ろすと、やがて、ふうと一つ溜息を吐いた。

「話にならんな」

 分かっていた。最初はたぶん、そうなるだろうと思っていた。だけどいざ耳にしてみるとその言葉は、ずしりと重い。

「誰がそんな話を許すか。どうして俺ならば許すと思った」

「だって、話をしろって言ったのは、じいちゃんでしょ」

「その後に忘れろとも言わなかったか?」

「言ったけど……でもぼくは、その子と向き合わなくちゃ……」

「向き合わなくていいものも世の中にはいっぱいある!」

 いきなり、じいちゃんが叫んだ。ぼくはビクリと肩を震わせる。そしてじいちゃんはその肩を掴み、ぼくと間近に顔を合わせる。

「世の中、優しいことや、優しい人ばかりじゃないんだ。どうしても折り合いがつかないことや、どうしても分かり合えない人はいくらでもいる。そんなものと全部向き合っていたら、お前の方が壊れちまうぞ。いい子だから、無かったことにするんだ」

 じいちゃんは必死だった。ああ、やっぱりじいちゃんは、そうなんだね。心配してくれるのは嬉しいよ。でも――

「ぼくは、あいつと絶対に分かり合えないとは思わない」

 ぼくは退かない。ここで退いたら、きっと、一生後悔する。

「佐伯さんがね、時間は最強だって言うんだ」

 足を踏ん張る。スニーカーの底が、コンクリートに擦れてキュッと音を立てる。

「どんな思い出も、時間が経てば薄れる。だから最強なんだって。ぼくはそれ、あってると思う。だからとらじろうを殺した子のことも、思い出にすれば、いつかは時間が解決しちゃうんだと思う」

 胸を張る。声を張る。嘘だと思われないように。誤魔化しだと侮られないように。

「でもぼくは、この気持ちを、時間に解決させたくない」

 ぼくは心臓に右手を乗せた。ここなんだ。ここが大事なんだと、示すように。

「あいつがぼくを気にしてたみたいに、ぼくもあいつが気になるんだ。このまま、気になったまま、時間が上に積もって埋もれさせちゃうのはイヤなんだ。だからお願い、じいちゃん。ぼくのわがままを許して」

 ぼくはじっとじいちゃんの目を見つめる。こういう時はだいたい、ぼくが先に目を逸らしてしまう。でも今回は、負けない。

「相手は、とらじろうを殺した奴なんだぞ」

 じいちゃんがぼくの肩から手を外した。そして背筋を伸ばして立ち上がり、ぼくを見下ろしながら震える声で告げる。

「お前に椅子を投げて病院送りにして、ナイフでとらじろうを殺す奴なんだ。あんな森の中の家で対峙して、今度はお前が殺されないという保証がどこにある。そうなったら、俺はどうすればいい」

 じいちゃんの身体が、ぶるぶると震えだした。

「お前が遠くに行ったら、今度は、俺はどうすればいいんだ」

 今度は。

 写真で見たじいちゃんの息子の笑顔がぼくの頭の中に浮かぶ。大丈夫だよ。ありえないよ。考えすぎだよ。そんな軽い言葉は、出てこない。

 だからぼくは、ありったけの想いを込めて、言葉を放った。

「それでもぼくは、あいつと話がしたい」

 絶対に、何があっても、折れない。決意を通した背骨を伸ばし、信念だけを放つ口を真一文字に結ぶ。じいちゃんはそんなぼくを、いつもの鋭い先生の目で見据える。

 どれぐらい、見つめあっていただろう。ぼくの感覚ではとても長い時間だったけれど、僕の記憶では案外大したことなかったような気もする。ただ、真剣だった。今までにないぐらい、本当に真剣だった。その見解は僕もぼくも一致している。

 やがてじいちゃんが、ふうと息を吐いて、くるりと踵を返した。

「中に入りなさい。まだだいぶ早いが、夕飯をご馳走しよう」

 家の中に入るじいちゃん。誤魔化されようとしている。そう感じたぼくは、夕ご飯なんて別に要らないと言いかけた。

 その言葉を、じいちゃんの続く台詞が遮った。

「腹ペコで難しいことをしないのは、人生の基本だからな」

 ぼくの動きがピタリと止まった。じいちゃんは玄関に上がりながら、淡々と告げる。

「食っていかないなら、絶対に許さないぞ。食うだろ?」

 ぼくは、大きく、本当に大きく、首を縦に振った。

「うん!」


     ◆


 母さんに今日はじいちゃんの家に泊まると連絡してから、早めの夕ご飯を食べた。そして電気ランタンを借りて、ぼくはじいちゃんの家を出る。

 空は薄い雲で覆われていた。風が強い。早くしないと石田が来てしまう。下手したら、もう居るかもしれない。ぼくは全速力で秘密基地へ向かう。その甲斐があったのか、秘密基地に着いた時には、中には誰もいなかった。

 ぼくは畳の部屋ではなく、その隣のキッチンに体育座りで待機した。コンクリート床のキッチンは冷たくて無機質な感じで、畳の部屋と違って優しくないから、あんまり好きじゃない。だけど今は、そんなことは言っていられない。

 そして夜も深まって来た頃、ガラガラと玄関の引き戸を開ける音が聞こえた。

 ――来た。

 ぼくは息を潜める。このままキッチンに来られたらその後が難しい。石田がここに来ている理由から考えて、裏口も出窓もあるこんな外が近い場所に来ないとは思うけれど、それでも緊張する。本当に来ただけでかなりの大成功なのだから、出来ればこんなつまらないところで躓きたくない。

 ぼくは耳を澄ます。吹きすさぶ風の音に紛れて、ひたひたと足音が聞こえる。そして幸い、畳の間からキッチンへ繋がる扉は開かないまま、足音は止まる。ぼくは息を立てないようにしながら、ほっと胸を撫で下ろした。

 すぐに、朝に見た天気予報通りの激しい雨が降りはじめる。ざあざあ降り注ぐ雨粒を、上から、横から叩きつけられた家の悲鳴が狭いキッチンを満たす。外が近い分、畳の部屋よりも悲鳴が甲高くて不安になる。だけどまだ、出て行くには早い。

 一回だ。

 一回、アレが来たら行こう。

 ぼくは電気ランタンの持ち手をギュッと掴んだ。あと少し、もう少し。心臓がバクバクする。肺が上手く膨らまない。喉の奥辺りの血管が破れそうだ。本気の会話は戦い。ぼくはこれからきっと、人生最大の戦いに赴こうとしている。

 そして戦の始まりを告げる鬨が、ぼくの耳に響く。

 一発目の雷。来た。ぼくは大きく深呼吸をして、電気ランタンのスイッチを入れて、立ち上がる。そして畳の部屋に繋がる扉を、勢いよく開けた。

 扉を開けると、半袖半ズボンの石田が、畳の上で頭を抱えて丸くなっていた。胎児のように膝を折り、手はしっかりと意思を持って耳を塞いでいる。予想通りの光景に、ぼくは不思議な寂しさを覚える。

「……お前」

 石田がぼくに気づいた。耳にやっていた手を外し、お尻を畳につけたまま後ずさる。ぼくはランタンをかざしながら、ゆっくり、その後を追う。

「久しぶり……でもないか。待ってたよ」

「何しに、来た」

「話しに来たんだ。本当のお前と」

 ぼくはゆっくり、一歩ずつ、石田に近寄る。石田は怯えた顔でぼくを見ている。その目が生きているのか死んでいるのか、目がランタンの光に慣れていなくて良くわからない。

「来るな」

 石田が後ずさるのを止めて懇願する。ぼくは構わず、歩みを進める。

「来るなって、言ってんだろお!」

 石田が立ち上がった。しまった。予想外の行動にぼくは怯む。石田は頭からぼくに突進し、ぼくはランタンを手放して倒れる。そして石田はそのままぼくに馬乗りになり、両手をぼくの首にかけた。

 ぼくは石田の両腕を掴む。肌が汗だくなのが、手のひらに伝わるぬめりで分かる。だけど、その腕はビクともしない。鉄の棒みたいに頑強で、動く気配がない。

 石田が指をぐいぐいぼくの肌に食い込ませる。絞めているのではなく、首に穴をあけようとしているかのよう。ぼくは足をばたつかせる。家の中は真っ暗なのに、目がチカチカして視界が真っ白になる。息が、息が出来ない。苦しい。苦しい。命が、身体に、入って、こない。

 助けて。

 助けて、母さん。

 意識を手放しかける。真っ白の先の真っ黒が、すぐ傍に迫っている。

 だけど次の瞬間――

 世界を引き裂くような落雷の音が響いて、石田の手が緩んだ。

「ゲホッ!」

 ぼくは咳き込んだ。そして咳き込むぼくの胸に、どさりと石田の上半身が倒れて来る。上から吊っていた糸が切れたような倒れ方。ぼくが秘密基地に泊まった時に見た石田と、全く同じ。

 ぼくは呼吸を整えながら、ぼくに甘えるように縋りつく石田の背中を撫でる。石田はガタガタ震えていた。お腹の下が生温かい。どうやら、石田が漏らしているようだ。

 やっぱりそうだ。ぼくの推測は、正しかった。

「石田」

 ぼくは石田の背中を撫でながら、優しく語りかけた。

「お前、雷が怖いんだな」

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