6-2

 次の日の放課後、ぼくは、石田が保護されているという施設に向かった。

 施設は、一応は歩いて行けるけれど、子どもの足では遠い場所にあった。四角くて大きな建物に入り、「友達に会いに来た」と受付の人に話をすると、しばらく待たされた後にソファと机だけがある絨毯の部屋に案内された。

 ソファに座り、石田を待つ。何を話そう。何から話そう。ずっと色々考えていたけれど、答えは出なかった。やがてチョコレート色の扉がギィッと開き、ぼくは覚悟を決める。もういい。出たとこ勝負だ。

 だけど扉から出て来たのは石田ではなくて、髪の毛をお団子にまとめた、丸い輪郭の若いお姉さんだった。

「はじめまして」

 お姉さんがぼくの向かいに座って、頭を下げる。そしてお互いに自己紹介。お姉さんはケースワーカーという人で、石田の担当らしい。要するにここでの石田の保護者ということだ、とぼくは認識した。まあ僕から見ても、そんなに間違ってはいない。

「あの、ぼく、石田に会いに来たんですけど……」

 おそるおそる尋ねると、お姉さんは首を横に振った。

「君、隆聖君にターゲットにされた子でしょ。会わせるわけにはいかないわ」

「そんな。ぼくは、石田と話がしたいんです」

「話して、どうするの?」

 お姉さんがじっとぼくを見る。ぼくはつい、目を逸らしてしまう。

「分かりません。でも、話さなくちゃいけないんです。このまま、ぜんぶ、過去にしちゃダメだって、そんな気がするんです」

 めちゃくちゃだ。ぼくは自分でもそう思った。だけど、それ以上の言葉は出てこなかった。そしてお姉さんはぼくの言い分を聞いて、柔らかく笑う。

「優しいのね」

 優しい。そうだろうか。むしろ、逆だと思う。心を剥き出しにして話をするのは、きっと厳しいことだ。

「隆聖君とはお話出来ないけど、私となら構わないわ。聞きたいことがあるなら、何でも聞いて。話せることなら、話すから」

 それじゃあ意味がありません。浮かんだ言葉を飲み込んで、ぼくは質問を投げる。

「石田はあんなナイフ、どこで手に入れたんですか」

 お姉さんの表情が曇る。そんな本気の質問じゃないのに、答えにくいところをついてしまったみたい。

「お父さんが残してくれたものなんだって。一緒にキャンプに行った思い出がある、大切なナイフだって言ってた。だから、捨てられなかった。手の届かないところには置いたつもりだったんだけど、盗み出されちゃったの。ごめんね」

 ごめんね。ぼくは膝の上に置いた手を軽く握った。あなたのせいじゃありません。ぼくのせいです。ぼくが、石田とちゃんと話をしなかったから。

「他に、知りたいことは無いの?」

 俯くぼくに、お姉さんが尋ねる。だけど答えられない。一つ質問して分かった。聞きたいことはいっぱいあるけれど、知りたいことなんて何もない。触れたいんだ。だからお姉さんでは、どうしても意味がない。

 やっぱり石田を出してもらおう。ぼくは顔を上げて口を開く。

 部屋の扉が、勢いよく開いた。

「よー、ひさびさ」

 石田。ぼくとお姉さんが、二人揃って硬直した。

「おれに会いに来たんだって? 何しに来たの?」

 石田がへらへら笑いながら、ぼくに話しかけてきた。すぐに答えられないぼくの返事を待たないで、石田は続ける。

「あ、分かった」

 石田が右手のグーを左手のパーに垂直に叩きつける。肉と肉のぶつかり合う音が、部屋に鈍く響いた。

「捨てられたんだろ」

 石田が、ぼくを指さしながら、口元を大きく歪ませた。

「そうだろ。また捨てられたから、おれにかわいがってもらいに来たんだ。しょうがねえなあ。かわいがってやるよ」

 隆聖君。お姉さんが石田を制する。だけど石田は、止まらない。

「猫が死ぬ時の話でもするか? 猫って刺されるとギニャーって、すっごい声出すんだぜ。ギニャーって。本当にもう、すっごいの」

 隆聖君! お姉さんの声が激しくなった。石田がけらけらと真っ黒な目を細めて笑う。ぼくはソファに座りながら、グッと拳を握りしめる。

 ――何を期待していたんだ、ぼくは。

 こういうやつなのは、こうなるのは、分かっていたじゃないか。ぼくの手には負えないって、じいちゃんにも言われていたじゃないか。話せばどうにかなるなんて、どうして思ってしまったんだろう。あの真っ黒な目に輝きが宿ることなんて、永遠に――

 ――いや。

 ある。一回だけ。石田の生きている目を、必死な目を、ぼくは見たことがある。

 ぼくしか知らない石田が、まだいる。

「君、大丈夫?」

 お姉さんの声。ぼくはハッと顔を上げた。石田は追い出されて、既に部屋の中からいなくなっていた。

「ごめんね。でも、分かったでしょ。もう君は、あの子に関わらない方がいい」

 お姉さんは、石田には普段から散々困らされているんだろうなというのが分かる、疲れた顔をしていた。

「あいつ、いつまでここにいるんですか」

 石田に会える機会が、あとどれぐらいあるかの確認。とにかく長い方がいい。そんなぼくの希望を、お姉さんはいとも簡単に打ち砕く。

「分からないけど、そんなに長くないと思う」

 そんな。衝撃を受けるぼくに、お姉さんは申し訳なさそうに告げた。

「心が難しい子はね、ここより、もっと専門的なところに行った方がいいの。今はまだ色々あるから難しいけど、片付いたら、そっちに移ると思う」

 心が難しい子。もっと専門的なところ。つまり石田は、石田みたいな子どもをいっぱい見て来ているはずのお姉さんでも、手に負えないということ。

 ぼくに、出来るのだろうか。

 あの生きている目をした石田に、ぼくはもう一度、会えるのだろうか。

「一つ、知ってたら教えてもらいたいことがあるんだけど……」

 お姉さんが一本、指を立てて、ぼくの前に示した。

「施設でも平日は普通に勉強の時間とか、休み時間とかがあるのは知ってる?」

「知りません」

「そう。じゃあ覚えておいて。あるの。それで隆聖君、お昼休みに、近くの公衆電話で電話かけてるらしいの。学校でもやってたんでしょ。どこにかけてるか、知ってる?」

 ぼくは首を横に振った。お姉さんが「そう……」と残念そうな顔をする。ぼくは何だか申し訳なくなって「すいません」と謝った。


     ◆


 施設を出て、ぼくは秘密基地に向かった。

 住宅街は、もう夕方も近いのに、アスファルトが昼間のうちに吸い込んだ熱を吐き出して、歩くたびに汗が噴き出るほど暑かった。夏を越えて真夏が近づいていることが良く分かる熱気。だけどマムシの森に着くとその暑さもすっと消えて、秘密基地につく頃には、そよそよと木々を撫でる風を涼しいと感じるぐらいになった。

 秘密基地の雨戸を開けて、縁側に座った。もうとらじろうはいないけれど、そうやっていると一番、考えがまとまる気がした。そしてぼくは、ぼくしか知らない石田を引き出す方法について、懸命に思考を巡らせる。

 あの石田に会わないと、ぼくは石田と話すことが出来ない。でも石田のことをもっと分からなければ、ぼくはあの石田に会うことは出来ない。

 石田について分からないことが、まだまだ沢山ある。ケースワーカーのお姉さんが言っていた電話の話もその一つだ。不思議で、意味不明で、学校だけじゃなくて施設に行ってまで続けている行為。そこには絶対に何か意味がある。

 学校に来なかったり、途中で帰ったりする日があるのも不思議だ。毎日来ないならまだ分かる。でもそのときどきで違うとなると、そこには何か明確な基準があるような気がする。施設を脱走しているという話も、もしかして、同じ基準なんじゃないだろうか。ぼくの父さんを尾行していたのもあるのだろうけど、それだけではないと思う。

 基準。いなくなる理由。その原因。

 それが、電話?

 いや、違う。それだと学校に来ない日の説明がつかない。体調不良にしてはあまりにも多すぎるし、学校が嫌いにしては中途半端すぎる、あの無断欠席が。

 給食で嫌いなものが出る。イヤな授業がある。ぼくは色々と可能性を探った。でも全く答えは出てこない。そもそも施設も脱走しているのだから、原因は学校にはない。もっと別のところにあるのだ。

 ぼくは一度、大きく深呼吸した。森の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、こんがらがった頭をすっきりさせる。

 電話とか、学校の無断欠席とか、そういう誰でも知っているようなところから探ろうとしてはダメだ。ぼくだけが知っている石田から、石田を分からなくてはならない。

 誰も知らない、ぼくだけが知っていること。ぼくが秘密基地に泊まった日、石田が現れたこと。全身をずぶ濡れにして、玄関で佇んでいたこと。いきなり倒れ込んで、ぼくに助けを求めるような視線を送ってきたこと。生きた目をした石田が、たしかにいたこと。

 あの日、どうして石田はここに現れたのだろう。ぼくを追いかけて来たわけではない。それが絶対に違うのは、その後の態度を見れば分かる。あいつはここがぼくの秘密基地だと知らなかった。だから知ってから、それをネタにぼくをからかった。ぼくの大事なものが秘密基地だと分かったから、そこを責めて、ぼくを痛めつけようと――

 ――違う。

 頭の中にかかっていた靄が、少し晴れた。違う。そうじゃない。だって石田は、あの夜のことを誰にも言っていない。本当にぼくを痛めつけたいならそれを明かせばいい。夜中に一人でこんな場所に泊まっていたなんてことが明らかになれば、きっと問題になる。泊まれる場所があるから、秘密基地があるから悪いという話になれば、例えば鍵を新しくして誰も入れないようにしようとか、そういう話になる可能性もある。そうなっていないのは、いまだにその事実が石田一人の中にしまわれているからだ。

 本当は仲良くしたかっただけだから手加減した。そういうことなのだろうか。でもぼくに椅子を投げて、ぼくを裸にして土下座させて、ぼくにナイフをつきつけて、教室にぼくの父さんの浮気写真を貼って、最後にはぼくの友達のとらじろうを殺すようなやつが、手加減なんてするだろうか。そうじゃなくて、もっと、もっと単純に――

 あいつも――


 頭の中に、稲妻が走った。


 パッと激しい光で脳みそ全体が照らされて、その中に答えが見えた。ぼくはその一度見たその答えを見失わないように、慎重に、慎重に歩み寄る。そしてもう間違いないというところまで近寄った時、ぶるりと、身体が大きく震えた。

 そうか、そうだったんだ。あいつの行動の理由。あいつの生きている目の引き出し方。全てが分かった。後はチャンスを待てばいい。あの目をした石田に会える日が来るのを、ぼくは待てばいい。

 だけど――

 ぼくは玄関の扉に目線を向けた。扉に嵌ったすりガラスを通して、ぼんやりとした光が靴置き場を照らしている。

石田の謎は解けたけれど、別に気になることが生まれてしまった。こっちの問題はどうしよう。――いいや。とりあえず、石田のことを片付けてから考えよう。

 ぼくは空を見上げた。目に優しい薄い青。石田がこの街にいるうちにチャンスが来ますように。ぼくは両手を組み、空の向こうで輝いているはずの星に祈った。

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