5-4
ぼくは、じいちゃんの家に行くことにした。
教室の悪戯について聞いたじいちゃんは、ぼくの家にも学校にも行きたくないという気持ちを分かってくれた。でもこれから嵐が来る。この秘密基地に、ぼくを一人で置いて行くわけにはいかない。だからじいちゃんは、ぼくを自分の家に連れて行くと言った。
「イヤなら無理やりでも、お前をお前のうちに連れて行くぞ。土曜だから、うちの人もいるんだろう?」
じいちゃんはそう言ってぼくを脅した。最初にじいちゃんの家に行った時も、こんな風に脅されたな。ぼくはそんなことを思い返しながら、じいちゃんの提案に頷いた。
佐伯さんは、学校に戻って事情を説明することになった。秘密基地のこと、先生には言ってもいいけれど、そこから先に広めないようお願いしておいてほしい。そう頼むと、佐伯さんは「任せて」と胸を張って、学校に戻って行った。
「いい子だな」
じいちゃんが佐伯さんの背中を見ながら呟いた。ぼくも、僕も、そう思う。いい子すぎるぐらいに、いい子だ。だからときどき、もやっとする。
とらじろうがご飯を食べ終える頃には、風がかなり強くなっていた。枝葉や木じゃなくて、森全体が揺れている感じする。ぼくは、とらじろうを置いて行くことが不安になって、じいちゃんに声をかけた。
「ねえ、じいちゃん。とらじろうも連れて行こうよ」
とらじろうも行きたいでしょ。ぼくはそんな風にとらじろうを見やる。だけどとらじろうは、にゃあと一つ鳴くと、いつも通り藪の中に消えてしまった。
「余計なお世話、ってとこだな」
淡々としたじいちゃん。だけどぼくは、不安がぬぐえなくて、とらじろうが消えて行った藪を見つめ続ける。
「玄関を少し開けたままにしておこう。そうすれば、入りたい時に入れる」
じいちゃんの提案に、ぼくはこくりと頷いた。とらじろう、無理しないでね。危なかったら、すぐに家に入っちゃってね。心の中でとらじろうに語りかけながら、ぼくはじいちゃんと一緒に、秘密基地を離れた。
じいちゃんの家に着いた途端、それを神さまが見ていたみたいに、ものすごい雨が降り始めた。じいちゃんは「こりゃあ、凄いな」と呟くと、居間に行ってテレビをつける。そしていつまでもちゃぶ台のそばで立っているぼくを見て、不思議そうに問いかけた。
「どうした? 座りなさい」
ぼくはもじもじしながら、自分の来ている服の裾を引っ張って見せつけた。
「体操着だから、座ったら、汚れちゃうよ」
体育の後、着替える前に学校から脱走したぼくの服装は体操着。体育館じゃなくて校庭の授業だったから、地べたに座ったりして土がいっぱいついている。誰も住んでいない秘密基地はともかく、こっちの家は、やっぱり汚しづらい。
「気にするな。俺は気にしないぞ」
「でも……」
ためらうぼく。じいちゃんが、そんなぼくを見て、すっと立ち上がる。
「ちょっと待ってろ」
じいちゃんが奥の部屋に消えた。そしてすぐに、ジャージを持って再登場する。
「これに着替えろ。かなり大きいと思うが、外に出るわけでもないし、いいだろう」
さすが元先生。ぼくは受け取った緑色のジャージをしげしげと眺める。胸にぼくの知らない中学校の名前が刺しゅうされている。じいちゃん、高校の先生じゃなかったっけ。まあ、いいか。
体操着を脱いで、ジャージに着替える。言われた通り、ぶかぶか。ぶかぶかって言葉じゃ足りないぐらい、ぶかぶか。足も手も袖をまくらないと指先がちょっと出るだけ。動きづらいけど、まあしょうがない。
着替えたぼくは腰を下ろした。すると座っていたじいちゃんが、ぼくの代わりみたいに立ち上がる。
「家の電話番号を教えろ。親御さんに連絡しなくちゃならん」
来た。覚悟はしていた。けれど、やっぱり、避けられるなら避けたい。
「どうしても、連絡しなくちゃダメ?」
「ダメだ」
取り付く島もないじいちゃん。ぼくは黙りこくる。
「あのな、このままじゃあ俺は誘拐犯だ。お前の面倒を見るどころじゃない」
「佐伯さんが学校に説明してるから、大丈夫だよ」
「そんなわけあるか。放っておけば乗り込んで来るぞ。まだ帰りたくないんだろ?」
その通りだ。もやもやしたものがいっぱい自分の中に溜まっていて、これを忘れるか、どこかに吐き出すまで、帰りたくない。
そしてぼくは吐き出すなら、母さんじゃなくて、じいちゃんがいい。母さんはきっと父さんのことを一番の問題にする。でもぼくが吐き出したいのは、そこじゃない。
「……電話する前に一個だけ、お願いしてもいい?」
「なんだ。言ってみろ」
「たぶん母さんが出ると思うんだ。それで、母さんがぼくを今すぐ帰せって言ってきても、じいちゃんには断って欲しい」
じいちゃんがぼくを見る目に力がこもる。ぼくもグッと顎を引いて、じいちゃんと強く目線を合わせる。
「じいちゃんと話したいことがあるんだ。それを話すまで帰りたくない。だからお願い。母さんが何を言っても、ぼくが帰るって言うまで、ぼくを家に帰さないって約束して。話をしたら、ちゃんと帰るから」
じいちゃんの鋭い目。心の裏側までを見透かされそうな先生の目。その目にぼくの裏側を見透かしてほしい。ぼく自身でも分からない気持ちの根っこを、じいちゃんに掘り起こして欲しい。
だからお願い、じいちゃん。ぼくを見捨てないで。
無言のじいちゃん。無言のぼく。大粒の雨がガラス窓に叩きつけられる固い音が、その沈黙を埋める。やがて、カメラのフラッシュが焚かれたように閃光が部屋の中を走り、ゴロゴロと空の鳴き声が後に続く。
「この嵐じゃあ、どうせしばらくは帰れないだろ」
じいちゃんが、優しく笑いながら言葉を続ける。
「約束するよ。お前の気が済むまで、何時間でも、何日でも、話をしてやる。だから、安心しろ」
何時間でも、何日でも。じいちゃんの言葉はいつも温かい。温かくて、泣きたくも、笑いたくもなる。とりあえず今は、笑ってお礼を言おう。
「ありがとう」
◆
じいちゃんが電話をかけると、やっぱり母さんが出た。そしてどうやら、佐伯さんと学校を通してすでに話を聞いていたようだった。説明しようとしたじいちゃんが、遮られたみたいになったから、間違いない。
「はい……彼は家に帰りたくないと言っておりまして、外もこんな天気ですし、しばらく置いてやりたいと思っているのですが……はい、それは分かります、ですが彼の気持ちを無視して強引に連れ帰ってもですね……」
じいちゃん、頑張って。電話の子機に向かって低姿勢で語るじいちゃんに、ぼくは無言の応援を送る。
「名前ですか。田原幹久と申します。やましいところはございませんので、住所、電話番号、全ての情報を開示いたします。ですから……」
そこで、ぴたりと会話が止まった。じいちゃんは、しわの多い、難しい顔。
「はい。分かりました。では、代わります」
じいちゃんはそう言うと、電話の子機をぼくに寄越した。
「お前に代わって欲しいそうだ。自分の口で話をしなさい」
ぼくは右手で子機を受け取った。結局、ぼく次第になったようだ。しっかり、自分の気持ちを伝えなくちゃならない。
「もしもし。母さん?」
手が震える。ぼくは電話機をしっかり支えようと、空いている左手も添える。母さんから言葉が帰って来たのは、ちょうどその時。
「学校であったこと、聞いたよ」
黒板に貼りだされた父さんと「あの女」の写真が、ぼくの頭に浮かぶ。
「ごめんね。父さんとは今日、しっかり話をするから」
「別に、大丈夫だよ。知ってたし」
「そっか。そうだよね。当たり前だよね。そういう風に、してたもんね」
そういう風にしていた。その台詞を、父さんが家に帰らないことだろうとぼくは解釈する。でも本当は、母さんがぼくに聞こえるように父さんを責めていたことなのだろう。僕にはあれが、ぼくを味方につけようとした母さんの策略なのだと、何となく分かる。
「家に帰りたくないのは、そのせい?」
母さんの質問。ぼくは電話では伝わらないのを忘れて、ふるふる首を振る。
「違うよ。今、お世話になってる人と話したいことがあるんだ」
「母さんじゃダメなの?」
ぼくは、迷わずに答えた。
「ダメ」
母さんは近すぎる。父さんの問題と切り離して考えられない。だから、ダメだ。
「……分かった。あんまり迷惑かけちゃダメよ」
許可が下りた。やった。ぼくは弾んだ声と共に頷いた。
「うん」
「いつ頃、帰って来るの?」
「分からないけど、天気もすごく悪いし、止むまではこっちにいたい」
「夜遅くまで止まないわよ」
「じゃあ……泊まるよ」
ぼくはちらりとじいちゃんを見た。じいちゃんは、無言で首を縦に振る。
「そっちの人はそれでいいって言っているの?」
「うん」
「そう。なら、いいわ。母さんは今日、父さんと二人でお話する」
話がまとまった。ぼくは「ありがとう」と告げ、変な流れになる前に「じゃあ電話、戻すね」と会話を打ち切ろうとする。
その時、電話の向こうから、今までで一番しっかりした声が届いた。
「母さん、頑張るから」
独り言みたいな言葉。実際、独り言だったのかもしれない。自分に言い聞かせていただけだったのかもしれない。だけどぼくは、たしかに聞いた。
「夏休みは、父さんと三人で旅行に行こうね」
父さんと母さんと三人で旅行。いつぐらいから行ってないかな。思い返そうとして、思い出せなくて、止めた。
「うん。分かった」
楽しみにしている。それが正解なのは分かったけれど、出てこない。ぼくは、口をもごもごさせながら、じいちゃんに電話機を返した。
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