5-5
じいちゃんはそれから母さんとしばらく会話を交わし、「お任せ下さい。では」と言って電話を切った。ぼくは待ってましたとばかりに、じいちゃんに話しかける。
「じいちゃん。話なんだけど――」
いきなり本題に入ろうとするぼく。だけどじいちゃんは、すっと手のひらをぼくに向け、それを制した。
「先にご飯にしよう。昼、まだ食べていないんだろう?」
「え。でも……」
「腹が減っては戦が出来ぬ。知らないか?」
「知ってるよ。でもぼく、別に戦いたいわけじゃないし」
「戦いさ。本気の会話は戦いだ。それに空腹の時はな、何をやってもダメになるものなんだよ。腹ペコで難しいことをしないのは人生の基本だ。覚えておけ」
いきなり先生になるじいちゃん。こうなるとじいちゃんは、ぼくの話なんて聞いてくれない。ぼくは「はーい」と答え、じいちゃんは「よし、待ってろ」とそのままキッチンに向かった。
じいちゃんは、オムライスを作ってくれた。黄色い卵の中にケチャップで炒めたご飯が包まれているのは、母さんのオムライスと一緒。だけど母さんのオムライスと違って、中があんまりとろとろしてない。
「オムライスも、家庭の味って出るのかな」
最初に来た時に食べたしょっぱい卵焼きのことを思い出しながら、ぼくは呟く。じいちゃんが、その呟きに喰いついた。
「出るだろうな。お前の家のオムライスと違うか?」
「うん。ぼくんちは、もっと中がとろとろだよ」
「そうか。久しぶりに作ったから、上手く出来なかった。悪いな」
「とろとろにするのは難しいの?」
「難しい。お前のお母さんはよく頑張っているということだ」
そうか。難しいのか。いつも普通に作ってもらっているけど、大変なんだな。ぼくはオムライスを頬張りながら母さんに感謝する。だけどそのうち、別のことを考え出して、手がぴたりと止まった。
石田は――
あいつは、お母さんにとろとろのオムライスを作ってもらったこと、あるのかな。
「……どうした?」
スプーンを少し浮かせて止めたぼくに、じいちゃんが声をかける。食べなくちゃと思うけれど、一度考えはじめると、考えは連鎖して止まらない。頭の中が石田のことでいっぱいになって、ぼくはぼうっとスプーンを見つめ続けた。
話そう。お腹も、それなりには膨れた。
「じいちゃん。ぼく、教室に悪戯した犯人、知ってるんだ」
ぼくはスプーンを置いた。カタン。硬い音が、雨音に溶けて飲まれる。
「お母さんにいじめられてた子の話、したでしょ。あの子なんだ。復讐なんだって」
「復讐?」
「うん。ぼくのせいで、お母さんと一緒に住めなくなったから、その復讐」
――おれの母ちゃんを返せ!
絶叫と共に突き付けられたナイフ。鈍く輝く刀身と、石田の真っ黒な目。ぼくはあの場から逃げた。とても向き合うことが出来なかった。だけどあれは全て、ぼくが引き起こした結果。
「じいちゃん、前、ボロボロの花瓶が割れた時、ボロボロにした人じゃなくて、最後に割った人が壊したことになるって言ってたでしょ。だから誰も花瓶を割りたがらないって。あれなんだよ。ぼくは、花瓶を割っちゃったんだ」
認めたくない。でも、認めなくちゃいけない。石田の家族を壊したのは、ぼくだ。
「本当にボロボロの花瓶だから、見てるだけでこっちが辛くなる花瓶だから、割ってもいいと思った。でもその子にとっては大切な花瓶だったんだ。ぼくは、ぜんぜん気づかなかった。違う。考えもしなかったんだ。ぼくはただ、その子のことを――」
小さく、だけど深く、息を吸う。口にしたくない言葉を言おうとする時、喉にまとまわりつくねばねばした空気を飲み込み、声を吐き出す。
「かわいそうだと思った」
ぽろりと、涙が一つこぼれた。ああ、ぼくはなんて自分勝手なやつなんだ。自分がされて一番イヤなことを石田にして、石田を傷つけて、そして今、それを許してもらおうとするみたいに、自分のために泣いている。
「ぼくは、自分はかわいそうだと思われるのがイヤなくせに、その子をかわいそうだと思った。一方的に、勝手に、気持ちを押し付けた。それでその子のことを本当に傷つけた。どうしよう。あいつ、もう、ぼくのことを許してくれないよ」
涙が止まらない。母さんの前で石田のことを思って泣いた時より、自分のために泣いている今の方が、絶対に泣いている。結局、ぼくは、ぼくが一番大事なんだ。
石田のことを救いたいなんて嘘だ。ぼくは単に、石田の傷ついた身体を思い出したくなかった。ふとした時、石田は今もお母さんにいじめられているのかなって考えて、そのたびにあざと腫れだらけの痛々しい身体を思い出すのがイヤだった。ぼくは、ぼくの気持ちを一番に考えて、石田の家族を壊した。
「ぼくはどうすれば良かったの? ぜんぶ見なかったことにして、アイツはお母さんにいじめられ続けて、それが一番良かったの? ぼくのしたことは、間違ってたの?」
涙の向こうにじいちゃんの形が見える。ぼんやりしていて、表情は分からない。
「教えてよ。ぼくには、分からないんだ」
ぼくはじいちゃんに答えを委ねた。涙を拭い、全身から力を抜いて、だらりと腕を垂らす。そしてじいちゃんは、小さな声でポツリと呟いた。
「他人の花瓶を勝手に壊したんだ。まあ見方によっては、間違っていたかもな」
やっぱり。目に、じんわりと新しい涙が浮かんだ。だけどじいちゃんは少し身を乗り出しながら、すぐに次の言葉を投げかける。
「お前は、俺のことが好きか?」
いきなり話が変わった。戸惑いに、涙が引っ込む。
「好きだよ」
「そうか。俺もお前のことは好きだぞ」
全く脈絡のない変な会話。そしてじいちゃんはいきなり、話を元に戻した。
「だけど俺は、お前のことを、しょっちゅうかわいそうだと思っている」
ぼくのことがかわいそう。教室で向けられたたくさんの哀れみの目を思い出し、息が苦しくなる。だけどじいちゃんが、それとはぜんぜん違う、ぼくを優しく見守るような目をしていることに気づいて、その息苦しさは消えた。
「最初に飯を喰わせたのも、あの家をやったのも、今こうやって、家に連れて来て話をしているのも、全部そうだ。かわいそうだと思うからやっている。それに――」
じいちゃんが、人差し指でぼくを指さした。
「お前も、俺のことをかわいそうだと思っているだろう」
ぼくの肩がビクリと上下する。テレビ台の上の家族写真に見つめられた気がした。ぼくは縮こまり、じいちゃんは笑みを浮かべる。
「それでいいんだよ。俺はお前をかわいそうだと思う。お前は俺をかわいそうだと思う。そして俺はお前が好きで、お前も俺が好き。それで何も困ることはない。大事なのは、正しいか正しくないかじゃない。嬉しいか嬉しくないかだ」
正しいか正しくないかじゃなくて、嬉しいか嬉しくないか。いつか、じいちゃんから聞いた言葉。
「正しい、正しくないは変えられない。だけど、嬉しい、嬉しくないは、変わる」
じいちゃんが姿勢を正した。背筋を伸ばして、キリッと眉を吊り上げ、先生の顔でぼくに告げる。
「話をするんだ」
じいちゃんは強く言い切った。自分が絶対だと思うことを話す人間の声。
「どうしてもお前が、花瓶を割った自分を許せないなら、その子と話をしなさい。お互いの心を剥き出しにして話し合いなさい。今、俺とお前がやっているように」
ぼくと石田が、ぼくとじいちゃんみたいにお話。ぼくはその光景を想像する。そしてぼくを険しい顔でじっと見つめるじいちゃんを見て、思う。
――厳しいなあ。
じいちゃんは、ぼくは間違っていないとは言わない。ぼくは悪くないとは言わない。その代わり、話をしろと言う。ぼくを痛めつけて、恥ずかしい目に合わせて、飲み込まれそうな真っ黒な目で笑う相手と、全てを剥き出しにして語り合えと言う。
厳しいなあ。生きるって、厳しいんだ。厳しすぎて、また涙が出てくる。
「別に逃げても構わない。話しても分かり合えないこともある。偉そうに言っている俺だって、数えきれないほどの人間を傷つけてここまで来た。お前がどういう道を選ぼうと、お前の自由だ」
じいちゃんが手を伸ばした。そしてぼくの涙を拭いながら、語りかける。
「だから、もう泣くな。お前が悲しいと、俺も悲しい」
無理だよ、じいちゃん。ぼくはとうとう、声を上げて泣きはじめた。
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