5-3
秘密基地に着いたぼくは玄関に飛び込み、雨戸も開けないで暗い家の中で丸くなった。優しい匂いが全身に張り詰めていた緊張をほぐす。がむしゃらに走り続けて溜まっていた、だけど忘れていた疲労が、心地よく身体に蘇る。
ああ、やっぱりここは、ぼくの回復ポイントだ。家のこと、学校のこと、父さんのこと、母さんのこと、石田のこと、佐伯さんのこと、ぜんぶ忘れて、ずっとここにいたい。昼はとらじろうと遊んで、夜は星を見て、ここで暮らしていきたい。
しばらくして、ぼくは少し落ち着きを取り戻した。起き上がって雨戸を開けて、縁側に座って、曇りだけどひなたぼっこ。いつもみたいにとらじろうが出て来て、ぼくに擦り寄る。ぼくはとらじろうを膝に乗せて、柔らかい毛並みを撫でつける。
そうしていると、いつもとちょっとだけ、違うことが起きた。
いつまで経ってもとらじろうがぼくの膝から離れない。いつもならすぐに「もういいでしょ」と離れてしまうのに、今日はずっと、撫でられるままになっている。
「今日は食べるもの持ってないよ、とらじろう」
分かってるよ。そう答えるみたいに、とらじろうのひげがピクピク動く。
「……慰めてくれるの?」
さあ、どうだろうね。とらじろうは、今度は何も答えない。
「優しいね、とらじろう」
ぼくは笑う。ぜんぜんそんなことはないのに、本当に久しぶりに笑った気がした。きっと、身体だけでなく、心もとても疲れていた。とらじろうを撫でるたび、その疲れが、手の動きに合わせて流れて行くような感じがした。
その時、森の中から足音が聞こえた。
とらじろうがぼくの膝から離れる。足音は性急で、走っているのが分かる。とらじろうに昼ご飯をあげに来たじいちゃんじゃない。ぼくの身体が、緊張に包まれた。
そして現れた佐伯さんを見た時、ぼくの身体に張り巡らされていた緊張は、全て、心の疲労に変わった。
「やっぱり、ここにいた」
佐伯さんが息を切らしながら近寄って来る。あんまり、顔を見たくないし、見られたくない。ぼくは首を下に向けて、地面を見つめながら、佐伯さんに問いかけた。
「学校はどうしたの」
「早退して、抜けて来ちゃった。凄い探してるんだけど見つからないみたいだから、ここにいるんだろうなって思って。でも秘密基地は秘密だから、言えないでしょ。だからわたしだけ来たの。心配だから」
心配。ああ、そうだよね。佐伯さんはそういう子だよね。友達のために学校を抜け出して一生懸命になる。そういうことが出来る子で、そういうことが好きな子だよね。
でもぼくはそんなの、求めていない。
「佐伯さんは、どうしてぼくにそんなに優しいの?」
答えの分かっている質問をぼくは投げる。まるで、佐伯さんを試すみたいに。
「大事な友達で、仲間だもん。優しくするのは当たり前――」
「違うでしょ」
ぼくは佐伯さんに最後まで台詞を言わせない。代わりに、自分が言い切る。
「佐伯さんは、ぼくがかわいそうなだけでしょ」
ざあ。森の木々が嵐の前の強い風に揺れた。佐伯さんの反論は、ない。
「佐伯さん、ぼくがかわいそうな時、すごく特別な笑顔をしてたよ。友達が少ないとか、家族にかまってもらえないとか、そういう時、いつもおんなじ顔で笑ってた。今だって佐伯さんは、ぼくがかわいそうだからここにいるだけなんだ」
そして今もきっと、しっとり笑っている。おとなが子どもに向けるような笑顔で、ぼくを見ている。だからぼくは、顔を上げられない。
「ぼくは、かわいそうじゃない」
声が震える。止められない。震えも、続く言葉も。
「ぼくはかわいそうじゃない。絶対に違う。母さんはちゃんと優しいし、お話出来る友達ぐらいならいる。いじめられてるわけでもない。普通なんだ。そりゃあ、父さんのことは、ちょっと普通じゃないかもしれないけど、でもぼくは父さんなんて――」
喉がすぼまる。言葉がつっかえて栓になる。ぼくは一度、つばを飲んだ。
「どうでもいい」
そう、ぼくは、父さんなんかどうでもいい。
誕生日にレストランに行けなくてもどうでもいい。ぼくがチョコレートケーキを好きなことを知らなくてもどうでもいい。父さんがぼくをどうでもいいと思っているように、ぼくだって父さんのことなんか、どうでもいい。父さんのことで母さんが悲しそうだと、イヤだなって思うだけ。
「だからぼくは、かわいそうじゃない。どうでもいい人が、ぼくの知らないところで何をしてたって、別にどうでもいいでしょ。あんな写真、ぼくの知らない人の写真と大差ないよ。それを見て、ぼくがかわいそうな子なんて思われても困る。佐伯さんも、みんなも、そこを分かってないんだ」
ぼくの言葉は、本心だ。
強がりではない。嘯いているわけでもない。ぼくは本当に父さんのことなんかどうでもよかった。その頃のぼくにとって、父さんはすっかり遠い存在で、ただ父親であるという事実以上の価値は無かった。そこに偽りがないことは、僕がよく知っている。
だけどぼくは父さんに関して、一つ、重たい気持ちを隠している。それも僕は、よく知っている。
「帰ってよ。ぼくは父さんのことは平気だけど、みんなにかわいそうなやつだと思われるのはイヤなんだ。だから今は学校には、戻れない」
ぼくは肩を落とす。本当に早く帰って欲しい。一人にして欲しい。心からの願い。だけど佐伯さんは、その願いを聞いてくれない。
「……帰れないよ」
それは、ぜんぜん嬉しくない。どうして分かってくれないんだ。
「帰ってよ」
「帰れないよ!」
佐伯さんが声を荒げた。ぼくはびっくりして顔を上げる。佐伯さんは顔を赤くして、今にも泣きそうな顔をしながら、ぼくを見つめていた。
「そんなこと言う人、置いて、帰れないよ」
もうほんの少し、心のなにかを押してしまえば、涙が溢れて来る。そんな顔。でもこれだって、ぼくをかわいそうだと思っているだけ。ぼくを哀れんでいるだけ。
なのに――なぜだろう。
そんなに、イヤじゃない。
「佐伯さん」
名前を呼ぶ。だけど、次に何を話すか考えていないから、言葉に詰まる。考えて、考えて、考えて、それでも何も出てこない。そしてぼくの頭に、たった一つ、純粋で単純な気持ちを形にする言葉が浮かぶ。
好きだよ。
だけど、それを口にする前に、しわがれた低い声がぼくたちの間に飛び込んだ。
「なんだ、お前たち。今日は休みか?」
とらじろうの昼ご飯をあげに来たじいちゃんが、ぼくたちを見てキョトンとしていた。
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