5-2
下駄箱で上履きに履き替え、ぼくは急いで教室に向かった。
もう校庭には誰も残っていない。間違いなく、教室に戻るのはぼくが最後だ。全員着替えが終わっているのに、自分だけが脱いでいる感じになってしまったら、ちょっと恥ずかしい。急げ、急げ。
ぼくは走る。教室について、扉を開ける。ざっと眺めると、まだ体操着の子が沢山いる。良かった。そんなに遅くならなかったみたい。ぼくはホッと胸を撫で下ろし、そして自分の席に向かおうとして、気づく。
みんながぼくを見ている。
クラスのほとんどの視線が、ぼくに集中している。そして誰もお喋りをしていない。体育の後はいつもみんなはしゃいでいて、教室はワイワイしているのに、そういう空気が全くない。まるでぼくが先生になって、みんなに授業をしているような雰囲気。
変だ。何かがすごく変。ぼくは教室を見回し、原因を探す。そしてそれは、すぐに見つかった。
教室前方の黒板。
先生が授業をする時に使う黒板。どの教室にもある、普通の黒板。そこに、何かが四角くて薄いものが貼ってある。そしてその貼られたものの周りに、チョークで文字が書いてある。小さな文字がいっぱいと、大きな文字が二行。最初にぼくの目に入ったのは、その二行の大文字。
一行目は、ぼくの名前。
二行目は、『捨てられたかわいそうな子』。
くらりとめまいがした。ぼくは身体をふらつかせながら、一歩ずつ、黒板に近寄る。小さい文字が読めてしまう。貼られているものが分かってしまう。だけど、進まずにはいられない。
貼ってあるものは、写真。おとなの男の人と、おとなの女の人が、腕を組んで仲良さそうにお買い物をしている。二人とも、とってもいい笑顔。きっと横に小さい文字で説明が書かれていなければ、素敵な恋人同士に見えるはず。だけどぼくは、その文字を読まなくても、それがそんなかわいらしいものでないことを知っている。
男の人は、ぼくの父さん。
女の人は、ぼくの知らない人。
知らない人だけど、「あの女」だというのはすぐに分かった。小さい文字の説明にもそう書いてある。ぼくの父さんは職場の若い女の人と浮気をして、ぼくと母さんを捨てた。母さんも、捨てそびれたぼくを捨てたくてうずうずしていて、たまに捨てる練習をするために一人で実家に帰る。そんな嘘と本当をぐちゃぐちゃに混ぜて、悪意のソースをたっぷりかけたような文章が、ずらずら並んでいる。
文章の最後には、こう書かれていた。
『このかわいそうな子を、みんなでかわいがってあげてください』
胃の奥から気持ち悪さの塊がこみ上げて来た。ぼくは口を抑える。だけど出てきたのは吐瀉物じゃなくて、涙。悲しいとか、悔しいとか、そういう感情を越えたところから出てくる、ただ泣くためだけの涙。
ぼくは、叫んだ。
叫びながら、「あ」と「お」の中間ぐらいの声を出し続けながら、黒板の写真に爪を立てた。だけど写真は剥がれない。とても固く、隙間なく、ぴっちりと貼り付けられている。
「剥がれろよ! 剥がれろ!」
心の叫びは、声になって外に出ている。でもぼくはそれに気づかない。夢中で爪を立て、キーキー不快な音を鳴らしながら黒板を削る。それでも写真はびくともしない。必死なぼくを嘲笑うように、父さんと「あの女」は笑い続ける。
だめだ。もう道具を使おう。お道具箱の中にカッターナイフがあったはずだ。
ぼくは振り返った。そして気づく。
たくさんの目。
男子も、女子も、それなりに話しているやつも、ほとんど話したことのないやつも、みんな同じ目をぼくに向けている。困ったように眉尻と目尻を下げた、力のない目。人が人を哀れむ時の目。かわいそうに。かわいそうに。そんなみんなの声が聞こえてくる。
――違う。
違う、違う、違う。お前たちは何にも分かっていない。ぼくは恵まれている。ぼくは絶対に、かわいそうなんかじゃない。
「……大丈夫?」
佐伯さん。今、一番、ぼくが聞きたくないと思っている声。だけど佐伯さんはそれに気づかない。ぼくに近寄り、だらりと下がったぼくの手をギュッと握る。
「落ち着いて。大丈夫だよ」
佐伯さんの手は優しくて温かい。そしてぼくは知る。優しくて温かいことが、何より怖い時もある。
「体育から帰ってきたら、教室がこうなってたの。誰がやったのかは分からない。でも、何がしたいかは分かるでしょ。だからここで取り乱したら、こんなことしたやつの思うつぼだよ」
佐伯さんが正しくて強い言葉を吐く。正しくて、強くて、きっと、自分は他人を救えると思っていて、それだからぼくを放っておけなかった佐伯さん。
そんな佐伯さんが、しっとり、大人びた、特別な笑顔をぼくに向けた。
「安心して。わたしは、味方だから」
――ああ。
今だけは、今だけは止めてほしかった。その特別な笑顔を見せて欲しくなかった。分かっていたけれど、やっぱりそうなのだと、心の奥底まで分からされてしまう。ぼくは佐伯さんを好きだけど、佐伯さんはぼくを好きじゃない。好きじゃなくて――
ただ、ぼくがかわいそうなだけ。
――おれ、しばらくこの辺にいるから。だからまた、話そう。
行ってやるよ。行ってやるさ。全部、お前の望み通りにしてやる。ぼくは佐伯さんの手を振り払い、教室を飛び出した。
◆
ぼくは走った。
怒りに任せて、足を踏み鳴らして、めちゃくちゃに走った。運動靴に履き替えて外に出ると、遠くの空に、黒い雲が何層にも重なって広がっている。まるで巨大な龍のお腹を見ているよう。嵐が近づいている。
校舎裏のさっきと同じ場所に石田はいた。石田はぼくを見るなり、へらへらと笑いながら「早かったじゃん」と言い放つ。ぼくは石田の元に走り寄って、その勢いのまま胸ぐらを掴み、校舎の壁に押し付けた。
「お前、なに考えてんだよ!」
一度は分かり合えたと思った。でも違った。もうぼくには、石田の考えていることが本当に分からない。
「お前はぼくをどうしたいんだ! ぼくとどうなりたいんだ! なんであんなことをしたんだ! 言え!」
ぼくは顔を真っ赤にして喚き散らす。石田は、怒りに我を忘れているぼくを見て、満足そうに唇を歪めた。
「復讐だよ」
ふくしゅう。石田は、はっきりとそう言った。
復讐。強い恨みを持つ人間が、その恨みを晴らすこと。絶対に許せない相手に、その相手がした酷いこと分の酷いことをやり返すこと。
石田がぼくに復讐。石田はぼくに強い恨みを持っている。
思い当たる節が、ない。
「……復讐って、なんで」
胸ぐらを掴む手から、わずかに力が抜けた。石田はそれを敏感に感じ取り、ぼくを突き飛ばして振り払う。そして少し離れた位置で向かい合いながら、ゆっくりと自分の気持ちを語り出す。
「お前、おれの家族を壊しただろ。誰にも言うなって言ったのに、おれと母ちゃんを一緒に住めなくしただろ。だから復讐するんだ。学校も、家も、お前の居場所なんか、全部壊してやる」
石田が笑う。真っ黒な目を歪ませて、声を立てないで笑う。ついさっきの爽やかな笑顔とはぜんぜん違う、いつもの石田の笑顔。嘘をついていないことがよく分かる笑顔。
だけどぼくには、石田が何を言っているのか、全く分からない。
石田とお母さんを一緒に住めなくした。たしかに、それはそうだ。だけど、そんなの当たり前。だって石田のお母さんは、石田をいっぱい傷つけていた。あんな身体になるまで、いっぱい、いっぱい。あんなの、家族のやることじゃない。だから――
「最初から、壊れてただろ」
ぼくは、自分の考えを整理するように、途切れ途切れに言葉を繋げる。
「ぼくが壊す前から、お前の家族は、壊れてただろ。あんな傷だらけになるまで、ひどいこと、いっぱいされたんだろ。ぼくは、お前を救いたくて――」
「そんなの、お前が決めることじゃない!」
石田が背中に手を回した。シャツの下から出て来たものは、黒い柄のサバイバルナイフ。石田はその鞘を外してぼくにつきつけ、ぼくは刀身の鈍い輝きを、どこか別世界のもののようにぼんやりと眺める。
ボロボロの花瓶。
ヒビだらけで、今にも割れそうで、見ていて誰も幸せにならないボロボロの花瓶。だけど、誰も花瓶を割りたがらない。割ってしまったら、その人が壊したことになるから。どれだけ元から壊れていたとしても、最後に割った人が壊したことになるから。だからみんな、「花瓶を割る人」を押し付け合って生きている。
ボロボロの石田の身体。ボロボロの石田の家族。
壊したのは、ぼく。
「返せよ」
ナイフの切っ先が震える。石田の叫び声が、空を覆う雨雲を切り裂くように、びりびりと周囲の空気を震わせる。
「おれの母ちゃんを返せ!」
ぼくは後ずさる。一歩、一歩、石田から遠ざかる。石田は追ってこない。ナイフをぼくにつきつけたまま、ボタンを押せば刀身が飛び出して刺し殺せると思っているかのように、微動だにしない。飲み込まれそうな真っ黒な目で、ぼくをじっと見つめている。
ぼくは踵を返した。そして、石田から離れるように走り出す。逃げたい。逃げたい。逃げたい。頭の中がその言葉でいっぱいになる。
校舎から離れて、校門に向かう。教室には戻れない。教室はダメ。逃げられない。逃げたことにならない。学校からは、離れなくちゃならない。
じゃあ、家――
考えた途端、吐き気がぼくを襲った。父さんと「あの女」が楽しそうに買い物をする写真が、頭の中でぐるぐるする。だめ。家もだめ。きもちがわるい。あの家は、ぼくの場所じゃない。
秘密基地。
そうだ、秘密基地だ。秘密基地へ行こう。ぼくの場所。ぼくだけの場所。ぼくをまるごとぜんぶ許してくれる、大切な場所。
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