第五章「嵐の日」
5-1
発達した低気圧の影響で、午後から激しい嵐になることが予報されていた土曜日。僕は、自分の人生で最も激しかった一日を挙げろと言われたら、その日を挙げる。
僕の時代では土曜日の学校は休みだけど、ぼくの時代では第二、第四土曜日以外は午前中だけ授業がある。そしてその日は、授業のある方の土曜日だった。土曜日だから母さんは家にいたけれど、父さんはいなかった。まあそれは、いつものこと。
一時間目は体育。走り高飛びをやった。ぼくは不器用だから球技は苦手だったけれど、陸上競技は得意。四人しか飛べなかった高さを飛べて上機嫌になっていた。
体育の授業が終わって、下駄箱へ。すると上履きの中に、メッセージが記されたノートの切れ端が入っているのを発見した。
『今すぐ、校舎のうらにきてほしい 石田』
無視できるわけがない。上履きに履き替えるのを止めて、駆け足で校舎の裏に向かう。卒業生が作った花壇や、一年生が育てている朝顔が並んだ校舎裏につくと、石田は本当にそこにいた。
「久しぶり」
石田が親しげにぼくに話しかけてきた。まるで普通の友達のような感じ。あれ、こんなやつだったっけ。ぼくは戸惑い、石田は続ける。
「謝りたくてさ」
石田の口から、謝りたい。悪いことじゃない。悪いことじゃないんだけど、本当に、信じられない。
「おれ、お前に酷いこといっぱいしただろ。腹殴ったり、椅子投げたり、服脱がせて土下座させたり、集めた紙を捨てたり。母ちゃんと離れて、そういうの、全部良くないことだったって分かったんだ。だから、ごめん」
深々と頭を下げる石田。ぼくは驚き過ぎて、すぐに言葉を返すことが出来ない。まるで、石田の見た目をした別の人みたいになっている。
とりあえずぼくは「いいよ」と石田を許した。謝られる前から、石田に対する恨みはとっくに消え失せている。
「今、どこにいるの?」
流れる噂は、過去に石田がどんな悲惨な目にあったかを語るものばかりで、肝心の今がぼやけていた。ぼくのやったことで、石田がどうしているのか。ぼくはそれが一番知りたかった。
「近くに、おれみたいな子どもを一時的に預かる場所があるんだ。もう母ちゃんと一緒には住めないから養護施設に行くんだけど、それが決まるまでそこにいる」
母ちゃん。そっか、母ちゃんって呼ぶんだ。そんなことが、妙に気になる。
「じゃあ、まだこの辺にいるんだ」
「ああ。学校は行けないんだ。そういう決まりだから」
「いつ頃、どこに行くか決まるの?」
「分からない。おれみたいなやつ、いっぱいるらしくってさ。どこも空いてないんだ」
石田が笑う。朗らかな笑顔をぼくに見せる。ぼくは石田が生まれ変わったみたいに明るくなったことに、ようやく、戸惑いや驚きじゃなくて安心を覚えはじめる。
だけど、一つ、どうしても引っかかることがあった。
目が、
あの「何もない」がある真っ黒な目が、変わっていない。
「……あのさ」
ぼくはおそるおそる声をかけた。真っ黒な目の穴から心の中に潜り込んで、触ってはいけない場所を慎重に探りながら、言葉を選ぶ。
「今は、叩かれたりとか、ないんだよね」
ピクリ。石田の頬が動いた。
「ひどいこと、されてないよね。ちゃんと大事にしてもらってるよね。心配なんだ。ぼくは石田に幸せになってもらいたいから。あんなに辛い目にあったのに、また辛い目にあったりしたら、やりきれないよ」
湿った風が身体を撫でる。嵐の前触れ。体操着の中を汗ばませながら、ぼくは石田の反応を待つ。少しの動きも見逃さないように、その顔を注意深く伺う。
口を開く前に一度、石田が、わずかに唇を噛んだのが分かった。
「ありがと。大丈夫だよ」
石田はまた笑っている。ぼくの考えすぎなのだろうか。石田はあの酷いお母さんから解放されて、普通の「ふつう」を手に入れただけなのだろうか。人の愛し方を教わったから、人とちゃんと接することが出来るようになった。それだけなのだろうか。
そうであって欲しい。
そうでないとイヤだ。
願望が、ぼくの目をくもらせる。十年近く一緒にいた母親の影響が、この短い間に全て抜け落ちて石田が別人になったという夢のような話を、ぼくはほとんど自分のためだけに答えとして選ぶ。
僕にはその自身の欺瞞が分かる。だけどぼくは、気づかない。
「なら、良かった」
ぼくは石田に笑い返した。そして自分の頭の、少し前までガーゼが貼られていた辺りを指さす。
「そういえば、怪我、治ったよ。ほら」
ぼくは髪を掻き分けて石田に示した。石田がぼくに近寄り、ぼくの頭を触りながら「本当だ」と呟く。そして――
石田はいきなり、傷跡をグッと押した。
「痛っ!」
ぼくは声を上げた。石田はパッと離れて、「ごめん」と謝る。しゅんとした様子。そして石田は親指で校舎を示しながら、ぼくに告げる。
「着替えの時間なくなるから、もう行った方がいいぞ」
「うん。今日は、話せて良かったよ」
「ああ。おれも良かった」
石田が握手を求めるように、すっと手を差し出した。
「おれ、しばらくこの辺にいるから。だからまた、話そう」
ぼくは石田の手を取る。病院で握った時のように、石田の手は柔らかくて温かい。
「分かった。またね」
わざわざ会いに来てくれたのだから、次はこっちから会いに行こう。ぼくはそんなことを考える。十分も経たないうちにそれが実現されることなんて、ぼくは知らない。この辺の示す意味が「この街の近辺」ではなく、文字通りの「校舎裏のこの辺り」であることになんて、全く気づかない。
ぼくの頭の傷を押した時、石田はいったい、どんな顔をしていたのか。
考えると、僕は今でも恐ろしくなる。
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