3-5
ぼくが気絶したから僕は覚えていないけれど、石田が椅子をぼくに投げた後、教室は大騒ぎになったそうだ。
すぐに救急病院に連絡を入れ、頭から血を流して倒れるぼくをそこに運んだ。ぼくが目を覚ましたのはその搬送途中。女の看護師さんが手をギュッと握ってくれていた。
ぼくは死ぬのかな。朦朧とする意識の中、そんなことを考える。死ぬ前にやりたいことはいっぱいあったはずなのに、なぜか一番気になったのは、その日の給食当番を誰か変わってくれるかどうかだった。いきなり死ぬことになった人間なんて、案外そんなものなのかもしれない。
とはいえもちろん、そこで死ななかったからこそ僕がいる。ぼくの頭の縫合手術は割とあっさり終わった。傷口にガーゼを当てられ、頭全体にネットを被った状態で、ぼくは担任の先生に病院のロビーに連れて行かれる。
「お母さんが、もうちょっと経ったら来るからね」
先生にそう言われた時、母さんがおばあちゃんの家にいることを思い出した。ああ、帰って来るんだ。迷惑かけちゃった。麻酔の抜けきらない薄ぼんやりした頭でそんなことを考えるぼくに、先生がさらに質問を投げる。
「石田君と喧嘩をしたって聞いたけど、本当?」
先生がじっとぼくの目を見る。本当なのは調べてあるのよ。顔にそう書いてあった。
「……本当です」
「なんで喧嘩したの?」
こっちは知りません。やっぱり顔に書いてある。
「きっかけは、覚えてません」
詳細に触れれば秘密基地に触れる。だからぼくはごまかした。だけど若い女の先生とはいえ、先生は先生。子どもにそう簡単にやり込められるわけがない。
「本当?」
嘘なのは分かっているのよ。これまた書いてある。でももう、貫き通すしかない。
「はい。頭、ぼんやりしてて」
ガーゼを撫でて怪我アピール。先生は納得していないのが丸わかりだったけれど、仕方なしに話を打ち切った。
「じゃあ、石田君呼んでくるから、ここで待ってなさい」
先生がロビーを去る。石田、来てるのか。そう言えばアイツも秘密基地のこと言わなかったんだな。なんでだろう。ぼくに気を使ったわけじゃあ、絶対にないと思うけど。
頭のガーゼに手をやり、軽く押してみた。ズキッと鋭い痛みが頭を走る。本当に怪我をしていることが分かり、そして本当に石田がぼくに向かって椅子を投げ飛ばしたことが、今更ながらに恐ろしくなる。
とりあえず生きているけれど、別に死んでいたっておかしくない。色々とままならないことはあるけれど、さすがにまだ死にたくはない。ぼくが死ねば、きっと母さんはすごく泣いてしまう。父さんは――
どうだろう。
泣かないかもな。
ぼくだって、父さんが死んで泣けるかどうか、分からないしな。
「お待たせ」
肩を叩かれ、ぼくはハッと振り返った。首を振った勢いで、頭がズキリと痛む。
「どうしたの? ぼうっとしちゃって」
先生が穏やかに笑う。その後ろには俯く石田。そしてその石田の横に、見たことのない女の人。
そう、その時、ぼくは「女の人」だと思った。母さんや先生は「おとなの人」。だけどその人は「女の人」。茶色くて長い髪、つけまつげ、キラキラした爪。テレビでよく見る、でもぼくの身近にはいない、「女の人」の特徴。
「大丈夫そうじゃん」
女の人が並びの悪い歯を見せて、へらへらと笑う。ぼくはなんだか怖くなって肩を竦める。僕の記憶では、ぼくが「女の人」と接したのは、その時が初めてだった。
誰なんだろう、この人。石田のお姉さんかな。
「石田君、ごめんなさいしようか」
先生が石田に語りかける。だけど石田は動かない。じっと拳を握り固めて、ぼくを憎々しげににらみつけている。そしてぼくも、なにくそと石田をにらみかえす。
「石田君」
先生がもう一度、さっきよりちょっと厳しめに声をかける。石田はやっぱり動かない。そんなやつに謝らせようとしても無駄だよ、先生。そんなひねくれた言葉がぼくの頭に浮かび、だけど浮かんだ瞬間、消し飛んだ。
「おい」
ただ、呼んだだけ。
女の人が、石田を、ただ呼んだだけ。だけどなぜか、ぼくには人が呼ばれたと思えなかった。そしてそれが、たまらなく恐ろしい。
レストランでメニューを指さして食事を注文する時の声に似ていた。これください。そんな感じ。自分のために生まれて、自分のために死んでいく。そんなものを、それを当たり前だと思っているものを呼ぶ感じ。
「怪我させたんだから、謝りな」
ぼくは知らない。僕と違って、何も知らない。だけどこの女の人が気にしているのがぼくの怪我ではないのは、何も知らないぼくでもよく分かった。きっと気にしてるのは、ぼくの怪我から生まれる責任とかお金とか、そういうもの。
石田の肩が小刻みに震えていた。ぼくの背筋に寒気が走る。石田が、ぼくのお腹を面白半分に殴り、ぼくに椅子を投げつけたあの石田が、怯えている。
「……ごめんなさい」
石田がボソッと呟くように謝りながら、頭を下げた。次に先生は、喧嘩のことで謝るようにぼくを促す。ぼくは石田に謝ることに抵抗を感じながらも、あの女の人の前で事を荒げたくない一心で、素直な謝罪を選ぶ。
「ぼくこそ、ごめんなさい」
じゃあ仲直りの握手しようか。先生がそう言いながらにっこり笑う。仲直り以前に最初から仲良しじゃない。先生だって知っているはずだ。それでも笑って握手しようとか言えるんだから、おとなって怖い。
ぼくは形だけ手を差し出した、石田も同じように、形だけその手を握る。石田の手は、ぼくの想像よりずっと、柔らかくて温かかった。
「そんじゃ、これでいいですよね」
女の人がくるりとぼくに背を向けて歩き出した。先生が、その背中を呼び止める。
「石田さん!」
この人も石田。やっぱりお姉さんかな。ぼくのその考えを、続く言葉が打ち消す。
「この子のお母さんも、もうすぐ来るので、それまで待っていて下さい」
この子のお母さん「も」。
ぼくはびっくりして大きく目を見開いた。この人、石田のお母さんだったんだ。信じられない。この人はこんなに「女の人」で、石田のことをあんな風に呼ぶのに。
「待ってろって言われてもねえ」
石田のお母さんが唇の端を歪める。そしてその顔のまま、ぼくを見る。
「旦那と喧嘩して実家に帰ってんでしょ。そんなの、いつになるか分かんないし」
喉から、空気が漏れた。
吐き出したんじゃなくて、本当に漏れた。喉は最初から穴なのに、穴が開いたように漏れた。「ひ」。そんな小さな悲鳴を上げるぼくを見て、石田のお母さんは、石田と同じようにニィと笑った。
「そんなこと――」
「あ、その反応、やっぱそうなんだ。まあそうじゃなきゃ、平日にガキ置いて実家になんて帰んないよね」
先生の抗議を石田のお母さんが遮った。そしてぼくに近寄り、顔を近づけて粘り気のある声をかける。
「なんでパパとママ、喧嘩したの?」
お前のせいで呼び出されて迷惑してるんだ。顔にそう書いてあった。そんなことを顔に書いてしまうおとな、ぼくはそれまで会ったことが無かった。
「パパの浮気?」
ぼくは顔を逸らす。「当たりだ」と石田のお母さんが嬉しそうにはしゃぐ。本当に、嬉しそうに。
「石田さん!」
先生が声を荒げた。石田のお母さんはゆっくり先生の方に向き直ると、親指で病院の出入口を示す。
「帰っていい?」
先生が、ぼくと石田のお母さんを交互に見る。そして一つ、何かを諦めたように、軽く溜息を吐いた。
「どうぞ」
石田のお母さんの満足げな顔。そして石田に何も言わず、手を引くわけでもなく、さっさと病院の出口に向かう。石田はその後をついて歩き、そしてロビーには、ぼくと先生が残された。
「……飲み物、買ってきてあげるね」
先生がそそくさとその場を去る。君を背負いたくない。そう言われたのが、頭ではなく心で分かった。
天井を見上げる。蛍光灯のぼんやりした光が、眼球に沁みる。そしてぼくはついさっきまでそこにいた石田のお母さんのことを考え、続けて、石田の言葉を思い出す。
――捨てられたんだろ。
――お前なんか要らないって言われたんだ。
――かわいそうに。
母さんに会いたい。そう思った。僕は、はっきりと覚えている。
◆
母さんは、それから程なくして現れた。
名古屋から車を飛ばして来ただけあって、疲れた顔をしていた。ぼくはなんとなく、最初に「ごめんね」と声をかける。母さんは「痛くない?」とぼくに尋ね、ぼくは無言でこくりと頷いた。
母さんはお医者さんと話したり、先生と話したりしてから、ぼくを車に乗せた。まだお昼だったから、学校に行くのかとも思ったけれど、そんなことは無かった。母さんはぼくを連れて行った先は、近くのファミリーレストラン。
店内はガラガラで、二人掛けのテーブルじゃなくて四人掛けのテーブルに案内された。ぼくはメニューを開きながら、ちらちらと母さんの顔を伺う。難しい顔をしている。いつもおばあちゃんの家から帰って来ると、行く前よりは明るいのに、今日はそうじゃない。ぼくの誕生日、父さんから電話がかかって来た後と同じ表情。
きっと、途中で帰されちゃったからだ。母さんにとっておばあちゃんの家はゲームの回復ポイントみたいなところで、なのに回復が終わる前にぼくが呼び戻してしまったから、ダメージが残ったままなんだ。
ダメージ。回復ポイント。ゲーム的に物事を捉え、ぼくは改めて理解する。母さんにとってのおばあちゃんの家は、きっと、ぼくにとっての秘密基地と同じ。父さんにとっての「あの女」のところもそうなんだろう。ぼくたちはみんなそれぞれに、自分を丸ごと許してくれる、自分だけの回復ポイントを持っているのだ。
でも。
でもなんで、ぼくたちは家でダメージを受けているんだろう。
普通、家は回復ポイントじゃないのかな。ぼくがもっと小さい頃に好きだったアニメのお父さんは、「外でどんな辛いことがあっても、家族の顔を見ると頑張れる」と言っていた。なんでそれと、まるっきり逆になっちゃっているんだろう。
ぼくたちが間違っているのかな。それとも、現実は割とこんなもので、あのアニメのお父さんが間違っているのかな。
「なに食べるか、決まった?」
自分の世界に入り込んでしまったぼくを、母さんの声が現実に引き戻す。ぼくは慌てて顔を上げ、「これにする」と和風ハンバーグを指さしながらメニューを渡した。
「頭の怪我、大したことないみたいで良かったわ」
注文を終えて、母さんがお医者さんから聞いた話をぼくに話す。三週間も通えば完治する。痕が残るようなこともない。お風呂には入れるけれども、なるべくなら少なくした方がいい。次々と流れて来る情報に、ぼくはこくこくと相槌を打つ。
そして母さんは突然、ぼくを真っ直ぐに見据えながら、これが本当に話したいことだぞと言わんばかりに、芯の通った声を投げかけた。
「喧嘩、したんだってね」
背中が、ビクリと震えた。
「どうして喧嘩したの?」
嘘やごまかしは通用しない。それは分かっていた。母さんはぼくに関しては先生よりずっと鋭い。忘れちゃったで諦めてくれるほど、あっさりもしていない。
だから、ぼくは黙った。手を腿の上にやり、テーブルの上のナイフとフォークを入れる箱に焦点を合わせる。そしてその状態のまま、ただ時が過ぎるのを待ち続ける。
母さんが、これみよがしに溜息をついた。
「都合が悪いと黙っちゃうのね」
気怠そうな母さんの声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
「そういうところ、父さんにそっくりなんだから」
和風ハンバーグのお客さまー。ウェイトレスの明るい声が響き、目の前にハンバーグが置かれる。ぼくはナイフとフォークを手に取り、いただきますも言わないで、それを黙々と食べ続けた。
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