3-4
天体観測が終わった後、ぼくは一人で秘密基地に戻った。
月と星の光にぼんやりと照らされる家の中、頭から毛布をかぶる。今すぐに寝てしまえば、きっと夜中に起きるはずだ。今日の天体観測の時だって十分に凄かったのに、本当の真夜中はどんな星空が広がっているのだろう。想像もつかない。
ごろりと畳の上に横になる。い草の匂いが鼻の奥をくすぐり、頭の奥を撫でて、ぼくをおだやかに寝かしつける。ちょっとずつ、ちょっとずつ、角砂糖がホットミルクに溶けるようにちょっとずつ、身体が夜に溶けて行く。
だけど突然、激しい拍手のような音が響いて、ぼくは眠りから覚めた。
雨。それも中途半端な雨じゃない。嵐だ。ぼくは飛び起きて、まずは縁側の雨戸を閉めようとした。すると草むらからとらじろうが出て来て、雨の中、にゃーおとすがるように鳴く。
部屋の中は汚れちゃうけれど、放っておけない。ぼくは両手を伸ばして、とらじろうに語りかけた。
「おいで、とらじろう」
とらじろうはびょんと跳ねるようにして家の中に入って来た。雨戸を閉め、畳の上に戻って一息つく。家の中は真っ暗。屋根や壁を雨粒が打ち付ける轟音が、家全体から伝わって来る。
ピカッと、玄関のすりガラスの向こうが輝いた。雷。その言葉が頭に出て来たのと、ゴロゴロと空が鳴る音が聞こえたのは、ほぼ同時。嵐の中、廃屋に一人取り残された恐怖がぼくを襲う。
夏の嵐はいつも突然だ。天体観測中に来なくてよかったと考えるしかない。とにかく、早く寝よう。ぼくは毛布を頭から被り、横になって膝を抱えた。
ごうごう、ひゅうひゅう。家が悲鳴を上げているような音。ぼくは耳を塞ぐ。だけど音は振動だ。全身にビリビリと伝わって来る嵐の気配は、遮ることは出来ない。不安を掻き立てられたぼくは、声を出さずに囁く。
母さん。
ほんの少し、身体が楽になった気がした。ぼくはもう一度、今度は少しだけ声を出して、同じ言葉を繰り返そうとする。
だけどその発声を、玄関の扉が開く音が遮った。
ぼくは勢いよく身を起こした。玄関に、ずぶ濡れの子どもが一人立っている。ぼくと同じぐらいの年の男の子。俯きながらポタポタと全身から水滴を垂らし、靴置場のアスファルトを濡らしているその男の子に、ぼくは見覚えがあった。
石田。
間違いない。石田だ。こんな時間に、こんなところに、こんな天気の時に、何をしに来たんだ、あいつ。
――こんな場所じゃあ、お前がどんなにイヤだイヤだって泣き叫んでも、誰も助けになんか来てくれないからな。
初めて会った時のじいちゃんの台詞を思い出した。同時に、以前、石田に殴られたへその上が痛み始める。怖い。すごく怖い。だけど目を逸らしたらそれこそ終わりな気がして、ぼくは石田を強く睨む。とらじろうがぼくの傍に寄って来て、石田に向かって毛を逆立てながら、威嚇するようにふーふー鳴いた。
石田がゆっくりと顔を上げた。ぼくは視線を逸らさない。だけど石田は、何も見ていない。焦点の合わない真っ黒な目で、ぼんやりと、ぼくを含むその辺りの景色を監視カメラみたいに眺めている。
その時、開かれた玄関を通じて、閃光が家の中を走った。
石田の表情が、逆光で一瞬見えなくなる。遅れて来る雷鳴。そして石田は、糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。足を横にして腕で上半身を支える姿は、まるで赤ん坊のよう。最初から立てなかったよう。
「――石田」
ぼくは名前を呼ぶ。本当に石田なのかと確認するように、おそるおそる。すると石田は勢いよく立ち上がり、びしょ濡れの前髪に隠れた目を大きく見開いた。その目はいつになく必死で、ぼくに助けを求めるように輝いている。
ぼくは一歩、石田に近寄った。手を差し伸べてやろうと思った。すると石田はそのまま踵を返して、雨の中、家から駆け足で遠ざかって行った。
とらじろうが「もう大丈夫だよ」と言いたげに、にゃあと軽く鳴いた。緊張が、その鳴き声で解ける。ぼくは玄関の扉を閉めて、さっきと同じように毛布を頭から被って丸まった。わけがわからない一連の出来事を考えようと頭を働かせるけれど、やっぱりわけがわからないという結論しか出てこない。
眠りにつこうと試みる。ついさっき、呼びそびれた名前を、もう一度呼んでみる。
「母さん」
ごうごう、ひゅうひゅう。嵐が呟きを掻き消す。ぼくは膝を抱える腕に、ギュッと力を込めた。
◆
目を覚ますと、嵐は去り、そして朝になっていた。
真夜中に星を見よう作戦は大失敗。ぼくは昨日食べ残したパンとおにぎりを頬張ると、荷物を入れた紙袋を手に外に出た。土に落ちた雨が朝日で蒸発して匂いを運ぶ。深呼吸をすると、胸いっぱいに濃い自然の香りが膨らむ。
家にたどり着いた時、ようやっと嵐から逃げ切ったような気がして、ほっと安心した。もう秘密基地で寝るのは止めよう。一夜にしてすっかり心を折られてしまったぼくは、自らにそう誓う。この家にいたらいたで、やっぱり怖いのだろうけど。
学校の準備をしてから家を出る。教室に着いたぼくは、真っ先に石田の姿を探した。とりあえず、いない。今日は来ないかもしれないな。昨夜見たずぶ濡れの石田を思い返しながら、ぼくはそんなことを考える。
だけど、来た。
石田はいつものように不愛想な顔で教室に入って来て、いつものように誰にも挨拶しないで鞄を教室後ろの棚に置いた。そしてそのまま、自分の席に向かうことなく、ぼくの元にツカツカと歩み寄る。
ぼくは「逃げたい」と思った。だけど逃げ場なんてない。石田は、すぐにぼくの目の前まで来ると、椅子に座るぼくを見下しながら、固い声を放った。
「昨日のあれ、なんで?」
こっちの台詞だ。思いながら、ぼくはそれを口には出来ない。
「なんで、あんな場所にいたの?」
石田が夜のように黒い瞳でぼくを見る。胸の奥がざわざわして、ぼくは逃げるように顔を逸らす。すると石田はニィと、前にぼくを殴った後のような笑いを浮かべ、ぼくの耳元で囁いた。
「お前、捨てられたんだろ」
石田の声は弾んでいた。でも楽しいことをする時の明るい弾み方とは違う。太い輪ゴムを弾いた時のような、重低音の弾み方。
「そうだろ。家族にお前なんかもう要らないって言われたんだ。だからあんな時間に、あんなところにいたんだ。かわいそうに」
石田の言葉は、的確にぼくの芯を揺さぶった。ぼくは立ち上がり、石田をにらみつけ、喉奥から言葉を絞り出す。
「取り消せよ」
石田は愉快そうに笑う。ぼくが反応したことに対して、本当に嬉しそうに笑う。ぼくはそれが分かっていても、言葉を止められない。
「ぼくはかわいそうじゃない。取り消せ」
ぼくは石田に詰め寄った。石田は唇を歪めたまま、憐れむように目を細め、わざとらしく大げさに言い放つ。
「かわいそうに」
身体中の血が、頭のてっぺんに集まった。怒りに任せ、石田の胸をドンと突き飛ばす。石田は背中の机を巻き込んで倒れた。ガラガラ、ガシャンとけたたましい音が教室に響いて、みんなの注目がぼくたちに集まる。
次の瞬間、石田がむくりと起き上がり、ぼくに頭から突進を仕掛けて来た。
今度はぼくが倒れる。ガラガラ、ガシャン。乱雑な音がまた鳴り響く。石田がぼくに馬乗りになる。ぼくは顔の前に両腕を立て、防御の体勢を取る。だけど石田はぼくの右手首を左手で、左手首を右手で掴むと、すごい力で強引に開かせる。そのまま自分の膝をぼくの二の腕の上に乗せて、ぼくを地面に張り付けにする。そして石田は、逃れようともがくぼくの頬を撫でながら、三度目の台詞を吐いた。
「かわいそうに」
石田の手がぼくの首に触れた。命に繋がる場所を触られる恐怖に、ぼくの抵抗が止まる。
「お前は、根暗で、ひねくれててで、自分のことばっかり考えて生きてるから、もう要らないって捨てられたんだ。かわいそうだな。本当に、かわいそうだ」
石田が右腕を振り上げた。その手の形は、拳。
「かわいそうなお前は、おれがかわいがってやるよ」
殴られる。ぼくはギュッと目を瞑った。だけどその拳は、ぼくに振り下ろされることは無かった。
「止めなよ!」
佐伯さんの叫び声。石田の拳がピタリと止まる。そして石田はぼくの上から降りると、地を這うぼくを見下しながら、言葉を吐き捨てた。
「女にかばわれてやんの。だっせ」
石田がぼくに背を向ける。馬鹿にされて、組み敷かれて、また馬鹿にされて、ぼくの中にどろどろした黒い感情が溜まる。ぼくはそれを吐き出すように、肺を膨らませて、声帯を思いきり震わせる。
「お前だろ!」
ぼくはゆっくり立ち上がった。そして石田に背中に向かって、今度は落ち着いた声で、続く言葉を吐きかける。
「捨てられたのは、お前だろ」
深く考えて発した言葉ではなかった。石田も同じ時間に同じ場所にいたんだから、人のことを言えない。その程度の発想だ。とにかくぼくは、最後に捨て台詞を残すのを自分にしたかった。だからそれからすぐ、話は終わったとばかりに石田に背を向けて、席に戻ろうとした。
だけど、終わらなかった。
「石田、やめろ!」
背後から、クラスメイトの大声。そして悲鳴。ただならぬ気配にぼくは振り返り、そしてその目に映る光景に驚愕した。
教室の椅子が宙を舞い、ぼくの目の前まで迫っていた。
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