3-3
翌朝、やっぱり家には、父さんも母さんもいなかった。
いつもと違うのは、書き置きが母さんの綺麗な字じゃなくて、父さんの雑な字で書かれているところ。『今日は帰れないから留守番を頼む』。母さんを迎えに行くのかな。仕事が忙しいのかな。それとも「あの女」のところに行くのかな。まあ、なんでもいいや。ぼくがまたしばらく、自由なことに変わりはない。
望遠鏡を手に入れたことを話すと、佐伯さんは喜んでくれた。天体観測、楽しみだね。そう言って笑ってくれた。それでぼくは、少し救われた気分になる。
今日、きめちゃうぞ。何をきめるのか決まってないくせに、そんなことを考えるぼく。この女の子に関してちょっと間抜けなところは、ぼくが僕になっても残り続けている。三つ子の魂百まで。
学校が終わると、しばらくは暇。佐伯さんは塾の帰りに秘密基地に寄るらしいから時間はたっぷりある。とりあえず、秘密基地に先に行くことにした。
家に帰って父さんのショートケーキを食べてから、大きな紙袋を探し出す。そしてその中に、天体望遠鏡と星座早見盤と懐中電灯を入れる。ついでに夕食にするパンも入れる。そして袋にまだスペースがあるのを見て、ふと思いついた。
そうだ、今日も秘密基地で寝よう。
一人でお留守番なんて馬鹿らしい。前に秘密基地で寝た時は朝まで寝ちゃったけれど、今度は遅くになったら起きるように調整しよう。街中が真っ暗になる真夜中の星空は、夜が浅い時よりも、きっとずっと綺麗なはずだ。
ぼくは毛布を紙袋に詰めた。準備万端、出発進行。大きな紙袋を持って秘密基地へ向かい、到着したら雨戸を開ける。そして出て来たとらじろうと戯れながら天体望遠鏡を準備していると、いつものようにじいちゃんが現れた。
「ほう。天体望遠鏡か」
とらじろうのご飯を準備しながら、じいちゃんがぼくに尋ねる。
「うん。誕生日に買って貰ったんだ」
「そうか。誕生日、いつだったんだ?」
「昨日」
「なんだ。早く言え。お祝いしてやったのに」
「いいよ。じいちゃんには、この秘密基地を貰えただけで十分」
「そうか。まあ、おめでとう」
じいちゃんが望遠鏡の傍でしゃがむぼくに寄って来て、ぽんぽん頭を叩く。そう言えば父さん、「ごめんな」はあっても「おめでとう」は無かったな。ぼくはぼんやり、そんなことを考える。
「ところで、いくらなんでも天体観測には時間が早すぎないか?」
「そうだけど、待ち合わせしてるから。遅れちゃったらイヤでしょ」
「待ち合わせ?」
しまった。ぼくは口を閉じる。だけどじいちゃんにはすぐに分かっちゃって、楽しそうにぼくをからかう。
「そうか。ガールフレンドと天体観測か。お前もやるなあ」
「ガールフレンドじゃなくて友達だってば!」
ぼくがむきになると、じいちゃんはますます楽しそうに笑う。だけどふと、何かに気づいたように真面目な顔になると、ぼくに質問を投げた。
「じゃあお前、夜までずっとここにいる気か?」
「うん」
「夕食はどうするんだ」
またしてもしまった。早く来てじいちゃんに会ったらこういう話になることを、全く考えていなかった。
「家からパンを持ってきてるから、ここで食べるよ」
「うちの人はそれでいいって言ってるのか?」
「えっと……」
前は母さんが家出したと言えたけれど、今日は言いにくい。変なことを言って天体観測が中止になったらイヤだ。でも勝手に出て来たなんて思われたら、それこそ家に帰される。どうしよう。
「今日は、父さんも母さんも、ちょっといなくて……」
「また家出か?」
簡単にばれた。ぼくは黙り込む。面白く無さそうな顔のじいちゃんは、きっとぼくの父さんと母さんに怒っている。あんまり良くない空気。
「無理をするなよ。辛いときは辛い。寂しいときは寂しい。それでいいんだ」
「大丈夫だよ。いつものことだし」
「いつものことだから、大丈夫とは限らないだろう」
「本当に大丈夫だってば。ぼくには秘密基地があって、じいちゃんやとらじろうもいるから、それでいいんだ」
ぼくはじいちゃんを大事に思っていることを告げる。だけどじいちゃんのしかめっ面は解けないどころか強くなる。当たり前だ。僕だって小さな子どもに「貴方のことが親より大事です」なんて言われたらそうなる。あまりにも正しくない。だけどきっと、僕を頼る小さな身体を振りほどくことも出来なくて、何も言えないまま同じ顔になる。
「今日は、夜まで俺がついていてやる」
突然、じいちゃんからの提案。ぼくは目を丸くした。
「何にせよ大人の付き添いは必要だろう。ガールフレンドと二人きりの方がお前はいいかもしれないけど、文句は言わせないぞ」
だからガールフレンドじゃないってば。佐伯さんと二人きりの方がいいのは、当たっているけど。
「……はーい」
ぼくは聞き分けの良い子を演じた。どうせぼくの演技なんて、バレていたんだろうけど。
◆
佐伯さんを待っている間、じいちゃんはパンやおにぎりや飲み物をいっぱい持ってきてくれた。でも、さすがに量が多すぎる。おにぎりだけで四個もある。
「こんなに食べきれないよ」
ぼくの不満に、じいちゃんはあっさりと答えた。
「残ったら持ちかえればいい」
僕ならそれがぼくを心配するじいちゃんの優しさだと分かるけれど、ぼくには分からない。むぅと頬を膨らませつつ、とりあえず家の中で夕食を食べる。縁側を開けていたので、
とらじろうが上がってきて、すり寄ってにゃあにゃあとおねだりしてきた。もうご飯は食べたのに。本当にすごい食欲だ。
やがて夜になり、周囲が暗くなって来る。するとじいちゃんがとらじろうを外に出し、縁側のガラス扉を閉めて、手提げ鞄から筒状の何かを取り出した。スイッチを入れるとガラスの筒が光って、ぼんやりとした灯りがパッとつく。ぼくは「おお」と声を上げ、じいちゃんは得意げになった。
「電気で動くランタンだ。世の中も便利になっただろう」
「ランタン?」
「……そうか。電気以前にそっちが分からないか。要するに、ランプだ」
じいちゃんが縁側に目を向ける。ガラス扉から入る青白い月明かりと、電気ランタンの放つ黄色い電気灯が、廊下でせめぎ合ってとっても不思議な感じ。ずっとでも見ていたくなる。
佐伯さんはそれからすぐに現れた。佐伯さんは来るなり、「本当に星、凄いね!」とはしゃいだ。あんまりに凄いので、来る途中はずっと上を見ながら歩いて来たそうだ。むち打ちになるよ、佐伯さん。ぼくはそんな浪漫のないことを考える。口にしなかった分、ぼくにしては上出来だと僕は褒めてあげたい。
ぼくと佐伯さんで外に出る。じいちゃんは秘密基地の中で待機。「若い二人を邪魔したくない」そうだ。また変なこと言って。でも正直、助かる。
風が夜の森の湿った匂いを運ぶ中、望遠鏡のところまで佐伯さんをご案内。低倍率の接眼レンズを取り付けて、ファインダーの調整も済ませて、既に星を探す準備は万端。
「まずは、何を見ようか」
ぼくは空を見上げた。右半分ぐらいが光っているお月様が真っ先に目に入る。確か、上弦の月とか言う名前だったはず。よし、あれを見よう。
手で望遠鏡全体を動かして、ファインダーを月に向ける。レンズを覗いて、ハンドルを動かして、月が真ん中に来るように合わせる。次にフォーカスノブを回してピント合わせの調整。いつもより模様がくっきり見えるお月様が、レンズの中に見える。
ぼくは一旦、望遠鏡のレンズから目を離した。すると佐伯さんが弾んだ様子で声をかけてくる。
「準備出来たの?」
「まだ。ちょっと待って。これから高倍率のレンズに変えるから」
接眼レンズを交換。さあ、どんな光景が待っているのだろう。ぼくはワクワクしながら、月を見つめる望遠鏡のレンズを覗いた。
そしてぼくは、佐伯さんそっちのけで、その光景に夢中になった。
お月様のごつごつした肌が、びっくりするぐらいに良く見える。黄色い光じゃなくて灰色の岩なのが、しっかりと分かる。冷たくて寂しい岩肌の上を歩く自分を想像出来るぐらいに、くっきりと。
月の向かって右のほっぺたに大きなクレーターがある。コペルニクス・クレーター。地球を中心に星が動いているんじゃなくて、太陽を中心に地球も動いているんだと初めて発見した人の名前がついたクレーター。その周りのすべすべした岩肌が、雨の海、虹の天江、雲の海、嵐の大洋。本で予習した内容を頭に思い浮かべながら、ぼくは望遠鏡を一心不乱に覗き続ける。
輝きのないお月様。大きな、大きな、岩の塊。なのに、夜空でぼんやり光っている時よりも不思議と綺麗。泣きそうになるぐらいに綺麗。
「ねえ、わたしにも見せて」
佐伯さん。ごめん、本当に忘れてた。ぼくは佐伯さんに場所を譲った。
佐伯さんが月を覗いている間、ぼくは星座早見盤と星空を比較して、五月の空の星座を探した。南の空にひときわ輝くあの星が、きっとおとめ座のスピカ。その近くに見えるしし座のデネボラと、うしかい座のアークトゥルスで、春の大三角。どこかに土星があるはずだ。探さないと。土星の環を観察しないで、天体観測は終われない。
「なに探してるの?」
いつの間にか望遠鏡から離れた佐伯さんが、ぼくに話しかけてきた。月の光に照らされた佐伯さんは、なんだかいつもより美人。
「土星を探してるんだ」
「土星?」
「うん。望遠鏡を使えば土星の輪っかまで見られるんだよ。見たいでしょ」
「見たい!」
元気の良い返事。ぼくは笑い、佐伯さんも笑う。星空の下で二人、何でも話せそうな明るい雰囲気。
ぼくは決心した。きっと今を逃したら、もう二度とチャンスはない。
「あのさ――」
佐伯さんの、吸い込まれそうな大きな瞳。その眼力に気圧されそうになりながら、ぼくは勇気を振り絞る。
「この間、クラスでぼくたち噂になっちゃったじゃん」
「うん。なったね」
「あれで思ったんだけどさ、佐伯さんって好きな人いるの?」
聞いた。聞いちゃった。もう後戻りできない。ぼくは張り裂けそうな心臓をどうにか抑えつけながら、佐伯さんの返事を待つ。そして佐伯さんは、何でもないことのように、あっさりと答える。
「いないよ」
ある意味では、残酷な返事。だけどぼくは喜んでいた。ぼくとしては、佐伯さんに自分以外の好きな男の子がいなければそれで良かった。
ぼくのことが好きと言ってくれなかったのは残念だけど、そんなのは当たり前。これから好きになってもらえばいい。そんな後ろ向きなんだか、前向きなんだか分からない考えをぼくは抱く。
だけど佐伯さんは、そんなぼくの気持ちなんか全く知らないで、続く言葉を吐く。
「学校で好きな人、作らないようにしてるの。意味がないから」
森が奏でる葉擦れの音が、いきなり聞こえなくなった。聞こえなくなった理由は、ぼくが佐伯さんの言葉を頭の中でぐわんぐわん鳴らしているから。だから、他の音が聞こえなくなってしまった。
好きな人を作らない。
意味がないから。
「……どういうこと?」
ぼくは尋ねる。佐伯さんは、当たり前のように答える。
「だってわたし、中学受験するから、そこでどうしてもお別れになっちゃうでしょ。だから好きな人なんか出来ても、意味ないよ」
「でも、引っ越しするわけじゃないんでしょ」
「関係ないよ。わたしのお兄ちゃんも受験して私立いったけど、小学校の友達とは一回も会ってないもん」
佐伯さんは揺るがない。答えのある問題を、答え通りに答えているだけ。
「あのね、時間は最強なんだよ」
きっと誰か大人の受け売り。僕には分かる。でもぼくには分からない。佐伯さんの口にする言葉は、全て佐伯さんの心からの言葉に聞こえる。
「いい意味でも、悪い意味でも、最強なの。時間が経てば、辛い思い出も、楽しい思い出もみんな薄れちゃう。でも薄れるだけで無くなりはしないから、楽しい思い出がいっぱいあった方がいいでしょ。だからわたし、小学校の思い出は楽しい思い出でいっぱいにしようと思ってるんだ」
佐伯さんが笑う。やがて来る別れを見据えて、今を懸命に生きているのだと、正しくて強い言葉を吐く。そしてぼくは真っ白になった頭に、疑問符つきの言葉を浮かべる。
じゃあなんで、ぼくに優しくしてくれたの?
ぼくを好きになりたくないなら、なんでぼくに特別を見せてくれたの?
佐伯さんのしっとりした笑顔。ぼくだけにくれる、特別な笑顔。あの笑顔は――
ああ、そうか。
分かった。分かっちゃった。佐伯さんがぼくに優しい理由。考えてみれば、佐伯さんがぼくにあの笑顔を見せる時は、いつもそうだった。たしかにぼくは佐伯さんの特別だ。だけどそれは好きだからじゃない。好きだからじゃなくて――
「佐伯さん」
ぼくは、僕ですらしないような、卑屈な笑いを浮かべた。
「今日、ぼくの家、誰もいないんだ」
試そう。確かめよう。本当にぼくの思った通りなのか。佐伯さんがぼくを、どういう風に思っているのか。
「だから、帰っても一人で寂しいんだ。天体観測、いっぱいしようね」
ぼくは祈る。佐伯さんの特別が来ないことを祈る。ふんわり、にっこり、そんな普通の笑顔が来ることを、強く祈り続ける。
そして佐伯さんは、しっとりと大人びた笑顔をぼくに向けた。
「うん、そうだね」
ありがとう。ぼくは、囁くように呟いた。
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