3-2

 天体望遠鏡を買った次の日、つまり誕生日の翌日に天体観測をすることにした。

 佐伯さんと天体観測に行った時に恥をかかないよう、星の本を読み漁る。星座はこれから理科の授業でもやるから、ある意味ではお勉強なのに、他のお勉強と違って全く辛くない。不思議だ。

 誕生日、ぼくは学校から走って家に帰った。化粧台の前でお出かけの準備中だった母さんが「早いよ」と笑う。今日は望遠鏡を買って、お仕事が終わった父さんと合流して、レストランでご飯。明日は佐伯さんと天体観測。これだけ予定がぎっしりなら、急ぎたくもなる。

 母さんと電車に乗って、少し遠くの街へ。天体望遠鏡はいっぱいあったけれど、とても高いものが多くて、あまり選択肢はない。でもお店のおじさんが、ちょうどいいやつを選んでくれた。実は望遠鏡を乗せる台がとても大事らしい。宇宙はとても遠いから、手元がちょっと動くだけで、望遠鏡に映る星がすごく動いてしまうそうだ。

 望遠鏡を買って、ぼくはほくほく。大きくて重い望遠鏡を「自分で持つ」と母さんの手から奪い取る。だってこれからはぼくが運ぶんだから、ぼく一人で持てなきゃ意味がないでしょ。そう言って母さんから望遠鏡を受け取って、ずっしり重さを感じながら、明日の天体観測に想いを巡らせる。

 父さんのお仕事が終わるまで時間があるから休もう。そんな母さんの提案で、近く喫茶店へ。そしてぼくが頼んだミルクにガムシロップを入れようとした時、母さんの携帯電話が鳴った。

 父さんかな。お仕事終わったのかな。ぼくの予想は半分アタリで半分ハズレ。電話の相手は父さん。でも電話の中身は――ぜんぜん違う。

「来られないって、どういうこと?」

 母さんのすごく険しい声。そして母さんは、ぼくをちらりと見ると、そそくさと席を離れる。世界が一気に色を変える。めでたしめでたしで終わるはずのお話が、悲しいお話になりかけているのが、ぼくでも分かる。

 どうしようもないことは分かっていた。だけど、今日だけはどうにかしたかった。だからぼくは、席を立って母さんの後を追った。母さんは、お店を出てちょっと歩いたところの曲がり角の陰で、泣きながら電話をしていた。

「ねえ、どうして分かってくれないの?」

 辛そうな声。ぼくは、じっと息を潜める。

「あなたがなんて言われたのか知らないけど、こういう日を狙って、そういう要求をしてくる女なのよ。何の罪もない子どもの誕生日を、当てつけで台無しにしようとする女なのよ。そんな女、腐ってると思わないの?」

 沈黙。しばらく後、母さんが叫ぶ。

「仕事なわけないでしょ! ふざけないで!」

 悪いことをしたぼくを叱る時とは、感じが違う怒り方。友達が怒った時に似ている。考えじゃなくて、気持ちで言葉が出ている。

「いつまでもあの子から逃げないで。逃げ切れるわけないじゃない。あの子は今日、あなたと久しぶりにお出かけ出来るのを楽しみにしてるのよ」

 そんなことはない。ぼくの楽しみは望遠鏡を買って貰うことと、佐伯さんと天体観測をすることがほとんど。父さんとレストランはついでだ。

 ぼくはそんなことを考えた。考えてしまった。

 だからその後の会話は、本当に辛かった。

「……それ、どういうこと?」

 母さんの冷たい声。耳から入って、全身を冷やす、怖い声。

「本当に楽しみにしてるのかなって、どういうことよ。楽しみに決まってるでしょ。あなた、父親なのよ。子どもにとって父親がどういうものか、本当に分かってるの?」

 ぼくは、声にならない悲鳴を上げた。

 見透かされていた。父さんに。ぼくが父さんとのお食事を、そんなに楽しみにしていないことを。ぼくが父さんを、好きじゃないことを。

「あの子の考えてることが分からないのは、あなたが向き合わないからでしょ! もういい! 勝手にして!」

 母さんが叫び声をあげて電話を切る。まずい。ぼくは急いで喫茶店の席に戻った。すぐに母さんは戻って来て、感情を抑えるように、静かに告げる。

「父さん、今日、お仕事で無理だって。帰って二人でお祝いしよう」

 母さんはぼくのミルクを見ると、寂しそうに笑った。

「ミルク、ぜんぜん減ってないね。早く飲んじゃいなさい」

 ぼくはこくこく大げさに頷いて、ミルクをストローですすった。ガムシロップを入れ忘れたミルクは、いつもよりおいしくなかった。


     ◆


 家に帰る途中にケーキを買って、母さんと二人で食べた。

 ぼくの好きなチョコレートのケーキ。蝋燭を十本立てるのは大変だから、大きな蝋燭を一つ立てて吹き消す。お誕生日おめでとう。母さんはそう言ってにっこり笑う。無くなりかけていた幸せがちょっとだけ戻って来た。そんな感じがした。

 そして夜中、何か硬いものが砕ける音で目が覚めた。

 お皿の割れる音だと分かった時、同じ音がもう一回聞こえて来た。「止めろ!」という父さんの叫び声。母さんも何か叫んでいる。そしていきなり、どかどかと乱暴な足音が近づいてきて、部屋の扉が勢いよく開いた。

 真っ暗な部屋に、開いた扉から光が差し込む。光の中で母さんが立って、ベッドの上のぼくを見下ろす。

「これからおばあちゃんの家に行くから、すぐに支度しなさい」

 母さんの後ろで、父さんが母さんの名前を呼んだ。母さんは振り向きもしない。今からおばあちゃんの家。それは困る。明日は佐伯さんと天体観測の約束があるのだ。おばあちゃんの家には、いつもみたいに一人で行って欲しい。

「……イヤだ。行きたくない」

 ぼくはそれだけを告げた。約束があるから行けないと、きちんと言えなかった。すると母さんは目を激しく吊り上げ、ぼくを怒鳴りつけた。

「あんたも、私を裏切るの!?」

 裏切る。

 ぼくは布団を掴む手にギュッと力を込める。なんで、なんでそんなことを言うんだ。ぼくは母さんを裏切ってなんかいない。ぼくは悪くない。悪いのは――

 悪いのは――

「もういい! 勝手にしなさい!」

 父さんに電話で言ったようなことを言い捨てて、母さんがリビングに戻った。暗闇の中で呆然とするぼくに、父さんが寄って来て声をかける。

「今日、お誕生日、行けなくてごめんな」

 暗くて、父さんの顔がよく見えない。なんとなく、疲れた顔をしている気がする。

「ケーキ買って来たから、明日、食べてくれ。冷蔵庫に入っている。お前の好きなショートケーキだぞ」

 ぼくが好きなのはチョコレートケーキ。ショートケーキが好きだったのは二年生まで。だけどぼくは、そんなことは言わない。

「うん。分かった」

 父さんが暗闇の中で笑う。そしてぼくの部屋から出て行って、「おやすみ」と言って扉を閉める。ぼくはなんだか眠れなくて、部屋の電気をつけた。

 脱ぎ捨てたズボンのポケットを漁る。指先にプテラノドンのキーホルダーが触れる。ぼくはそれを取り出して、二つの鍵がついたキーホルダーをぼんやり眺める。

 父さんに買って貰ったキーホルダー。今のぼくが一番興味を持っているのはお星さまだけど、父さんはまだぼくは恐竜が一番だと思っているのかな。ぼくがチョコレートケーキを好きなことを、知らなかったみたいに。

 秘密基地の鍵をそっと撫でる。硬くて冷たい金属なのに、触ったところからじんわり、熱が伝わって来る気がする。

 秘密基地に行きたい。明日も行くけれど、今すぐに行きたい。扉の向こうで続く怒鳴り声を聞きながら、ぼくはぎゅっと鍵を握りしめた。

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