1-4

 食べ終わった食器をキッチンの流し台に持っていくと、老人は「偉いな」とぼくを褒めた。「洗います」とも言ったけれど、その申し出は断られた。どんくさそうだから割られると困ると、冗談っぽく笑われながら。

 しょうがないのでテレビを見ながら居間で待つ。居間の奥には、もう一つ先の部屋に繋がるふすまがある。お仏壇はあっちにあるのかな。ふすまを開ければ分かるけれど、そんな勝手なことは出来ない。じっとしていよう。

 しばらく経って、キッチンから聞こえていた水流の音が止まった。そして老人が現れ、座るぼくに立ったまま声をかける。

「一つ聞きたいんだが、お前、なんで、あの森の家に入ったんだ?」

 家に入った理由。改めて聞かれると、返事に困る。

「えっと、上手く言えないんですけど、ワクワクして、なんていうか――」

 ぼくは言葉を探す。そしてあの家を見つけた時の印象にピッタリの言葉を見つけて、それを口にした。

「秘密基地みたいだって思って、興奮しちゃいました」

 秘密基地。その単語を聞いた老人の声が、何か思いついたように大きくなった。

「お前、あの家、使いたいか?」

 意味が分からない。ぼくは首を傾げ、老人は言葉を継ぎ足す。

「秘密基地にしたいなら、してもいいぞ。もちろん、汚したり、壊したり、燃やしたりしないと約束はしてもらうがな」

 あの家がそっくりそのまま、ぼくの秘密基地。ぼくは勢いよく喰いついた。

「本当ですか?」

「本当だ。あの家、使いたいか?」

 使いたいに決まっている。ぼくは「はい!」と大きく頷いた。

「そうか。じゃあ、いいものをやろう」

 老人はそう言うと、一度、ふすまを開けて居間の奥の部屋に行った。そしてしばらく経って戻って来ると、少しくすんだ銀色の小さな鍵をぼくに手渡した。

「あの家のスペアキーだ。鍵が壊れているから使うことは出来ないが、あの家がお前のものになったという証拠として、もっておけ」

 鍵は大事なもの。僕にとってもそうだけど、ぼくにとってその価値は桁違い。思わぬプレゼントに、ぼくのテンションは急上昇した。

 いそいそとポケットから自分の家の鍵を取り出す。そしてプテラノドンのキーホルダーに、貰った鍵を取り付けはじめる。すると老人が、ぼくのキーホルダーを見て呟いた。

「お前、恐竜が好きなのか」

 ぴたりとぼくの作業が止まった。恐竜は好きだ。好きだけど――

「――好きです」

「そうか。賢介も好きだった。男の子はみんな好きなんだな」

 老人がしみじみと頷く。ぼくは黙って作業を再開。やがて作業は終わり、鍵をポケットにしまって、ぼくはすくっと立ち上がった。

「いろいろ、ありがとうございました。ごはん、おいしかったです」

「帰るのか?」

「はい」

「そうか。外はもう真っ暗だ。送っていくから家まで案内しなさい」

 老人が立ち上がって、ぼくより先に玄関に向かう。ぼくは来る前に「おうちの人に言うぞ」と脅されたことを少し気にしていて、あんまり家の場所を教えたくなかった。だけどもう仕方ない。諦めて、老人と一緒に外に出る。

 来た時と違って、老人はぼくに色々なことを尋ねてきた。それに答えているうちに、ぼくの住むマンションへと到着。ぼくはマンションの総合玄関前まで来ると「ここでいいです」と告げ、最後のお礼を言おうと口を開いた。

「えっと――」

 なんて呼ぼうかな。田原さんかな。そんなことを考えて口ごもっていると、老人がぼくの気持ちを汲み取って先回りした。

「じいちゃん、でいいぞ」

 じいちゃん。それはちょっと仲良しすぎないだろうか。戸惑うぼくに、老人はさらに言葉を重ねる。

「それとですますは止めてほしいな。もっと友達みたいな話し方でいい」

 ぼくはびっくりした。先生に教わったことと違う。

「でも、おとなの人と話すときはこれが正しいって先生に言われました」

「大事なのは、正しいか正しくないかじゃない。嬉しいか嬉しくないかだ。俺はお前から友達みたいに話しかけて貰えた方が嬉しいぞ」

 正しいか正しくないかじゃなくて、嬉しいか嬉しくないか。ぼくは納得し、こくりと首を縦に振った。

「分かりました」

 あ、ちがう。「分かった」だ。ぼくは口に手を当て、老人――じいちゃんは呆れたようにふんと鼻で息をした。

「その分だと、まだまだ時間がかかりそうだな」

 じいちゃんが屈み、ぼくと目の高さを合わせた。そしてしわしわの目でぼくをじっと見ながら、おもむろに口を開く。

「あのな、学校の先生の言うことも大事だけれど――」

 きっとじいちゃんはぼくのことが心配になったのだろう。導いてくれる人がいないように見えたのだろう。だから突然、ぼくにあんなことを言った。

「大人はみんな、子どもの先生だ」

 じいちゃんがぼくの頭に手をやった。ことあるごとに頭を撫でられている気がする。イヤじゃないから、いいけれど。

「お前たちは色々な大人を見て、ああなりたい、ああはなりたくないと思う。そしてそういう風に育つ。だから大人はみんな子どもの先生だ。職業じゃなくて、役割なんだよ」

 なんとなく分かる気がした。なりたい大人。なりたくない大人。

「いい先生を見つけろ。ああいう風になりたいと思える大人を。そうすればお前は道を間違えることはない」

 じいちゃんがぼくの頭から手を離した。月明かりに青白く照らされたじいちゃんの表情はキリッとしている。先生は職業じゃなくて役割らしいけど、やっぱりじいちゃんは先生をお仕事にしていただけあって、先生っぽい。

 ぼくは背筋をしゃんと伸ばした。そして真っ直ぐにじいちゃんの目を見て答える。

「はい」

 じいちゃんが笑う。ぼくもなんだか嬉しくなって、つられて笑った。


     ◆


 鍵を開けて家の中に入ると、人の気配がしない静かな玄関がぼくを出迎えた。何だか家が、さっきまでじいちゃんと歩いていた外よりも暗いように思えた。

 リビングに行って電気をつけ、ゲームボーイの電池を交換してゲームを始める。でも不思議とのめり込めない。色々あって興奮しているのかもしれない。あんな凄い秘密基地を手に入れてしまったのだから。

 ぼくはポケットをまさぐり、鍵を取り出した。プテラノドンのキーホルダーにくっついた二つの鍵。秘密基地を持っている子は多分いっぱいいる。でも他人の家をそのまま丸々秘密基地にしている子なんて、きっとぼくぐらいだ。

 そこでぼくは閃いた。そうだ、いいことを思いついた。今日はどうせ誰も帰ってこないのだから――

 秘密基地で寝よう。

 そうと決まれば善は急げ。毛布を胸に抱え、再び夜の街にくり出す。真っ暗で、人もいないのに、なぜだかあまり怖くなかった。ワクワクする気持ちの方が勝っていた。

 マムシの森はさすがに不気味だった。秘密基地に向かう細道は特に。だけどここまで来て引き返すわけには行かない。それは臆病者のすることだ。

 ぼくはずんずんと秘密基地に向かって歩みを進める、秘密基地付近に到着すると頭の上を覆う木々が無くなって、途端に月明かりで周囲が明るくなる。

 そしてぼくは夜空を見上げ――小さな声を漏らした。

「うわあ」

 星、星、星。

 キラキラ、眩しい、お空にめちゃくちゃに穴を空けたみたいな星空。遠足で行ったプラネタリウムより凄い。こんなにぎっしりと詰まっているのに、明るいお星さまと暗いお星さまの違いがはっきりと分かる。ただ光の点を並べただけでは絶対に出ない煌めきが、目から頭の中に突き刺さるように伝わって来る。

 まだ授業では習っていないけれど、星座があるはずだ。でもどれだか分からない。だってこれだけお星さまがあれば、どんな絵だって描けるように思える。ああ、プラネタリウムに行った時のお話、もっとちゃんと聞いておけば良かった。

 ぼうっと星空を眺めているうちに夜の森に対する恐怖心が薄れる。夜空の観察を止めて秘密基地に入る頃には、すっかり満足した気分。家の中は暗すぎたので、雨戸を少し開けて月光を取り込む。毛布を被って横になると、すぐにうとうと。意識が、暗闇の中に溶けて行く。

 ――ぼくの秘密基地。

 手に入れた。ぼくの、ぼくだけの秘密基地。一人で家にいるのがイヤになったら、母さんがおばあちゃんの家に行くように、父さんがぼくの知らない女の人のところに行くように、ぼくは秘密基地に行けばいい。ぼくはついに、ぼくの場所を手に入れたのだ。

 でもじゃあ、あの家はどうしよう。

 誰もいなくなっちゃったあの家は、どうすればいいのかな。

 分からない。分からないことは考えない。とりあえず明日、学校の図書室でお星さまの本を借りよう。ぼくはそんなことを思いながら、すうと寝息を立てた。

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