第二章「花瓶を割る人」
2-1
秘密基地が出来てから、ぼくの趣味が増えた。
それは図書室で星の本を借りて読むこと。北斗七星、カシオペア、夏の大三角、冬の大三角。僕は当然のように全部知っているけれど、ぼくにとってはぜんぶはじめて。面白かった。星座早見盤も買った。だけど深い夜に秘密基地に行くチャンスはなかなかなくて、綺麗な実物を見られないのは不満だった。
――母さん、また家出しないかな。
そんなことを考えている自分が何だかおかしい。だって母さんがいなくなることを期待するのは悪いこと。もっとも母さん本人は、秘密基地に出かけたせいで帰って来るのが遅くなるぼくを見て、むしろ上機嫌なのだけれど。
「やっぱり子どもは、外で遊ばないとね」
ある日、秘密基地から帰って来たぼくに、母さんがそう言った。ぼくはちょっと申し訳ない気分になる。だってぼくは秘密基地と家で、あまり違うことはしていない。ゲームをしたり、本を読んだり、ゴロゴロしたり、たまに勉強したりだ。とらじろうにご飯をあげにくるじいちゃんは、そんなぼくにちょっと呆れていた。だけどお菓子をくれたり、本をくれたり、勉強を教えてくれたり、なんだかんだでぼくに優しかった。
何にもないように見えた秘密基地には、じいちゃんと家族の思い出がいっぱい詰まっていた。例えば、部屋の畳の中に一枚、大きな焦げ跡がついた畳がある。これはじいちゃんの子どもがふざけてストーブを倒して出来てしまったもの。泣くまで叱ったら家出して、でも怖くなって、泣きながら帰って来たらしい。じいちゃんは懐かしそうな顔で、笑いながら、ぼくにそういう思い出をいっぱい話してくれた。
秘密基地に通っているうちに、とらじろうとも仲良しになった。とらじろうのご飯をぼくがあげることもある。だからぼくが秘密基地に遊びに行くと、じいちゃんがいなくてもとらじろうがすり寄ってくる。とらじろうは甘えんぼうで自分勝手で、放っておくと撫でろと腹を見せて踊るくせに、いつまでも撫で続けるといきなり怒りだす。でもそれが、またかわいい。
相変わらず一緒にゲームをする相手はいないけれど、前より寂しくはない。うんと年の離れたじいちゃんと、首輪をつけて人懐っこい飼い猫みたいな野良猫が友達のちょっと変わった男の子。それが、その頃のぼく。
だけどそんなぼくも小学校四年生になり、大きな転機を迎える。
好きな女の子が出来たのだ。
◆
ぼくの好きな女の子。同じクラスの佐伯紗耶香さん。
髪が長くて、背が高くて、目と鼻がくっきりした美人な子。頭もとても良い。私立の中学を受験するために、毎週火曜日と木曜日に学習塾に通っていて、その塾では一番上のランクのクラスにいるらしい。
そんな佐伯さんは、ぼくのクラスではとても人気があった。ぼくは三年生の頃は、ぼくが好きになってもどうしようもない女の子だと勘づいていたので、あんまり佐伯さんに興味はなかった。友達でも何でもないから、分かっていて好きになっちゃうこともない。
だけど四年生最初の委員会決めで、状況が変わった。
ぼくと佐伯さんが同じ放送委員になったのだ。仕事が多い放送委員はあまり人気がなくて、ぼくは図書委員が良かったんだけど、立候補多数の上にじゃんけんで負けてしまい、あぶれて入った形。でも佐伯さんは、最初から放送委員に立候補していた。
「これから一年間、よろしくね」
委員会が決まってふんわりと笑う佐伯さん。ぼくはちょっとドキッとした。だけどさすがに、それだけで好きになるまでは行かない。好きになったのは、初めて二人で委員会の仕事をした時。
その仕事は放送じゃない。佐伯さんが最初の委員会の集まりで提案したアイディアを、実現するための作業。
「朝の放送で、その日にお誕生日の子を呼んであげると喜ぶと思います」
新しい企画を考える会議で出た佐伯さんの意見を、放送委員会の先生は絶賛し、同じ放送委員の仲間は微妙な顔をした。だって佐伯さんのアイディアはイコール、全校生徒の誕生日を把握するということなのだ。
全クラスの先生から、生徒の誕生日が書かれた紙を集めるところまでは簡単。だけどそこからカレンダーに名前を書き写すのは本当に大変。一個のカレンダーにまとまっていないと意味がないから、分担して同時に作業は出来ない。分担して順番に作業なら出来るから、そうすることにした。
最初の作業担当は、言いだしっぺの佐伯さんと同じクラスのぼく。放課後、教室に誕生日が書かれた紙束と大きなカレンダーを置き、読み上げ係のぼくと記入係の佐伯さんで作業をはじめようする。すると佐伯さんは、びっくりするようなことを口にした。
「これ、わたしたちでぜんぶやっちゃおうか」
さすがに耳を疑った。全校生徒の誕生日を一人一人カレンダーに書き移していくしか方法がないことを、本当に分かっているとは思えない。
「ぜんぶは大変だよ。順番にやるしかないんだから」
「分かるよ。でも他の子たち本当はやりたくないって感じだから、任せたくないの」
佐伯さんは少し怒っているようだった。気が強い。しっかりしているイメージだし、あんまり意外ではないけれど。
「途中で帰ってもいいよ。どうせ今日中には終わらないし」
残業嫌いの僕なら「そうですか。じゃあよろしくお願いします」と帰ってしまうかもしれない。でもぼくは、そうしなかった。
「帰らないよ。最後まで一緒にやろう」
佐伯さんはきょとんとしていた。自分で言い出したのに、付き合ってくれると分かって驚いているようだ。そして佐伯さんは、ぼくに向かってにっこり笑った。
「ありがとう」
ぼくはまたもやドキッとした。でももう一押し。まだ好きにはなっていない。
結局、その日中に作業は終わらなかった。夕方になって見回りの先生に帰されてしまったのだ。ぼくたちは一緒に、日の落ちかけたオレンジの道を並んで帰った。春になったばかりで、通学路の桜はまだまだ綺麗に咲いていた。
「遅くなっちゃってごめんね」
「いいよ。どうせゲームしかやることないし」
それか秘密基地に行く。秘密だから、言えないけれど。
「ゲーム、何やってるの?」
「ポケモン」
「あ、最近、アニメ始まったよね。わたしも見てる」
佐伯さんが朗らかに話を膨らませる。膨らませて欲しくないところまで。
「交換とかするの?」
なんて酷いことを聞くんだ、佐伯さん。それはぼくのような子にとってタブーなのに。
「しないよ」
「どうして?」
「だってぼく、そういう友達いないし」
ぼくは顔を背ける。友達がいないことが恥ずかしくて、友達が出来ない。その頃ぼくは、そういう負のスパイラルに陥っていた。きっと佐伯さんもぼくなんか見限って離れてしまう。そんな卑屈な考えを抱きながら、ぼくは背けた顔から横目で佐伯さんを見る。
だけど佐伯さんはぼくに向かって、今まで見たこともないようなとても大人びた顔で、優しく微笑んでいた。
「それなら、わたしが交換相手になってあげようか?」
ここだ。ぼくが佐伯さんを好きになったのはここ。僕はよく覚えている。
友達と喋っている時とは違う落ち着いた笑顔。ふんわりでも、にっこりでもなくて、しっとりした笑顔。不思議なときめきに胸を支配され、ぼくは少しどもりながら答える。
「佐伯さんもポケモン持ってるの?」
「ううん。今度、買うかもしれないの。赤と緑があるんだよね。どっち買えばいい?」
「ぼくは緑だから、交換してくれるなら赤がいいな」
「分かった。じゃあ赤にするね」
ぼくのために佐伯さんが赤を買ってくれる。ぼくのために。通信ケーブルはこっちで用意しよう。それが礼儀というやつだ。
ぼくは分かりやすく調子に乗る。だけど佐伯さんは全く気にしない。ふと脇道に野良猫を見つけると、ぼくのことなんか全く無視して駆け寄った。
「あ、猫!」
野良猫と佐伯さんはしばらくにらめっこをしていた。だけどやがて、猫がさっと消えてしまう。佐伯さんは残念そうに「あー」と声を上げた。
「猫好きなの?」
「うん、大好き。でもママが猫アレルギーだから飼えないの」
悔しそうに、佐伯さんが口を尖らせる。そしてぼくはとらじろうのことを思い出し、頭の中に誘い文句を浮かべる。
――仲良くしてる野良猫がいるんだけど、見に来る?
動物をネタに女の子を誘うなんて、僕からしたらナンパ師の行為だ。笑ってしまう。だけどぼくは真剣だった。そしてめいっぱい真剣に考えた結果、恥ずかしくて言えず、そのまま佐伯さんと別れる場所まで来てしまった。
「じゃあ、また明日ね」
手を振ってバイバイしてから、ぼくはほぅと熱い息を吐く。秘密基地が秘密でなくなる日も近いかもしれない。そんな浮かれた考えが頭から消えなくて、ぼくはしばらく、夢を見ているように呆けていた。
だけど世の中、幸せなことばかりは続かない。悪いことは、重なるくせに。
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