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 勢いで「はい」と言ってしまったけれど、やっぱりおかしい。ぼくは「知らない人の家にはいけないから、いいです」と断り直した。すると老人は、ぼくに選択を迫った。言いかえると、ぼくを脅した。

「先に知らない人の家に勝手に上がったのはお前だろう。来ないならおうちの人に、今日のことを言うぞ」

 ――それは困る。とても困る。マムシの森に探検に行っただけでも怒られそうなのに、さらに他人の家に上がり込んだなんて、どれだけ怒られるか分からない。

 ぼくは黙り込んだ。すると老人は、ぼくの頭をくしゃくしゃに撫でた。

「心配するな。取って食おうってわけじゃない。ただお前みたいな小さい子にはしっかりした夕飯を食べさせたいだけだ」

 さっきは「俺が変質者だったらどうする」とか言ったくせに、今度は「心配するな」と正反対のことを言う。でもその手のひらと声がとても温かくて、ぼくはこくりと頷く。僕が言うのもなんだけど、単純な子どもだ。

「よし。それじゃあ、ついてこい」

 老人がぼくを先導するように歩き出した。ぼくはその少し離れた後ろを黙ってついて行く。老人はぼくの名前と学年だけを聞き出し、あとはずっと喋らなかった。森を抜けて近くの古びた二階建てアパートに着くまで、ぼくたちは無言の行進。

「ここだ」

 老人が鍵を取り出し、一階奥の部屋の扉を開けて中に入った。ぼくも「おじゃまします」と言いながら、靴を脱いで玄関を上がる。玄関に入ってすぐが水回りでキッチン。その一個先の部屋は、ちゃぶ台やテレビが置かれた畳の居間。

「テレビでも見て待ってろ」

 座布団が置かれた。ぼくは何だか変なことになったなあと思いながら、置かれた座布団の上に座って、ちゃぶ台の上のリモコンを使ってテレビをつける。いつも見ているバラエティ番組にチャンネルを合わせてしばらくテレビを見ていると、ふと、テレビの横に置いてある写真立ての写真が気になった。

 真面目な表情のお兄さんと、少し恥ずかしそうにはにかむお姉さんと、笑顔の男の子。お兄さんはたぶんあの老人。厳つい顔立ちにぼんやり面影が残っている。右目の横の泣きボクロが特徴的なお姉さんは奥さんで、幼稚園生ぐらいの男の子は子どもだろうか。

 奥さんと子どもがいる。でも家の中に他の人がいる気配はしない。写真が古いのも気になる。興味津々だ。

「出来たぞ」

 ぼくが想像を巡らせていると、老人が夕ご飯を持って居間に入って来た。焼き魚、ご飯、お味噌汁、卵焼き、おつけもの。まるで朝ご飯みたいなメニュー。こんなしっかりした朝ご飯、ぼくは食べないけれど。

「いただきます」

 老人は両手を合わせてそう言うと、食べ物に手をつけた。ぼくも同じようにして、まずは卵焼きに箸を伸ばす。そして一切れ口に入れた瞬間、びっくりして呟いた。

「しょっぱい」

 老人が、ぼくの顔を不安げにのぞき込んだ。

「美味しくないか?」

 ぼくは、ふるふる首を横に振る。

「ううん。美味しいです。うちの卵焼きは甘いから驚いただけ」

 それと白身がもっとどろどろしている。わざわざ言わないけれど。

「そうか。卵焼きは家庭の味が出るからな」

 家庭の味。確かに母さんが作る以外の卵焼きを初めて食べたかもしれない。とりあえずぼくはこのしょっぱい卵焼きも悪くないけれど、母さんの卵焼きの方が好きだ。

「お前のお母さんは、今日は何をしているんだ?」

 老人が焼き魚をほぐしながらぼくに質問をしてきた。この質問、僕ならごまかす。でもぼくは正直に答えてしまった。

「家出です」

 老人の箸がぴたりと止まった。

「家出?」

「はい。おばあちゃんちに行っています」

「お父さんはどうした」

「えっと、今日は帰れないそうです」

 ぼくはたどたどしく言葉を紡ぐ。僕はそんな家庭のこみいった事情を他人に言うべきではないと知っているけれど、ぼくにはそれがあまり分からない。子どもの口に戸を立てることは不可能だ。

「……そうか。変なことを聞いて悪かったな」

 老人がポツリと謝った。ご飯を貰っているのに謝らせてしまった。ぼくはフォローを入れ、そして墓穴を掘る。

「よくあることなので、気にしないで下さい」

 老人が眉間に強く皺を寄せた。心配するのも無理はない。でもぼくは怒らせてしまったと勘違いして、肩をすくめた。

「お前は、俺に聞きたいことは無いのか?」

 話題を切り替える老人。いきなりの質問に、ぼくはきょとんとする。

「お前は聞けって言わないと聞かないだろう。何でもいいから言ってみろ」

 何でも。そう言われても、いっぱいあり過ぎて困る。とりあえず――

「お名前は、なんですか」

 基本中の基本。老人は、なんだか恥ずかしそうに笑った。

「そうだな。すっかり忘れていた。田原幹久だ」

 たはらみきひさ。ぼくは頭の中で一回名前を呼んでから、次の質問をした。

「おじいさんは、なにをしている人なんですか?」

「何もしていない。定年して無職だ。定年は分かるか? 辞めなくちゃいけない歳まで仕事をして辞めることだ。辞める前は先生をやっていた」

「先生!」

 なら会ったことあるかも。そんなぼくの興奮を、老人がすぐに打ち砕く。

「高校の先生だから、お前とは関係ないぞ」

 なんだ。ぼくはがっかりと肩を落とした。

「他には聞きたいことはないのか?」

 聞きたいこと。ぼくは、ちらりとテレビ台の上の写真立てを見た。

「ここに一人で住んでいるんですか?」

「そうだ」

「あっちの、森の家は? 昔、住んでたんですよね?」

「最近、引っ越した。色々とガタが来ていてな。あそこは買い物にも不便だ」

「でも、鍵、開いてました」

「壊れたんだ。それも引っ越した理由の一つだな」

 矢継ぎ早な質問と応答。そしていよいよぼくは、本命の質問をぶつける。

「奥さんと子どもは?」

 老人が少し口ごもった。でも、すぐに答える。

「今は、どちらもいない」

 つまり昔はいた。色々考えて、ぼくの質問が止まる。すると老人が、ふっと笑った。

「お前は正直に話してくれたのに、俺がそれは酷いよな」

 老人が立ち上がり、テレビ台の上から例の写真立てを持ってきた。そして満面の笑顔を浮かべる子どもを指さしながら、説明を始める。

「この子は俺の息子の賢介だ。今は事情があって遠いところにいる」

「遠いところ?」

「ああ。とても遠いところだ」

「外国ですか?」

「違う。もっと遠い」

「宇宙?」

「それよりも遠い」

 宇宙よりももっと遠いところ。そんなところ、あるのだろうか。ぼくは考える。そしてすぐに一つの答えに思い至り、ハッと息を呑む。

 ――天国だ。

「死んじゃったんですか?」

 老人は答えない。ただ寂しそうにぼくを見る。当たりだ。理屈ではなく、感覚でそれが分かった。

「病気だったんですか」

「違う。病気なんてない」

「じゃあ、事故」

 ぼくがそう言った瞬間、老人がきゅっと唇を噛んだ。いやなことを思い出させてしまった。ぼくは深く頭を下げる。

「ごめんなさい」

「いや、いいんだ。気にするな」

 言葉とは裏腹の辛そうな顔に、ぼくは胸を痛める。「死」という強い言葉を避けて、「遠いところにいる」なんて言い方をした気持ちが分かる気がした。僕から言わせれば、まだまだぼくは、何も分かってはいないけれど。

「そしてこっちが――」

 老人の指先が子どもから、その横で少し照れたように笑うお姉さんに移った。

「妻の百合子だ。賢介が遠いところに行ってから、まあ、色々とすれ違いがあってな。そんなこんなで俺は今、一人暮らしだ」

 説明が終わって、写真立てがカタンとちゃぶ台の上に置かれる。シンと場が静まりかえる。ぼくのせいで暗くなってしまった。なんとかしかきゃ。

 ぼくは写真立てを手に取って話題を探す。よく見たらこの子、ぼくがもっと子どもだった頃に似ている。

 ――そうだ。

 ぼくは、写真を指さしながら老人に語りかけた。

「この子、ぼくにちょっと似てますね」

 だめだよ、ぼく。それはだめ。そういう掘り返し方は、良くない。

 僕が居れば、きっと諌めた言動。でもぼくはそれで少しでも場を明るく出来ればと本気で思っていた。楽しかった思い出でも思い出したくない時はある。それが幼いぼくには分からなかった。

 そして老人は、力なく笑った。

「お前と賢介は違うよ」

 同じなんて言っていません。ぼくはその言葉を飲み込んだ。なぜ言えなかったのか、僕も上手く言葉に出来ない。

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